第12話 十二月

「いいのですか? パイレーツ・オブ・ローズ……蜜薔薇の海賊団を捕らえないままにこの国を出港してしまって」

 名残惜しげに離れ行く島国の領土を双眼鏡で眺めながら、プレナイトの瞳を持つ青年、ルーク・メイフィールドは隣の上司に訊ねた。

「いいさ」

 と、隣に立つ上司、エメラルドの瞳を持つ男性、クリス・ミューアヘッドは答える。

 表情は今までと違い不思議と晴れやかで、なんの憂いも憎しみもないかのようであった。

「自分は撤収命令がミューアヘッド大佐のものでなかったら、あのままあの憎き海賊と、海賊に加勢する忌々しい女狐を倒すことを最優先していたでしょう」

「女狐? ……ああ」

 のちの報告で、あの国に従属する軍人のひとりが、海賊と共に軍艦に乗り込んできていたことは聞いていた。行動力のある女性だ。オブシディアンの男が称したように、あまりにお転婆であった。

 拳を握って力説するルークを見て、クリスは柔らかく微笑した。

 自分がこんな優しい表情をするなどついぞ思いもしなかったが、これからはできるだけ、そういう表情をするよう心がけよう――と、クリスは言葉には出さずとも考えた。

 まずはこの、海賊をなによりも憎み、海賊と知れば血相を変えて戦闘に縺れ込むこの部下から、大切にしようと。

「う、な、なんですか、ミューアヘッド大佐。海賊を捕らえられなかったのに、なにを笑ってらっしゃるのですか」

「……いや。いい国だったと思ってな」

「確かにいい国でしたね。料理は美味しいし、人は優しいし」

「そしてなにより、これ以上ない収穫があった」

 兄に認めてもらえた。

 それだけで、クリスの心を覆っていた暗雲は消え去った。

「収穫?」

 クリスの言葉に、ルークは首を傾げる。

「確かに一度、あの悪名高き蜜薔薇の海賊団の乗組員のほとんどを捕らえることができましたが……結局、あの国王のせいでおじゃんになってしまったではないですか。それを考えると、収穫はあったけれど、その収穫をふいにしてしまったことになりませんか? 手ぶらで本国へ帰ってしまったら、自分たち、懲罰の対象ですよ」

「ふむ。確かにそうかもしれない」

 顎に手を添えて、クリスはちろりと舌を出す。

 従来の彼らしからぬお茶目な仕種だった。

 それを見て、ルークはぎょっとする。

 あの生真面目を絵に描いて、それに世界海軍の軍服を着せたような、融通の利かない人間であるクリスが、そんな行為をしたというだけで、背筋が寒くなりそうだった。

 それはそれでクリスに対して懲罰ものの失礼だが。

「まあ、今回の事態、ボクがすべての責任を負おう。お前たちの懲罰ができるだけ軽くなるよう、できうる限りの権力を使って取り計らおう。ボクの権力は、もとよりそのためにある」

「………………」

 ルークは一瞬ぽかんと口を開けて呆けてしまった。

「ミューアヘッド大佐の権力は、蜜薔薇の海賊団船長、キャプテン・ニコルを捕らえるためではなかったのですか?」

 驚きを隠せないでクリスを見つめるプレナイトの瞳に、クリスははにかみながら「いいさ」と答えた。

 それでさらに、ルークはぎょっとする。

 キャプテン・ニコルを憎むクリス・ミューアヘッド大佐の執念は、自分が海賊に対する心意気とかなりの違いがあると考えていた。しかし現在の彼からは、そんな執念を感じられない。

 そんなルークの戸惑いなど意にも介さず、クリスは続ける。

「追いかけるのはもうやめだ。背中を負うのではなく、今度こそ、正々堂々と、渡り合う。まあその前に……海賊を一度捕らえておきながら逃がしてしまった失策で、しばらくは自由に動けなくなるだろうな。まあ、ボクだけがそうなるように尽力するよ。ルーク、お前は心配しなくても大丈夫だ」

「え、みゅ、ミューアヘッド大佐、今、自分の名を……」

「なにを言っている? 八月にも一回、名を呼んだぞ――と、ああ、そのときはお前、声が届かない場所にいたか。……部下の名前を覚えているのなんて、当然のことだろう?」

「…………はい」

 なにを隠そう、ルーク・メイフィールドの憧れは目の前の人である。彼の部下になれたときには欣喜雀躍の体でしばらく仕事が手につかなかったほどだ。そんな彼に、名を呼んでもらえた。一個人として、認めてもらえていたのだ。

 今にも破顔してしまいそうになるのをこらえながら、ルークは顔を伏せた。

 クリスもそんな彼を気遣って、顔を逸らしてくれた。

「それに」

 と、話の矛先も変える。

「海賊をあの国の護衛として任命されては、もうあの国では、ボクらは彼らに危害を加えることができない――本当に、嫌な相手だ」

 あの蓮と名乗る国王は、きっと数十年で、この国を大国として名を轟かせることになるだろう。

 憎たらしいことに。

 そしてほんの少し、喜ばしいことに。


 ◇◇◇


「白百合さん」

 と、彼は呼びかける。

 向かう白百合と呼ばれた軍人は、跪いて「は」と応じる。

 窓から陽が射している。

 まるで彼らの今後を祝福するかのように。

「あなたに渡したいものがあるのです」

「渡したいもの?」

 蓮の言葉に、白百合は反復する。

 蓮はただ柔らかな声音で「ええ」と答えた。

「本当はずっと前から渡したかったのですが、どうにも頃合いがなかったものですから」

「そんな……僕が主からの賜りものを喜ばないはずがないのに……」

「わたしが照れ臭かったのですよ」

「……それを、何故、今?」

「わたしはある決めごとをしたからです」

「決めごと?」

「はい……まったく、情けない限りですね。あなたに贈り物をすることでさえ、こんなに時間を要してしまって。自分の優柔不断さに呆れ返ります」

 額に指先を添え、やれやれと嘆息する。

「こうして節目の時機を使わないと、わたしは動くことさえできないだなんて」

「そんなことは……」

「気を遣わなくてもいいんですよ」

「………………」

 実際、気を遣っていたらしい白百合は、返す言葉も見つからずに沈黙してしまった。

「それでですね、あなたに渡したいものは、その、衣服……なのですが」

「衣服、ですか」

「はい、ドレスです」

「ど、ドレス……?」

「ね? そんな顔をなさるでしょう? だから踏み切るのに時間がかかってしまったのですよ」

「あ、その……失礼しました。しかし、僕が女性の恰好をするなど、今まで経験がなく……」

「ええ、だからこそ、あなたが抵抗なく着れるような意匠を施してもらったんです」

「……訊ねてもよろしいでしょうか」

「なんなりと」

「主は、僕が女性の恰好をしたほうが良いと考えますか?」

 性別に合った服装をする。

 白百合が今まで、自らに禁じてきたことだ。

 もちろん主である蓮が命じれば、いくらでも女性の服装に身を包む覚悟だってできる。

 しかしこれは、命令ではない。

 命令ではない、もっと別の――。

 ――願いだ。

 蓮は、白百合に女性として生きてほしいと願っているのだ。

「……答えはもうわかっているという顔ですね」

 蓮は口元を緩め、静かに言った。

 白百合は婉然と頭を垂れた。

 それは言葉なき肯定である。

「白百合さん」

「は」

「あなたと出会ったころを思い出しますよ」

「……はい、この白百合も、あなた様と出会った日のことは忘れません」

 白百合は、深く深く、頭を下げた。

「ねえ、白百合さん。海とは、海の向こうとは、あなたと同じ瞳の色なのだそうですよ」

「僕の瞳?」

「ラピスラズリと言うそうです」

 白百合は下げていた頭を上げ、その、ラピスラズリの瞳を彼――オブシディアンの瞳を持つ、蓮の方へ向けた。

 穏やかな感情が、オブシディアンに映っている。

「わたしの瞳はオブシディアンと言って、宝石という美しい石なのだそうですよ。ねえ白百合さん、海の向こうをご存知ですか?」

「……いえ、僕の世界はあなただけです」

 そう言いつつも、白百合も、そして蓮も、もうすでに違う世界を知っていた。

 蓮の世界も、白百合の世界も、もう、互いが世界のすべてではない。

 もちろん蓮は白百合を絶対の信頼を置いているし、白百合は蓮に絶対の忠誠を誓っている。

 けれども。

 それでも。

 ふたりの世界は、ふたりだけの世界ではなくなった。

 広いけれど囲われた屋敷という、狭い世界しか知らなかった蓮は、海賊という海の向こうから来た存在と交流を深めることで、視野が広がった。

 ――そう。

 白百合は逡巡する。

 ――だからこれは、当然の帰結だ。

 ――僕は、主がなにを考えているか、わかっている。

 わかってしまっている。

 ならば僕は――従うまでだ。

「白百合さんの瞳と同じ色の大きな水! それが見渡す限り、広がっているのだそうですよ! 白百合さん――ねえ、白百合さん」

 と、蓮はくどいくらいに白百合の名を呼ぶ。

 名残を惜しむように。

 もう二度と、彼女に名を呼ぶことがないかのように。

「わがままを言っても、いいですか?」

「もちろん、おおせのままに」

 ならば僕は、たとえ本心では嫌だと思っても――従うまでだ。

 それが、主の最後の、お願いだから。


 ◇◇◇


「……ったく、死ぬかと思ったぜ」

 と、包帯の巻かれた腹部を撫でながら、ペリドットの瞳を持つ男はひとりごちる。

 あのあと。

 血だまりの中へ激しく飛沫をあげながら倒れた彼は――奇跡的に生還を果たした。

 偶然にも剣はニコルの内臓をそれほど傷つけておらず、そして剣そのもので出血を抑えていたことが起因して、ニコルの命がこと切れることはなかった。

「ニコルは血の気が多いからね」

 と、これはのちに駆け付けたマリアーノが慰めのつもりで揶揄した言葉である。

「しかし――ここまででかい船を貰うのは、なんだか悪い気がするなぁ――」

 目の前に聳える、屋敷かと思うほどの巨船を見上げて、パイレーツ・オブ・ローズ――通称、蜜薔薇の海賊団船長、キャプテン・ニコルは溜息をつく。

 国王陛下が私財を投じて造ってくださった海賊船。

 以前までニコルたちが使っていた船をもとに、この国でも一流と謳われる船大工たちがおよそ一年をかけて造り上げた船だ。今度こそ大事にしなければ罰があたるだろう。

 ニコルは無神論者だけれど。

 それとも罰をあてるのは彼自身か。

 すでに荷物は積んである。

 小規模ながらも、進水式も行った。

 進水式には、わざわざこの国の国王陛下が葡萄酒をぶつけてくださったほどだ。

 あとは乗り込むだけである。

「一年近くも、この国で生活してたんだな……」

 彼らを根気強く追い回してくれた世界海軍のお蔭で、ここまでの長期滞在など数えるほどもなかったが、こうして一度一ヶ所に長期滞在してみると、思うところがないわけではない。

 結論から言えば、長期滞在はしないほうがいい。という感想だ。

 いつの間にか、国にも、人にも情が移ってしまう。

 ましてや国王なんかと友情を育んでしまうことだってありえるのだ。

 ならば、できるだけそんなことがないように、滞在は短期のほうがいいだろう。

 いい教訓になった。

「はやく乗ろうぜ、キャプテン」

 うきうきと浮足立った様子で、今にも船に乗ってしまいそうなクラレンスが、ニコルの腹をつつく。

 痛いから変なことをするなと言ってあるのに、わざわざ怪我をしている場所を狙うとは、なかなか性格が悪い。

 それとも、つつくことは変なことにカテゴライズされないのだろうか。

 無邪気に笑うオパールの少年を見て、ニコルも一歩を踏み出す。

「――そうだな。これ以上は、俺も、離れづらくなっちまう」

 あいつとも、な。

 と、小さく呟いて、ニコルは隣に立つ副キャプテンに手を差し伸べた。

「船に乗るのは不慣れだろう? ほら、エスコートしてやるよ」

「ありがとうございます」

 彼は、ほんのり照れを見せながら、躊躇しながらも、ニコルの手を取った。

 船に乗る前に一度だけ振り返って、懐かしそうに、愛しそうに、そして少しだけ寂しそうに、微笑した。

 オブシディアンの瞳を、祖国へ向けた。

「これからしばらくは慣れるまで大変だろうが、覚悟しておけよ」

「ええ、わかっていますとも。その程度で弱音を吐くほど、わたしは弱くありません」

「じゃあ、行くぞ」

「ええ、行きましょう」

 ゆっくりと、船が動き出す。

 彼の大切な人の瞳と同じ色をした海へ、動き出す。

 それは、彼が、もう二度と、祖国の地を踏めなくなることを意味していた。

「――と、見送りだ」

 ニコルが視線で、先ほどまで彼らが立っていた地へと示す。

「――白百合さん?」

 人で溢れる港の道を一心に駆けるのは、濃紺の軍服を纏ったラピスラズリの瞳。

 男装の麗人、白百合その人である。

「主!」

「白百合さん!」

 最後の最後で気が変わり、連れ戻しに来たのだろうか?

 否。それにしては、雰囲気が違う。

 それに彼女は、途中で気が変わるほど意志の弱い人間ではない。

 彼は、それをよく知っている。

「どうぞ――どうぞご無事で!」

 沿岸まで走り抜けたところで、白百合は声の限りに叫んだ。

「国のことはお任せください! いつか海の向こうにいるあなた様にも、我が国の名が届くように!」

 それは、誓いだった。

 主君を守り、主君に尽くしてきた彼女の、彼女なりの誓いの言葉だった。

「わたしが、この国を導いて見せますから!」

 従者としての自己を捨て、『白百合』は『蝶咲蓮』として、生きることを誓った。

「あなたと共にあれた時間を、わたしは忘れません!」

「……わたしも――いえ、僕も」

 蓮――否、白百合も、彼女の誓いに応えるがごとく、声を張った。

「僕も忘れません! だってあなたは、誰よりも大切な、友人ですから!」

 こうして、小さな島国の王様は海賊の一員となり、海へと旅立った。

「マリアーノも、惚れた女のもとへ残るなんて、酔狂なことを言うもんだぜ」

 船長は皮肉たっぷりに、彼女のもとへ留まった親友を嘲る。

「ニコル」

 怪我のために床に臥せるニコルの枕元へ、マリアーノは静かに座った。彼自身も大けがを負い、医者に絶対安静を言い渡されているというのに。

 家主の計らいで、日当たりのいい部屋でニコルは養生していた。陽の光が舞う埃に反射して、部屋をきらきらと彩っている。

 マリアーノの赤茶の髪も、同じように……。

「おい、マリアーノ」

 ニコルはマリアーノの呼びかけに応じるより先に、彼に問うた。

「お前、髪を切ったのか?」

 マリアーノの赤茶の髪は、以前までは女性のように肩近くまで伸ばされていた。しかし今の彼の髪は、横髪も襟足も綺麗さっぱりと切り揃えられて、男性的な短髪である。

「ああ、これ?」

 ニコルの問いで気付いたかのように、短くなった髪の毛先を指先で弄びながら、マリアーノが答えた。

「けじめのつもりだよ」

「けじめ……?」

「うん」

 少しだけ寂しげに笑って、マリアーノはニコルに対して姿勢を正した。

「ニコル、今までありがとう。お前と出会えて幸せだ」

 ペリドットの瞳を見開くニコル。ニコルの聡明さで、彼の言葉の真意がわからなかったということはない。しばらくそのままだったが、やがて困ったように微苦笑を漏らした。

「一時の気の迷いじゃないな?」

「もちろん」

「すぐに冷めるような情か?」

「まさか」

「一生涯をかけて守れるか?」

「この身が焼かれようとも」

「ならば誓え」

「神に?」

「俺に」

 痛む身体を無理矢理動かして上体を起こし、ニコルは握った拳でとん、とマリアーノの胸を打った。

「あいつを幸せにすると、俺に誓え」

「ああ、ニコルに誓って、俺は彼女を守り、尽くし、幸せにしよう」

 自分の胸に置かれたニコルの拳を握りしめ、マリアーノは契る。

「なあ、マリアーノ」

 朗らかに笑って、ニコルはその手をマリアーノに預けたまま、言う。

「頼むから泣くなよ、親友」

 たとえマリアーノがなにを言おうとも。

 たとえ今生の別れだとしても。

 ニコルとマリアーノは出会ったときから、親友であったのだ。

「まあ、あなたも親離れしなくてはいけませんからね」

「なんだと」

「なんでしょう」

 彼にしては珍しく、喧嘩を売りながら、やはり穏やかな表情はそのままで。

 船長との会話を楽しんだ。

「……名前、なんて呼べばいい」

 船長はペリドットの瞳を伏せて問う。

「そうですね、以前のように、白百合とそのように呼んでいただけたら」

「ああ、わかった。これからよろしくな、白百合」

 微笑むのはオブシディアンの瞳。

 今日も波は、彼らの船を乗せていく。

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蜜薔薇の海賊団~島国のオブシディアンとラピスラズリ~ 巡ほたる @tubakiya

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