ある少年による追想②

「え……お兄さんも紅茶買いに来てたの」

「ああ、うん、僕は飲まないんだけどね。知り合いが好きだって言ってたから」


 頼まれたのは近くで茶葉を売っている店は無いかという事だった。

 見たところ十代後半の男なので『お兄さん』という事にしたのだが実際のところは分からない。名前とかもう知りたくもないし、用が終わったらすぐ逃げ出したい。


「……俺の知り合いも好きだよ紅茶。買いに行けって五月蝿くてさ……、」

「へぇ。あ、すいません。一番美味しい紅茶どれですか?」


 陰の話には興味が無かったのか男はさっさと店員を捕まえていた。日本語で話しかけているのに店員は何の違和感もなく男と『英語』で会話を続けている。何だか頭の痛くなる悪夢を見せられている気がして目を逸らす。いっそ悪い夢なら良かっただろうに。

 試しに若い女性の店員に紅茶の種類を指定してみたが、やはり日本語では伝わらなかった。色々と踏んだり蹴ったりでもう泣きたくなってくる鴉丸少年である。


「もう良いや適当で……、」


 というか本当に今すぐ逃げたい。

 黒コートの男はその知り合いだとかの家にも道案内を頼むと言っていたが陰だってこの辺りの地理には詳しく無いのだ。住所は分かるらしいがそれなら他を当たってほしい。そもそも何でこんな子供に声を掛けたのだろう? もっと適任がいたはずだ。それなのに、まるでような。


 と、そんな時だった。


「遅いわ馬鹿者が!!」


 何やら聞き覚えのある怒鳴り声が聞こえてきた矢先、ドカッ! という音と共に陰の体が吹っ飛ぶ。

 痛みを感じたのは陳列棚に頭から激突した後だった。


「いってーな! 何すん、だ……げっ」

「お前はこんな簡単な買い物に一時間以上かかるのか。私はすぐに紅茶が飲みたいからわざわざお前のような愚図に買ってこいと言ったんだがな」


 どうやらあれから随分と時間が経っていたらしい。そこで仁王立ちしていたのは件の芙蓉 桜華だった。包帯が目立つため頭には顔を隠すようにつばの大きい白い帽子を被っている。


「蹴んじゃねぇよ馬鹿! 見たら分かるだろ今買ってるんだよ!!」

「馬鹿は貴様だ。言っただろう使えない男に用は無いと」


 騒ぎ声に何だ何だと駆け付けてきた数名の店員だったが子供の喧嘩と受け取ったらしく仕事に戻っていく。


「お前に使われる筋合いはないんだよ! 人を奴隷みたいに……!!」


 歯軋りをしながら立ち上がる陰。どれだけ険悪な雰囲気であろうと端から見れば小学生の言い合いに過ぎない。日本語である事も作用したのか、誰も止めに入らなかった。

 確かに、小学生の喧嘩なんてものは大人から見れば可愛らしいものなのだろう。だけど言葉のナイフによって与えられる屈辱に、年齢なんて関係無いはずだ。

 もううんざりだと。そんな感情も存在していたのかもしれない。

 そんな彼を見ても、芙蓉の調子は変わらない。処刑台に運ばれる罪人を見るような、道端で無様にもがく虫けらを見るような、そんな冷たい視線が少年を射抜く。


「ああ、別に良いんだがな? 私が気に入らないならあの家から出て行ってくれても構わんよ」


 口の端を歪めて少女は笑う。片方しかない目を酷薄に細めて。

 己以外の誰も信じていない目だった。だから、彼は彼女が嫌いだった。


「そんなにも姉と二人で路頭に迷いたいのなら好きにすると良い。姉と二人で地獄に落ちろよ。だが思い出せ。行くアテもなく、みっともなく泣き付いてきたのは何処の誰だ?」

「テメェ……ッ!」


 相手が年下の女の子だという事も忘れて陰は芙蓉に掴みかかった。

 事実だったから、だから腹が立ったのかもしれない。義理の姉も、両親すらも事故で失って。この先も生きていくなら誰かに縋るしかない。気紛れであれ何であれ、たまたま手を述べてくれたのがこの少女の祖父だった。

 他でもない、陰の義理の姉である鴉丸──否、芙蓉 月夜つきよ。彼女の本当の祖父。


『援助くらいはしてやろう。ただし、条件がある』


『我が孫娘。あのじゃじゃ馬を、手懐けられればの話だ。アレが貴様ら姉弟を受け入れたのなら望みは全て叶えてやる』


『まぁもっとも、無理な話だとは思うがなぁ』


 新しいオモチャを見つけたかのように老人はそう言って愉しそうに肩を揺らしていた。

 曰く、「もう飽いた」のだと。かは分からなかったけど、何か悪趣味な思惑が隠れているのは看過出来た。

 もう一人の孫である月夜の葬式にすら顔を出さなかった男だ。情けや慈悲などではないのは分かっている。

 思えば、何故月夜は自身の義理の姉として育てられたのかも分からないまま。


 当の芙蓉は冷ややかな表情で陰をただ見ている。彼女は、今なお月夜の存在を知らない。それすらもただ腹立たしくて、二人の溝は埋まらない。

 そんな二人を止めたのは、店員でもまして周りの客でもなかった。


「あ、桜華」


 店の奥から間の抜けた声が飛んでくる。空気も読まずに二人の間に割って入ったのはあの男だった。ついでに少女に掴みかかっていた陰は強引に引き剥がされる。ちょっと、いや、かなり痛かったのだが驚きがまさって声は出ない。

 その上で、冷たい表情を一変させたのは芙蓉 桜華だった。


「えっ、あ、椥……?」

「ああ、ちゃんと覚えててくれたの? 良かった、君の家が見つからなくて」

「え? は!? 知り合い!!?」


 こんなのと!? という言葉は飲み込んで、陰は男と芙蓉を交互に見比べる。

 男は先程までのような張り付いた笑みではなく無邪気な子供のような笑顔を浮かべていた。それに対して芙蓉はただただ目を瞬かせるばかり。


「そもそも椥は何をしにこんな所に?」

「君に会いに来たんだよ。ああ、それと──」


 意味深に口を閉ざし、青年の目が少年へと向けられる。浮かぶ笑顔は冷たく、目の奥には光が無い。


、ね」


 一瞬、ぞくりと背筋に冷たいものが走った少年は慌てて意識を逸らした。見えない蜘蛛の巣に囚われたかのような錯覚が足元から這い寄ってくる。

 少女から向けられる嫌悪とはまた違う、得体の知れない負の感情。

 しかし少年がそう感じたのも束の間。青年は少女に向き直って笑顔を作る。


「それ、まだ使ってくれてるんだね」

「ん……まぁわざわざお前がくれたわけだしな。使わんとバチが当たるだろう」


 それ、というのはどうやら芙蓉の帽子の事らしい。

 大きく白い、桃色の花の装飾が施された帽子。やけに大事にしていると思っていたが、貰い物だったのか。

 すっかり会話に置いてけぼりな陰は不貞腐れつつも、


「ねぇ、家に戻ろうよ。お兄さんもそいつの家探してたんでしょ? 向こうで話せば良いじゃん」

「それもそうだな。珍しく益になる事を言う。ついて来い椥。それとそこの無能、紅茶は」


 この言われようである。

 最早ここまで来たのなら自分で買えば良いと思うのだが、そういう口答えは通用しないのは身に染みている。


「ああ、紅茶なら僕が。それより、僕もついて行っても構わないの?」

「? 当たり前だ。私に立ち話の趣味は無い。ごちゃごちゃ言わずにさっさと来い」


 男を一蹴して芙蓉はくるりと踵を返す。

 それでも陰は、彼女の黒いコートの男に対する態度が明らかに自分とは違う事を感じ取っていた。

 ほんの少しの些細な違いだが、虐げられているからこそ分かる。帽子の話といい、少女がその男に何か特別な感情を持っている事を。


(なんか……なんか、釈然としないんだよな)


 それなのに、二人の距離感は何処かちぐはぐで。本当に、目に見えないほど僅かにだが噛み合ってはいないような。


 ああ、それにしてもすっかり消え失せてしまったこの男の“異常性”は何だったのだろう?

 人知れず考えた陰の本能的な勘は確かに正確だった。


「そういやお兄さん、名前は?」

「ああ、僕?」


 男は全てを嘘で塗り固めていた。容姿、年齢、性格──否、性質。


「僕はなぎ莉窮りきゅう 椥」


 少年がそのの“異常”に気付くのはもう少し後の話。

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