第11話 十一月
「あなたがなにをしたか――そしてそれがどれほど重い罪であるか、理解していますね、国王陛下?」
「さて――なんのことやら」
蓮はクリスのエメラルドの瞳と目を合わせずに言う。
国の最高責任者である蓮を無骨な牢へ収監するわけにもいかず、クリスはことを犯した彼を、とりあえず、応接室へ閉じ込めた。
監禁にはならずとも、軟禁くらいにはなっているはずだ。
囚われている蓮は、数ヶ月前と比べれば驚くほど凛然としている。
あんなに情緒不安定になっていたとは思えないほど――海賊を心底憎んでいたようには見えなかったほど。
すべて演技だった?
否。海賊への辛辣な態度はともかくとして、少なくとも最初に彼を保護したときは、とても演技ができるような精神状態ではなかった。どこかで、持ち直したのだ。
しかしどこで?
どこで持ち直すことができた?
「異なことを訊ねますね。それではこう答えましょうか。『すべて演技でした』」
「それでは、海賊たちに裏切られ、相手にするのも嫌だと仰ったのも」
「演技です」
出された紅茶を優雅に口に含み、「美味しいですね」と微笑むオブシディアンの瞳。
「……では、白百合さんを奪われたことへの怒りも」
「いいえ。あれは演技ではありません。しかしわたしは、どうにも怒りを長期間継続させることが不得意でして……それに、白百合さんもわたしを慮って行動してくれたことは自明の理ですから」
悠然と、王者の風格を漂わせながら、蓮は言葉を続ける。
「わたしは、囚われている友人を哀れんで、偶然持っていた鍵で牢の鍵を開けたにすぎません」
「それが罪だと言っているのです」
いけしゃあしゃあとのたまう蓮に怒りを込めて、クリスは彼を睨みつける。
「鍵を盗んだことも、その鍵で牢を開けることも、極刑並の犯罪です」
「そうでしたか。それは大変なことをしてしまったようですね」
「ええ、大変なことです。あなたは命をもって償うつもりはありますか?」
「ありません」
きっぱりと、微笑さえ浮かべて述べられた否定の言葉に、クリスの平静は耐えられそうになかった。
まるで兄と――ニコル・ミューアヘッドと対峙しているかのようだ。
クリスはぎり、と歯噛みする。
――憎々しい。
――ボクの大切なものは、すべて海賊が奪ってしまった。
兄も、家族の平穏も、そしてここで、有力な協力者になってくれたかもしれない、このオブシディアンの瞳も!
どうして海賊はすべてを奪う?
ああ、憎い。
憎い。憎い。憎々しい。
「大丈夫ですか。顔色が優れませんが」
「……大きなお世話です」
気遣いの声をかける蓮にあえて一言で返したクリス。
ペースを乱されていると自覚した。
そのときだった。
応接室のドアがけたたましい音を鳴らして、次いで、クリスの部下の声がドアの向こうで響く。声には憔悴の色が見えた。
「ミューアヘッド大佐、ご報告します! つい先ほど、軍艦に侵入者がありました! その数――およそ二十五人! 先頭に、蜜薔薇の海賊団船長、キャプテン・ニコルがいます!」
「なに」
クリスは悠然と椅子に座る蓮を一瞥してから、小さく舌打ちをした。
蓮がここまで怯えも迷いも見せない理由は、ここにあったか。
必ず、ニコルたち蜜薔薇の海賊団が、自分を助けに来てくれることを、信じていたのだ。
信頼していたのだ。
クリスにはそれが、目障りで、気障りで、忌まわしかった。
――ニコルはボクを選んでくれなかったのに――この男は選ぶのか。
「だったら返り討ちにするまでだ。友人を守れなかったという屈辱にまみれて死ね、キャプテン・ニコル」
クリスはするりと、剣を抜いた。
◇◇◇
クリスの部下が彼へ報告した情報には、ひとつ、誤りがある。
部下は侵入者の数をおよそ二十五人と言った。しかし、侵入者は正確には二十七人であった。蜜薔薇の海賊団総勢二十六人ともうひとり、囚われの国王、蝶咲蓮直属の部下――白百合である。
「海賊というのは、奇襲をしかけるものと考えていたが――その考えは改めなければいけないな」
と、先頭を歩むニコルに向かって揶揄する。
ニコルは「ふん」と鼻を鳴らして、「時と場合によって、そんなもんいくらでも修正するぜ。今日は南と言うかもしれないが、明日は北と言うのが海賊だ」と答えた。
「ひねくれものめ」
「なんとでも言え」
「お話し中のところ悪いけどね、ふたりとも、ようやく敵さんがお見えになったよ」
ふたりの会話を遮って、マリアーノが前方を指さす。
マリアーノが指さす先には、真っ白い軍服に身を包み、剣を携えた青年が立っていた。首に双眼鏡を提げているところを見ると、どうやら見張りのようだ。
大人しそうな顔立ちの、プレナイトの瞳をした青年だった。
「初めまして、自分はルーク・メイフィールドと言います。こうして世界海軍の雑用をさせていただいています」
青年――ルークは、にっこりと人の好さそうな笑顔を作った。
身構えるニコルたちを手で制し、マリアーノが一歩踏み出す。
「強敵第一弾って感じかな。多分、彼でしょう、ニコルを撃ったのは」
海岸でクリス率いる世界海軍と対峙したとき、クリスは彼の名を呼び、その直後にニコルは狙撃された。たった一発。されど一発。急所は外してあったが、それも狙いの内だとすると――彼の能力値はかなり高い。
「ええそうですよ。流石、蜜薔薇の海賊団副キャプテン、マリアーノですね」
「丁寧な口調はいいけど、呼び捨ては気に食わないな。年上だよ、さん付けしなよ」
「海賊風情に敬称を使うなど、あってはならないことですからね――それに、自分は、海賊がこの世で最も嫌いなものでして――」
一閃。
ルークが間合いを詰め、白百合に刃を向けた。
「特に、海賊に味方する軍人など、生きている価値もない」
「白百合ちゃん!」
咄嗟にマリアーノが盾になり、白百合の代わりにルークの斬撃を受ける。
肩口に、裂傷ができた。血が飛び散り、天井や壁を汚す。
「マリアーノさん!」
白百合が悲鳴をあげてマリアーノへ駆け寄った。
傷を押さえるがだらだらと血液は溢れ続ける。
「なんで僕を助けようとなんて……」
「あのさあ」
白百合をあえて無視する形で、マリアーノがニコルへ提案した。
「このルーク君は俺がなんとかするから、みんなは先に行って。特に、蓮さんを助けるのはお前しかいないんだぜ、ニコル」
「ひどい手傷に見えるが」
「このくらい浅手だよ。海賊ならね、我慢くらいできるさ」
「――わかった。死ぬなよ」
「誰に言ってる。俺は蜜薔薇の海賊団の副キャプテン、マリアーノだぜ」
そしてマリアーノは、白百合の腰に提げてある刀を引き抜いた。
「借りるよ、白百合ちゃん。先に行ってて。ちゃんと返すから」
白百合は不安げに寄せていた眉をあげ、緩やかに首を振った。
「僕もここに残ろう」
「おい、白百合!」
ニコルが叫ぶが、白百合は譲らなかった。
「主が助けを求めているのは僕じゃない。お前だ。海賊」
まっすぐ、ラピスラズリの瞳をニコルへ向けて、初めて、彼女は彼の名を呼んだ。
「信じているぞ、ニコル」
「………………」
ニコルはなにか言い返そうとして――なにも言い返さず、歩を進めた。
「信じられてやるよ、白百合!」
そしてマリアーノと白百合はその場に残り、ルークと対峙する。
「いいのかい? 先に進むあいつらを止めなくて」
ニコルの皮肉を真似て、マリアーノがルークに話しかける。
「別に。自分ではあんな大人数、相手にできるわけがありませんから。それでも、一対一なら、あなたには勝てるかもと思っているだけですよ、マリアーノ」
「言うねえ、若造が」
「うるさい、海賊」
白百合が応急処置で、右肩にかけ流していたマントを包帯代わりにマリアーノの肩口の傷を止血する。
「ありがとう、白百合ちゃん。でもいいの? 蓮さんと揃いのマントだろう?」
「……こんなもの、目の前で、出血多量で死なれるよりずっといい。ましてや僕を庇って受けた傷ならなおさらだ。主はいつも言っている。人命は人命。失っていいものではない、と」
痛ましげに眉を寄せる白百合の額に、マリアーノは思わず――本当に、思わず――唇を落とした。
何故かと問われたら、自身を労わってくれた意中の相手が目の前にいたから。とマリアーノは答えるだろう。
加えて、彼の生まれた地はそういった愛情表現が盛んに行われる国だ。
呪われた一族出身とはいえ、その血は、マリアーノにも確実に流れている。
しかし、対する白百合は貞淑な、積極的な愛情表現をあまり行わない国を祖国としている。だから、マリアーノのその口付けに、驚愕と恥じらいが同時に彼女を襲った。
特に白百合は、今まで女を捨てて生きてきた軍人である。突然の女性扱いにはまったく耐性がないと言っていい。
口付けされた箇所を押さえて、顔を真っ赤にしながら口をぱくぱくと動かすが、唇から声が漏れることはなかった。
そんな彼女を見て(可愛いなあ)と愛しく思いつつ、白百合に背を向け、ルークと向かい合う。
黙ってことの成り行きを見守っていたルークは、怪訝に顔を歪めた。
「男同士で接吻ですか。海賊は節操がありませんね。そういうのは、自分の前以外でやっていただけますか?」
そんなルークの主張を聞いて、マリアーノはふっ、と口元を緩める。
「ああ、そうか。きみは知らないんだったね」
「知らないってなにを……」
そこまで言いかけたところで、ルークが「ああ」と頷く。察しがついたらしい。
「なるほど、そういうことですか。じゃあそこの軍人は女でありながら……ふむ、海の上では常識を捨てたつもりでいましたが、自分もまだまだですね」
自嘲気味に笑って、プレナイトの瞳をふたりへ向ける。
「そしてどうやらマリアーノ、あなたはその女狐に誘惑されたということですか」
「誘惑なんかされてないさ」
「ほう?」
「彼女は女性の幸せなんか求めていない。でも俺は、そんな彼女に惚れたんだ」
「――――っ!」
マリアーノの背後で、白百合が息を呑むのが聞こえた。
衝撃だっただろう。
主君のために軍人として生きてきた自分に恋情を向ける相手がいるなどと。
考えたこともなかっただろう。
そんな鈍感な面さえ、愛しく思う。
「あのさあ、白百合ちゃん」
マリアーノは背後の白百合へ声をかける。
返事はない。
けれど、それでいい。
答えなくてもいいから、聞いてくれたら、それでいい。
「俺は、きみのことが好きだよ」
返事なんか、しなくていいから。
一時の気の迷いで、きっとこの国を離れたら忘れてしまう感情だから。
だけど今だけは、この気持ちは、俺から離れないで。
大切な女の子を、守らせて。
家族と呼べるもの、すべてを守れなかった俺の、小さなわがままを許して――。
「――ふざけるな!」
果たして、白百合は。
そんな風に返事をした。
それは彼女らしからぬ、乱暴な口調であった。
「自分だけ言いたいことを言ってそれで満足なんかするな! 自分さえ満足ならそれでいいなんて、ただの独りよがりだ! 僕を女扱いしてくれたのなんて、あなただけだったんだ! 返事をするから、だから――」
白百合は、言う。
「――負けないで」
囁く声だったが、確かにその声はマリアーノに届いた。
「あーあ……」
マリアーノは、そんな風に、遣る瀬なく、笑った。
どうやら自分は、自分さえも偽ろうとしていたらしい。
気の迷い? そんなわけがない。
忘れられるような甘い感情であるわけがない。
そう。
そんな彼女だから好きになったのだ。
女性としての幸せなど求めず、固い忠誠を蓮に誓い、海賊であろうと軍人であろうと――自分に恋情を抱く相手であろうと、真っ向からまっすぐ、向かい合う彼女だから、好きになったのだ。
この感情はきっと、一生涯抱き続ける。
「……もういいでしょう? ぬるい恋愛なら、自分があなた方を殺してからにしていただけますか? 地獄とかで」
ルークは無粋にもふたりの会話に水を差す。
しかしふたりの間には、そんな無粋さえ届かない。
「わかってないなあ、ルーク君」
マリアーノがルークに刀の先を向けながら言う。
「可愛い女の子に応援されたら、男は負けないもんなんだよ」
マリアーノとルークの戦闘が、始まった。
◇◇◇
ひとり、またひとりと、軍艦の中で誰かと出会ってははぐれていく。
それでいい。多勢に無勢では相手にならないが、今は蓮が判断した通り、もっとも警備が手薄な時間だ。眠っているときを叩き起こされた者もいるだろう。そんな奴らに後れを取るほど、蜜薔薇の海賊団は甘い海賊ではない。
むしろ非道だ。
暴虐の限りを尽くした。
だからこそ、今、彼らが誰かを助けるために、世界海軍が所有する軍艦に乗り込むなど、考えられないことだったが――
――惑ったかな、俺も。
――それでも、蓮を助けるのは、当然という気もする。
最初は蝶咲蓮としてではなく、白百合として出会って。
甲斐甲斐しく世話を受けて。
一緒に食事を摂って。
あいつの大切な人と会って。
海軍から逃げるためにあいつの家を隠れ家にして。
宝石の話をして。
あいつの正体を見破って。
あいつから離れて。
あいつの大切なものを奪って。
それでもあいつは俺たちを見捨てなくて。
ついには、自分さえも犠牲にしようとしていて――
――ここまでされちゃあ、助けないわけにもいかないよな。
気付かぬうちに、蓮はニコルの弱みになってしまった。
彼が危険に瀕していると知ると、こうして駆け付けてしまうほどに。
ニコルはたったひとりで、蓮がいる可能性が最も高い部屋の前へ立った。
もう、一緒に走る仲間はいない。みんな、はぐれてしまった。
応接室。
神経質なニコルの弟ならば、国王を隔離するためにはこの部屋を選ぶだろう。
ニコルは、力任せにドアを蹴破った。
そこには――
「そんなことをせずともドアノブを回せば開くよ。馬鹿じゃないの?」
椅子に座る蓮と、彼に剣先を突き付けているクリスがいた。
刃物を喉元近くまで突き付けられているというのに、蓮は不遜にも笑みを浮かべている。
「馬鹿はお前だ、ミューアヘッド大佐殿。国王陛下に剣先を突き付けるなんざ、お前こそ罪人になりたいのか?」
「罪人はボクじゃない。海賊と手を結んだ国王陛下だ」
「人質が俺に通用するとでも?」
「しないだろうね」
クリスは瞑目して首を左右に振った。
「だってお前は暴虐の限りを尽くした海賊のキャプテンだ。人質くらい、見捨てると思うよ」
「よく知ってるじゃないか」
「だからこそ、解せないな」
「あん?」
「どうして危険を冒してまで、この男を助けようとするの? お前にとって、彼は仲間でさえない存在だろうに」
まるで不愉快だと言わんばかりに、クリスは手首を振って蓮に突き付けた剣を上下させる。蓮の生殺与奪は、クリスの手にあると主張しているようだ。
「仲間じゃあないな。もう何ヶ月も前に振られてる」
「ほら――」
「だがな」
ニコルは気付いている。
クリスの言葉遣いが、過去と現在とで、混乱を見せていることに。
謹厳実直な世界海軍大佐であるクリス・ミューアヘッドと、幼い子供の――ニコルの弟としてのクリス・ミューアヘッドとが、入り混じっている。
クリスはまだ、ニコルを兄として見ているのだ。
罪人として家を追い出されたニコルを。
だからニコルは、兄として、そして敵として、クリスと向き合わねばならない。
それが、情けない兄である自分がやるべきことだ。
弟は大切だが、ニコルには今、家族よりも大切な、家族みたいな奴らがいる。
「蓮は俺の友人だからさ、助けなきゃいけないんだ。理屈じゃねえんだよ、こういうのは」
途端、クリスの顔が激情に染まっていくのが見て取れた。
じわじわと顔が真っ赤に彩られていく。
「じゃあいいよ。友人だっていうのなら、ボクがその友人を奪ってやる。だってニコル、お前が帰ってくれば、ボクらは元通り、家族に戻れるんだ!」
――ああ、クリス。
クリスの言葉が、ニコルを突き刺す。
――お前はまだ俺を、家族だと言うのか。
そんなものはもう破壊されたというのに。
そんなものはもう決裂したというのに。
なんて可愛く、哀れな弟なんだ。
もう戻ることのない家族の日々。
ニコルの失楽園。
そしてクリスは、握っている剣を思い切り振りかぶり、蓮ではなく、ニコルへ剣先を向ける。
「ニコルさん!」
蓮が悲鳴をあげる。
先ほど、マリアーノが手傷を負ったときの白百合と似た悲鳴だった。
――親子や兄弟は似るものだが、主人と従者も例外じゃないのか。
自分が傷つくことには無頓着な癖に、他人が傷付くことは見ていられない。なんと労しく、痛々しい性格なのだ。
見ていられないのに、目が離せない。
なんて考えながら、ニコルはクリスの斬撃を――。
◇◇◇
ずぶずぶと、刺さっていく。
ずぶずぶと、沈んでいく。
もうクリスの剣はニコルの腹を貫通し――すでに雌雄は決していた。
なのに。
それなのに。
表情を見て判断するなら、その答えは真逆だった。
エメラルドの瞳を見開き、周章狼狽の体で震えているクリスと。
ペリドットの瞳を優しく細め、苦痛に眉を歪めながらもクリスに近付くニコル。
「ニコルさん!」
蓮が叫ぶ声が響くが、ニコルは答えない。
答えないまま、腹に剣を刺されながら、そしてさらに深みへと沈んでいきながら。
柄に限りなく接近したところで、ようやくニコルは足を止めた。
足元には夥しい血液が血だまりを作っている。
このままではニコルは命を落とすだろう。しかしさしてそれを気にする風もなく、ニコルは震えているクリスの手に、自らの手を重ねた。
「ごめんな、ダメな兄貴で。お前がいるのに、お前を置いて行っちまって」
優しい、温かな温度がふたりに伝わる。
繋いだ手の温かさが、クリスの固まった身体を静かに解きほぐす。
ずっと求めていた、家族の温もり。
いつから間違っていた?
いつから食い違っていた?
欲したものは、単純な答えだけだったのに。
「兄――さん」
「なんだ?」
「兄さん」
「なんだ?」
「ボク、ボクは――」
エメラルドの瞳から涙があふれ、頬を伝う。
ニコルを刺し貫いたことで、彼の心を塞いでいたものは決壊していた。
それはなにも言わず自分の前から姿を消した兄、ニコルへの憎悪かもしれないし、兄を信じられなかった――兄を信じたくなかった自分への罪悪感かもしれない。
大切な人を信じられなくなったとき、人は孤独になる。
だから、クリスは大勢の部下がいてもひとりきりだった。
だから、大勢の部下を喪いながらも彼らを信じていたニコルは強かった。
それこそが、彼の敗因であり、彼の勝因だったのである。
ずるり、と。
クリスの手から剣が離れる。剣はそのままニコルを支柱に留まる。
静かに血を口から流しながら、ニコルはクリスに近付き、ふわりと優しく、彼を抱きしめた。腹に刺さったままの剣に少しばかり気を遣うことも忘れない。
「クリス――俺は、ちゃんとお前を愛しているよ」
だから、と。
ニコルは続ける。
ずっと愛している。
言葉にすれば皮肉としか受け取ってもらえないような自分の性格が腹立たしいが、しかしそれは皮肉ではなく本心だ。
ミューアヘッド大佐殿に対してではなく、正真正銘のニコル・ミューアヘッドの弟としてのクリス・ミューアヘッドを、ニコルはずっと愛している。
けれど、ニコルはもう海賊だ。
略奪し、殺戮し、暴虐の限りを尽くした海賊だ。
汚名を着せられ、それを返上することもできなかった、無力な子供だった。そこから這い上がってきた。這い上がって、得たものは本物の悪名。
蜜薔薇の海賊団船長、キャプテン・ニコル。
自由を求め、仲間を求め、それ以外のすべてを捨てた。
今更戻れるなど思い上がりはしない。
父の顔を思い浮かべる。とても厳しかった。今や憎悪の対象だが、今でも尊敬している。
母の顔を思い浮かべる。とても優しかった。きっと彼女は自分の悪行を許しはしないだろう。
そして、弟の顔。目の前にある、美しい顔。真面目に徹し、自分と対等に渡り合った自慢の弟。
あの家には、あの家族には、もう――。
「お前のもとには戻れないけれど、それだけは、未来永劫、俺が死ぬまで――俺が死んでも、変わらないから」
そう言うと、ずるり、と、ニコルの身体は前のめりに倒れた。
血だまりの中に、激しく飛沫をあげながら。
視界が霞む。頭の中に靄がかかる。
――なんだか、眠い。
「――兄さん?」
「……ニコルさん? ニコルさん!」
静かな部屋の中で、ひとりぼっちだったふたりの声が、虚しくこだました。
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