破壊的な慣例を競う

科学的空想

第1話


 住宅街を自転車で走りぬける。流れてくる匂いに促されペダルを踏む脚に力が入る。

 カレーだろうか、肉の焼ける匂いであろうか。

 午後七時前後のこの辺りは、いつもこうだ。いや日本中がそうなのであろう。

 うちの晩飯はなんだろう。それを考えただけで腹が鳴った。

 ガレージ脇に自転車を突っ込むと、急いで家に入る。

 匂いがない。その異変にすぐに気がついた。

「ただいま」

 靴を脱ぎ、リビングに入る。やはり晩飯の用意がしていなかった。

 想像でパンパンに膨らんだ小さな希望がしぼんでいく。

 恐らく夫婦喧嘩したのだろう。いつものパターンだ。中二の育ち盛りの息子が、部活から腹を空かして帰ってきたというのに。

 忘れた頃にやってくる夫婦喧嘩という、この迷惑な行為を犯罪として刑法で罰してほしいと切に願う。

 親父はソファーに座って腕組み、足組をしてテレビを見ている。

 テレビでは、ぼかしが入り、声を加工されたおっさんが警察官に悪態をついている。警察の密着もののようである。

「私は酔ってにゃいんだよ。なに、触るな、この、このバカおまわり!」

 いつになってもこの手のおっさんがいなくなることはない。日本の慣例だ。

「帰ったか。幸太郎」白々しく親父が答える。

「喧嘩したの?」

「ああ。いや、急に怒りだして。勝手に。おりゃ知らねえよ」とぼける親父。

「また、何か言ったんだろ」

「それより、どっか行くか? 腹減っただろ」

 そういう訳にはいかない。

 親父を無視し、両親の寝室へ向かう。

 原因はなんであろうか。経験上、二人の喧嘩となる要因は以下の三点に絞られる。

 両者が巨人と阪神という相容れない球団をそれぞれが愛顧していることからくる確執。

マンガとアニメに関する考察、及びマンガと小説に関しての考察においての埋めがたい意見の相違。もしくは俺の高校進学問題。

 最後の要因だと、少し肩身が狭い。

 人というのは、同じようなことに腹を立て、同じようなことで喧嘩するものだ。

 以前はマンガと小説、どっちがすごいかで喧嘩をしていた。

 父が言った。所詮マンガはサブカルチャーであり、子供向けのコンテンツ。小説は文化であり、ノーベル文学賞もある。ノーベル漫画賞ができたら認めてやろう。

 母が返す。ふざけんな。小説なんか字が書けりゃ誰でも書ける。マンガはそうはいかない。絵を描けて、話も作れる人間である時点ですごいことなんだ。

 ということで、その日の晩飯はホカ弁になった。

 お互いのルールを押し付けると、こうなる。自国のルールを押しつけようとすれば戦争になる。

 まあ、どっちにしろ。晩飯にありつくために、母朱美の機嫌をなおさないといけない。

 父母で使用している寝室をノックする。

 返事はない。ドアには鍵が掛かっている。

 再度ノックし「俺だけど」と添える。

「何?」と母の声。

「どしたの?」

 しばらくしてドアが開いた。

 母はすぐに体の型の残ったベッドに飛び乗り、横になった。

「で、原因は?」

「何が?」

 何がじゃねえだろ、という気持ちを抑える。

「親父と、何かあったんだろ?」

「ああ。あいつがさ、テレビ見ながらさ、やっぱり女の運転はこれだからとか、こうなんだよ。とかブツブツうるさいの聞いてたら腹たってきてさ」

「なるほど。古い男の悪い癖だよ」

「あ、腹減ったでしょ?」

「まあ」

「悪いわね。すぐ作るわ」

「謝らせようか?」

「いいよ、もう。めんどくせえ」

 母が台所に向かった。

「はあ」ため息を一つつくと、食事の準備をはじめた。

「やっぱり女性警官は心遣いが細やかだね。こういうのは男にはできないよ」

 テレビを観ながら親父が白々しく大きな声を出す。

「あ?」母が親父を睨みつける。

「男はだめだな。やっぱり女性はすばらしいよ。母さんを筆頭にな」

「ああ、はいはい。わかったから、あなたは食器だしてよ。幸太郎は座ってなよ」

「はーい」親父が、うれしそうにソファーから立ち上がる。

 俺は食卓についた。一息つく。これがうちの慣例だ。

 あれ、椅子が二つしかない。いつも誰がどこに座っていたっけ。まあいいか。

 俺は母を見た。

「仲直りできた?」

「うん。ありがとう、幸太郎」

 良かった。その瞬間、意識が遠のいていくのを感じた。ああ、腹が減ったなあ。


 朱美の前で座っていた幸太郎が頭をカクンと垂れた。

 朱美は晩御飯の支度を続ける。

「あなた、幸太郎を片付けてあげて」

「ああ」

「しかし、よく出来てるよね『夫婦喧嘩仲裁中学生幸太郎君』」

「子供の頃流行ったよね、何か白塗りで、ダメよー、ダメダメダメ、とか言うの」

「ああ、あったなあ。何ちゃんだっけなあ」

「弘美ちゃん?」

「いや、なんだっけ、少し違うような。しかし、あれが現実になっちゃうんだから」

「そう言えば、ノーベルマンガ賞の発表明日だね」

「そうだな」

「日本人が取るかな」

「どうだろう。まあ俺は興味ないけどな」

「もう、また」

 その時玄関が開く音がした。鍵は締めているはずだ。

 玄関が締まる音がして、足音が近づいてくる。誰かが無断で入って来ている可能性が高い。

 朱美は健介を見た。

「そっちにいろ」台所の奥を指差すと、健介は玄関へ向かった。

 朱美は持っていた包丁を強く握りしめた。

「誰だ!」健介の声だ。

 それから、何も音がしない。どうなったのか、様子がわからない。

 廊下に人影が見えた。

 朱美の前に人が現れた、健介ではない。

 黒いスーツの男、その後ろにはもう一人知らない男。

 その手には何か黒いものが、まさか。

 男がそれを朱美に向けた。その瞬間朱美の意識は遠のいた。

 そうか私も幸太郎と同じだったんだ。意識がなくなる瞬間、朱美はそのことを思い出した。


 リモコンを持った君島が、停止した朱美の頭を叩いた。

「よし止まったな」

「こいつらは、まだ自動停止プログラムを載せてないですからね」上田が答えた。

「しかし上田君。どっちもよく出来てるな『プチ喧嘩夫婦、健介と朱美』もいい感じだ」

「親孝行アンドロイドはともかく、プチ喧嘩夫婦で需要あります?」上田は聞いた。

「まあ、色々試している段階だからね。東京五輪に合わせて実用化だから」

「しかし、また東京でオリンピックって、三回目ですよ。いい加減地方でやってくれって感じですよね」

「まあ結局日本=東京なわけよ」

「でも、これだけ人間性豊かなら、もう実用化できますよね。もう親孝行とか限定しなくていいんじゃないですか?」

「それだと問題があるんだよ。いきなり万能なものを投入すると、人は恐れをなして拒絶しちゃうんだ。防衛本能なんだろうな。だから他の能力はカットして、この状況だけに対応できるアンドロイドにしてある。オリンピックでもアンドロイドチェックがあるしな。人間界のルールに合わせてな」君島が大きく頷く。

「難しいですよね」上田は相槌を打つ。

「大阪に戻るの?」君島が訊いた。

「ええ、リニア取ってあります」上田は答えた。

 君島はうなずくと、端末を取り出し、幸太郎たちのモニターデータを閲覧しはじめた。

「え?」

 誰かに呼ばれた気がして上田は振り返った。そこには健介がただ立っていた。

 しかし、上田にははっきりと聞こえていた。

 上田は思った。健介、待っていてくれ。もう少し待ってくれ。


 リニアの時間があるので、と出ていった上田が車に乗ったと連絡をうけ、君島は手を大きく一つ叩いた。

「ごくろうさん。もう、いいよ」

 その君島の言葉と同時に、動きを止めていた三人が動き出した。

「あー、疲れた」今回幸太郎役をやった少年が立ち上がり、腕を伸ばした。

「こっちは、立ったまま止まってなきゃいけないから、余計疲れたよ」

「ほんとよねー。しかしリニアがもう走っていると思っているんだから、すごいよね、上田さん」

 この夫婦役のふたりは夫婦ではない。君島の研究所の関係者だ。少年は芸能事務所に依頼して来てもらった。

「よし、帰ろうか」

 君島は三人に声を掛けた。

 まだ少年が動こうとしない。

「おい、行くぞ」

 大きな声でも、少年は止まったまま動かない。

「おい、もういいんだよ」

 君島が少年の肩を叩くと、そのままの体勢で少年は床に倒れた。金属の太い棒が倒れるような音を伴いながら。

「おい」

 その時ふと廊下を見ると、上田が立っていた。

 どういうことだ。この患者は車で入院先の病院に戻ったはずだ。何かの手違いなのか。

 とりあえず芝居を続けるしかない。

「ど、どうした上田君。リニアの時間は?」

「リニア?」

「そうだ」

「なんで、お前、止まんねえんだよ」

「は?」

「もうクライアントがくるから、そこに立っておけ」

 そうか、病状が悪化しのかもしれない。少し様子を見るしかない。

 そこに出ていった健介が帰ってきた。おお、助かった。

「この少年が倒れた。どうにかしないと。まず救急車を呼んでくれ」

 君島は健介に言った。しかし、健介は困ったように目をそらした。

 そして君島が思ってもいないことを上田に言った。

「こいつ、停止してませんね」そう言う健介の指は君島をさしていた。

「アンドロイドの規格がバラバラで、ルールが統一されてないからな。営業するほうも大変だよな」上田が答える。

「もう、疲れましたよ。アンドロイドのマネは」健介が嘆く。

「すまんな。お前、さっきさ、止まってる時に、うっ、て言ったからびびったよ。これは早目に切り上げなねえとなあって」上田が笑う。

 それを聞いて、頭を掻いている健介。

 どうなっている。どういう意味だ。

 するともう一人男がリビングに入ってきた。見たことのない男だ。

 病院関係者か、病院の車のドライバーに違いない。新しく治療に取り入れた、ロールプレイング療法だ。ちゃんとしてくれないと苦労が水の泡だ。

「君、ルールを守ってくれないと困るよ!」君島は怒鳴った。

 が男は、素知らぬ顔だ。

 上田が君島を指さし、その男に言った。

「どうですか、これが我が社自慢の『自分をアンドロイドだと思っている患者のために、アンドロイド会社の社員を装う研究所所長のアンドロイド』です」

 男はむずかしい顔をしてこう言った。

「長いよー。商品名のルール守ってよー」


                  了

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