後日談
ある少年による追想
「何だって?」
イギリス某所。王族の屋敷ですと言われても受け入れてしまいそうな巨大な屋敷でのこと。
学校の課題の手を休め、嫌そうに顔を顰めたのは一人の少年だった。声にも嫌悪に似た何かが含まれており、露骨な苛立ちが見て取れる。
少年の蒼みがかった黒い髪はピョンピョンと跳ねており、深い蒼の大きな瞳は今や鬱陶しそうに細められていた。まだ顔にはあどけなさが残り、男らしさよりも愛らしさの方が強く前面に押し出されている。
そんな彼の名は
一方、彼に『命令』を下したのは彼と同い年か、少し下くらいの歳の少女だ。左目の辺りに包帯を巻き付けたその少女は少しも怯まずに、
「聞こえなかったのか? 紅茶が切れた。買ってこい」
仁王立ちする傲岸不遜な態度の少女の名を、
彼女は今現在陰が居候している家の主……の孫娘である。そうは言っても彼女は九歳で、陰は十歳。
どうして年下の言う事を聞かなくちゃいけないんだよ……というのが陰の言い分だろう。ましてや無駄に偉そうなのだ。何でこんなに態度がデカいのか全然分からない。
「コーヒーで我慢すれば」
「コーヒーはなんか嫌だ」
「俺も買いに行くのはなんか嫌だよ。つーか使用人いっぱいいるだろ! 何で俺なんだよ!」
折角嫌いな勉強が手に付き始めたというのに、ここでやめれば確実に集中が切れる。そうなると結局この少女から叱責が飛んでくるのだ。歳下でも自分よりも頭は良いので何も言い返せない。
そう考えた陰は暫く口答えを続けていたが。
「そもそも俺じゃなくても姉ちゃんとかに、」
「はぁ?」
「はい俺が悪かったですってば! 買ってくるから拳を収めて」
結局逆らう事は許されないのである。
そもそも成り行きであるものの彼女に絶対服従を誓った身。逆らう相手を間違えた。
とは言えここは英語圏の国。生粋の日本人である彼は芙蓉の指導の下ようやく日常会話ができるようになった程度の英語力しか持ち合わせていない。
スーパーで手に入る安い茶葉では絶対に納得しないであろう我らが女王様のため、彼には『お茶の専門店で店員と会話する事により少女が気に入るであろう茶葉を買ってくる』という任務が自然と与えられた事になる。ちなみに彼は多少の会話はできても英語は読めない。あとそもそも、日本でも一人で買い物とかほとんどした事ない。
「畜生あのクソガキ……! 人を良いように使いやがって!」
母国に比べて過ごしやすい夏の気候の空の下、彼は忌々しげに舌打ちした。
ここで暮らし始めて数ヶ月だが、やはり異国の暮らしは馴染まない。あの少女とも相容れないままだ。何度か彼の方から歩み寄ろうとした事はあるが芙蓉はそれを許さなかった。
彼以外にも、幼い頃からの知り合いだという少女達が度々屋敷を訪れる。そんな彼女らに対しても、今以上に踏み込もうとすれば切り捨てる体制を取る。
それは彼女がいつも左目を覆っている事と何か関係があるのだろうか。少年にはまだ彼女が瞳を隠す理由が分からない。
一度だけ軽い気持ちで尋ねた事があった。『どうして包帯を巻くのか』と。その後は……まぁ割愛するが、彼女が取り乱したのを見たのはあれが恐らく初めてだっただろう。三日以上も普段の三倍くらい強く当たられたのは記憶に新しい。
「あの下も右目と同じように黒い目なのかね。ほんと、黙ってれば綺麗なのに……あの人と同じで」
よく似ている、と思う。自身の義姉に──彼女の実の姉に。
失った面影をどうしても少女に重ねてしまう。同じように微笑んではくれないのかと期待してしまう。
望んではいけないのだろうか。願ってはいけないのだろうか。
実の姉よりも、義理の姉が全てだった。
あの人がいればそれで良くて、事実、世界はそれだけで輝いていた。
それなのに彼女はもう何処にもいない。たった一台の車が彼女の命を奪い去った。
「……っと、すいませ、」
何にせよ先に買い物を済ませなければ。そう思い直して気を引き締めるとほぼ同時、誰かとぶつかる。
ぼんやりしていた事も手伝って口から出たのは日本語だったが、顔を上げた陰にそんな事は頭に無かった。
「ッ!」
「……ああ、悪かったね。こっちもちょっと余所見してたから」
溶けるように白い肌に薄い蒼の髪の男。瞳も同じく蒼を宿していたが、彼は見た。
接触した、本当にその一瞬だけ男の瞳が血のような真紅に染まった事を。比喩などではなく、正真正銘の
血のようにくすんだ紅の瞳。それを目にした瞬間に鳥肌が立ったのは、きっと恐怖を感じたから。こんな日に分厚い黒のコートを着ている事など最早気にならない。
何よりも恐ろしかったのは今にも殺されてしまうかのように錯覚したから──ではない。そんな、抑えようのない膨大な殺意にも似た何かが、一瞬の間に男の笑顔の中に消えた事だ。
「丁度良かった。君、聞きたいことがあるんだ」
気持ち悪い。その時そう思ったのかはよく分からない。
ただ純粋に関わりたくないと思った。
微かに鼻腔を侵すのは鉄の匂い。男の衣服から感じるのだろうか。
「地図も読めないしこの辺りには詳しくなくて……良かったら道案内を頼みたいんだけど」
血に飢えた獣のようだった。その瞳は、言葉は、表情は。
首を横に振りたいのに、男の纏う雰囲気がそれを絶対に許さない。
今すぐ逃げ出したいのに、蛇のように纏わり付く男の視線が絶対にその選択肢を与えない。問い掛けているようでいて拒否権などありはしなかった。きっと、断れば首から上が消えてなくなってしまう。過ぎた被害妄想だろう。だけど笑い飛ばせないのはどうしてだろうか。
「い、いよ。俺も急いでたわけじゃ、ないから」
そうして少年は震える体を押さえ付けて男の黒い手袋と握手を交わした。
この出来事を一生呪い続けるのだろうという事を何処かで感じながら。
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