海底

桜々中雪生

海底

 苦しい、苦しい、苦しい。息ができなくて、喉を押さえる。どこまでも沈んでいく感覚。

 これは夢だ。

 直感的にそう思った。それでも、沈む感覚は消えない。何処を、沈んでいるのだろう。酸素の足りない頭で考える。がぼり、とくぐもった音がした。ぶくぶくとあぶくのようなものが顔を撫でる。感触は直に伝わってきたのに、聞こえる音は遠い。水の中なのだろうか。抵抗に逆らい、瞼を開ける。初めはぼんやりとしていた視界が、徐々にはっきりとしてくる。それでも、見えてきたものは、どこまでも続く闇だった。ひんやりと冷たく、全身を包み込む闇。

 どうしてこんなところにいるのか。わからない。苦しい。もうとっくに呼吸が止まってもいいほどの時間、この水の中を沈み続けているような気がする。しかし、意識は途絶えない。苦しみも消えない。がぼり、がぼり。泡も絶え間なく口から零れ続ける。

 苦しい、苦しい。

 腕をもがかせるが、この夢から醒めたいとは思わない。両手は空しく水を掻き分けるだけ。そこに、満足感を覚えた。現実よりも、夢の方がずっとリアルに近い感覚で、そして、幸せだ。現実は、色も音も感じない。何の感情も抱けない。水を掻く両腕よりも、現実に生きる方が虚しかった。

 もう目覚めなくていいと思った。目覚めたくないと願った。今、ずぶずぶと真っ暗く冷たい水の中を下へ下へと進んでいる。願いは叶った。もう目覚めなくていいのだ。苦しみは消えないまま、誰にも見つけられず、底に辿り着くまで沈み続ける。それは、何とも甘い感覚だった。

 ずっと不幸だったけれど、今は、とても幸せだ。

 泡は水面へ届かぬまま、暗い海の中を弾けた。

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海底 桜々中雪生 @small_drum

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