第10話 十月

 外でフクロウが鳴いている。夜はとっぷりとふけていく。

 日付も月も変わろうとする時間、ニコルと白百合はふたりきりで雑談を交わしていた。

「……今まで海軍からの逃亡を続けてきて、ここまで居心地の悪い逗留は初めてだぜ」

 と、そんな風に。

 ニコルは白百合に悪態をつく。

「なにを言う。屋根もある。壁もある。寝床もあれば畳まである。ここまで好条件な逃亡先はほかにないはずだ」

 ニコルの悪態をまるで相手にせず、白百合は箪笥から一枚のシャツを取り出してニコルに投げてよこした。

「ほら」

 これを着ろ、ということらしい。

「……いいのかよ。お前の大切な主人の持ち物だろう?」

「まあそうだが、背に腹は代えられない。今はここで急場をしのぐしかなかろうよ」

 主人。

 それはもちろん、白百合の主人である蝶咲蓮のことを指す。

 つまり白百合が提案した逃亡の拠点は、彼女の主人である蝶咲蓮が住まう山奥の屋敷である。

 蓮が己の神であるかのように崇拝し振舞う白百合が、まさかそんな提案をするとは、ニコルにもマリアーノにも驚きの出来事だったが、彼女の言う通り、今はなりふり構っていられる状況ではない。

 ニコルやマリアーノでさえこの提案を予期できなかったのだから、世界海軍も、そうやすやすとここに辿り着くことはできまい――というのが、白百合の考えだった。

 結果、順調にことは運んだ。

 ニコルの傷も癒えたし、長期間の逃亡生活における三人の疲労も幾分か和らいだ。

 これならいつでも海軍とやりあえる。

「ん、このシャツ、少し小さいな」

 渡されたシャツはニコルの広い肩には少々窮屈を覚えさせた。袖も腕の途中までしか届いていない。

「主は小柄でいらっしゃるからな、お前の体格では少し小さいかもしれない」

「そういうことは先に言え」

「ふん」

 ちっとも悪びれた様子もなく、鼻を鳴らして白百合は明後日の方向を向いた。彼女の様子は平常時のそれだ。ニコルに対し悪態とそっけない口振りしか叩かない。長い逗留で、白百合の心も回復の兆しを見せているということだろう。

 ふと、ニコルは疑問を口にした。いつも通りの皮肉である。

「お前、こんなことして蓮が怒るかも、とか考えないのか?」

「……考えはする、が、おそらく主は、ここを勝手に使うことよりも、僕が望んで主のお傍を離れたことを怒っているだろうな。大胆に見えて、なかなか繊細な方だから……」

 顎に手を当てて考える素振りを見せる白百合だったが、すぐに思考を打ち切ったらしく、服を脱ぎ始めた。この国に仕える軍人だということを証明する、濃紺の軍服を。

 その様子を見て、ニコルは数ヶ月前のことを思い出す。記憶の中で軍服を脱いだのは白百合ではなく蓮だ。軍人としてではなく、ひとりの人間として、ニコルたち蜜薔薇の海賊団と友人になった瞬間。もう遠い記憶の彼方にあるかのようだ。

 白百合にとって軍服とは、蓮との繋がりを絶対視できる装束であることは、すでにニコルはわかっている。最初に蓮と白百合の軍服が鏡合わせであることには気付いていた。肩にかかる白いマント。ニコルが見たほかの軍人は、誰ひとりとして装備していなかったものだ。国王である蓮とその側近である白百合の率いる部下だ。相当の地位であるはずの軍人たちであるはず。しかし蓮と白百合以外、肩にマントをかけている人間はいなかった。

 蓮の白百合に対する絶対の信頼。

 白百合の蓮に対する絶対の忠誠。

 それが目に見える形になっている。

 白百合はその軍服を脱いだ。

 いつかに人前で軍服を脱ぐことが一番の苦痛であると、ニコルに言ったが――。

 ――単純に、限界が来ただけだ。

 誰からともなく、着替えようという話が出ただけだ。

 やっとニコルと白百合が今まで大切に着ていた服を着替える運びとなったのは、単に不潔感の限界が来たからだ。汗にまみれ、海中を泳ぎ、山道を登った。さらに言うなら夏から秋にかけてという、特に汗をかきやすい季節だ。それでもなおしばらくの間は三人我慢を貫いたが、十月に入ってその我慢も限界を超えた。

 風呂もある。炊事場もある。しかし家主たる蝶咲蓮がいないとなれば、迂闊に火も焚けられない――ゆえの、限界。

 服くらいは替えたいと思ったのだ。

 白百合がシャツも脱ぎ終えたところで、特に目を逸らすことなくその様子を眺めていたニコルが、皮肉げに声をかけた。

「お前、本当に女だったんだな」

「今まで何度も僕の身体を見ておいて、まだ信じていなかったのか?」

「いいや、実はお前が女なんじゃないかってことは、前々からマリアーノとの話題に上がってた」

「……なに? なにを根拠に……」

 怪訝なラピスラズリの瞳が、ニコルに向けられる。

「俺の方が気付くのは遅かったけどな。まあ、俺がそうなんじゃないかと思ったのは――六月に、お前を担ぎ上げたときかな。男があんなに柔らかいわけがない」

「ふん、下種が」

 白百合が吐き捨てる。

「性別などとっくに捨てた。僕にあるのは主だけだ」

「ふうん」

「海賊風情にはわからないことかもな」

「てめえ、傷物にするぞ」

「やっぱり下種だな」

 くすり、と、彼女は笑ったらしい。

 そこで、「あーっ!」という叫び声がふたりの耳を劈いた。

 見れば、着物姿のマリアーノが野草の入ったかごを片手に白百合を指さしている。

 かごをニコルに押し付けるようにしてから、マリアーノは白百合に詰め寄った。

「……え、なに――」

「女の子がみだりに男の前で肌出しちゃだめだよ!」

 言って、肩にかけていた羽織りを――これも蓮の箪笥から拝借したものだ――白百合へ羽織らせた。

「いや、僕は気にしないし……」

「白百合ちゃんが気にしなくっても、男は邪な考えを白百合ちゃんの身体を見てするかもしれないでしょ?」

「するのか?」

「え?」

「マリアーノさんは、僕の身体を見て、邪な考えをするのか?」

「う……する、かも……」

 真っ直ぐマリアーノを見つめ、白百合は邪気なく訊ねる。マリアーノがしどろもどろに答えると、すぐに彼から距離を取り、何ということもなく頷いた。

「ならばやめよう。忠告ありがとう」

 マリアーノにかけてもらった羽織りを胸の前で重ね、白百合は部屋を出て行った。

 それを見送るニコルとマリアーノだったが、しばらくしてから、ニコルがにんまりと笑う。

「マリアーノ。お前、あいつのこと……」

「え?」

 見れば、マリアーノの顔は林檎と見紛うばかりに紅潮していた。

「俺には蓮と仲良くするのやめろとか言ってたくせに、自分はその範疇外か? 別れがつらくなるだけだぜ」

「……わかってるよ、ニコル」

「まあ、お前がどうしてもって言うのなら、ここに置いてってやらねえこともないぜ?」

「馬鹿にしないでよ。俺がいない蜜薔薇の海賊団なんて、心配で見ていられない」

「それは悪かったな、不甲斐ない奴らばかりで」

「そこまでは言ってないよ」

「目が離せなくなっちまったんだろう?」

 ニコルは意地悪くペリドットの瞳を光らせる。

 意地悪や嫌がらせにおいて、自身を上回る者はそうそういないだろうと、ニコルは自負している。

 他人の嫌がることをする。

 他人が嫌がる言葉遣いで話す。

 昔は自分ほどの品行方正な人間はいないとまで思っていたニコルだったが、やはりあの事件で歪んでしまったという考えは否めない。

 誰も信用できなくなってから、彷徨の末に海賊に仲間入りを果たして、信頼できる仲間を集めて、世界に名だたる海賊になるまで――。

 長かった。

 それでも今までを生きてきた。

 隣にマリアーノがいたからこそ、生きてくることができた。

 もしも叶うならば、彼の心を応援したいと思う。

 そんなニコルのペリドットの瞳に見られたマリアーノは、けして目は逸らさず、彼のアメジストの瞳で見つめ返す。

「そうだよ」

 と、しばしの黙考の末、マリアーノは頷いた。

「へえ?」

 否定されると思っての挑発だったが、返ってきた肯定の言葉にニコルは眉をあげた。

「俺は白百合さんに惚れたのかもしれない。海賊と軍人なんてまるで敵同士の許されない恋だけど、俺は初めて、本気で他人を好きになったよ」

 恋情を覚えたよ。

 と、正面切って、マリアーノは言い切った。

 ――と。

「おふたりとも、ご高談の最中で悪いけど、あなた方に客人があるよ」

 そんな風に、白百合がいつの間にやら部屋に入るための襖を開けて佇んでいた。

 服装は、別室で着替えたらしく、男物の着流しを着用している。

「あっ! し、白百合さん……」

 マリアーノが明らかに動揺する。

「さっきの話、聞いてた?」

「さっきの話とは?」

「あ、いや……聞いてないならいいんだ」

 挙動不審になるマリアーノを怪訝な顔で見てから、白百合はニコルへ視線を向けた。ニコルは首を左右に振り、気にしなくていい、という意思表示をする。

「……で、俺たちに客、とは?」

 まさか白百合が裏切って海軍を呼び寄せたかもしれないという疑惑も抱き警戒しつつ、ニコルは白百合の言葉を待った。彼女の性格からしてそんなことはないと言い切っても構わないが『絶対』という言葉は存在しない。裏切りは、すぐ傍まで息をひそめて近付いてくるものだ。

 まあそもそも、白百合とニコルたちは協力関係を正式に結んだわけではないので、裏切っても責めるべきではないが。

 責められるべきは、彼女を誘拐したニコルたちである。

「………………」

 白百合は無言のうちに、中途半端に開いている襖をすべて開け放った――そこには。

「キャプテン! マリアーノ!」

 現在も海軍に囚われているはずの、クラレンスからなる蜜薔薇の海賊団の面々があった。

「クラレンス! どうして……」

 警戒が驚愕に変わる。自分の腰に抱きつく隻腕の少年を受け止めつつ、マリアーノが驚きの声を漏らす。

「蓮が、助けてくれたんだ!」

「蓮が?」

 クラレンスの言葉に、ニコルが反応した。

「うん。最初はなんだか人が変わったみたいにオレたちにつらく当たっていたんだけど、今日、見張りの目を盗んで、蓮が牢屋から出してくれたんだ!」


 ◇◇◇


 かつん、かつん、と。

 無機質な床に足音が響く。

 足音は彼らが幽閉されている牢の前で止まった。

 ついに最後のときが来たのか、と彼らは身構えた。

 俯いたままで、そんなことを考える。

 ――がちゃん、ぎぃ。

 と。

 金属がこすれ合う音がする。誰かが牢を開けたらしい。

 はて、食事のときにも、この牢が開いたことなどなかったが――。

 不審に思った海賊のひとりが、緩慢な動きで頭をもたげると、そこには、以前彼らに憎しみに染まったオブシディアンの瞳で睨みつけていた男がいた。

 ――遅くなって申し訳ありません。

 ――さあ、お逃げください。

 ――きっと今頃、ニコルさんたちはわたしの屋敷にいることでしょう。

 彼の瞳には憎しみなど宿っておらず、以前と同じ、穏やかなオブシディアンの瞳であった。

 ――どうして。

 ――お前はオレたちの顔さえ見るのも、いやなはずなのに。

 海賊の言葉に、彼は柔らかな微笑を返した。

 ――どうして?

 ――だってわたしたち、友人ではありませんか。

 ――さあ、騒ぎが起きる前に、どうぞ。

 牢から出ると、海賊のひとりが彼に問うた。

 ――あんたはどうするんだ?

 オブシディアンの彼は少し考え込むように顎に手を添えたが、しばらくして、

 ――わたしはここに残ります。

 と答えた。

 ――今、あなた方と一緒に行動を取れば、わたしの命はないでしょう。

 ――わたしが死んでは、あなた方に船を贈る約束が反故になってしまう。

 ――だからきっと、助けに来てくださいね。

 彼の微笑に見送られ、海賊たちは難なく海軍の軍艦から脱出することができた。

 そして海賊たちは今、ここにいる。

 こうして、蜜薔薇の海賊団はひとりも欠けることなく、全員が合流することができたのである。


 ◇◇◇


「ふうん」

 クラレンスのまとまらない話を脳内でまとめ――ほかの海賊たちは何故か話を代わろうとも、遮ろうともしなかった――ニコルは頷いた。

「蓮は、警備が一番手薄なときをずっと窺ってたんだ。それでオレたちは難なく逃げることができた――キャプテン、すぐに、蓮を助けに行こう。このままじゃ、蓮が罪人として海軍に捕まっちゃう!」

 昨月に白百合が言っていたことが早くも的中したというわけだ。

 以心伝心。言葉がなくとも、近くにおらずとも、繋がっている。心が通っている。

 それは蓮と白百合の絆というやつなのだろうか。

 主従関係以上に固い、ふたりの絆。

 羨ましいと思ったことがないと言えば嘘になる。そんな風に繋がっていられるふたりの絆を、自分も欲しいと願ったことはある。

 ニコルは唇の端を持ち上げた。

「それじゃ、助けに行くしかないよな。武器武具なんか必要なし。俺たちは徒手空拳でも戦える――ほかでもない、友人の頼みだ」

 しかし絆と言うのなら、蓮とニコルたちの間にも存在する。

 今までの生活で、培われてきた。

 培ってきた。

 それはきっと、ニコルがそう称したように、友情と呼べるものだ。

 友人。

 ニコルは初めて、蓮との関係を認めた。

 ――認めてやろうじゃないかよ、お人好しな王様。

 ――ひどい屈辱だが、それ以上に気分がいいぜ。

「待て」

 喜び勇んで屋敷から出て行こうとする集団に向かって、声をかけるのはひとりだけだ。

「僕も行く」

 端的に述べられた言葉に確認を取るまでもなく、発した人間はラピスラズリの瞳、白百合だった。

 クラレンスがニコルとマリアーノにことの詳細を話している最中に着替えたらしい――濃紺の軍服に右肩の白いマント。腰には刀を提げている。

「お前はここに残れよ」

「嫌だ」

「死にに行くようなもんだぞ。それに、軍人のお前がこれ以上俺たちに味方したら、この国と世界海軍の関係は最悪なものになっちまう」

「それがどうした?」

 白百合はどんと胸を張る。

「我が主が危険な目に遭っているというのに、従者である僕がなにもしないわけにはいかない。僕は僕の手で、主を助けに行く」

「………………」

「………………」

「世界海軍を敵に回してもか」

「世界海軍を敵に回してもだ」

 しばらくふたりは睨み合うように見つめ合っていたが――根負けしたのはニコルだった。

「……わかった。だが、これから一切、俺はお前を守れない。死んだらそこまでだ。いいな?」

 ニコルの脅しに近い言葉にも、彼女は怯まない。

「主を危険に晒し続けていただけで僕は死にそうな気持ちだ。その程度の脅しに怯むものか」

 ただまっすぐ、ラピスラズリの瞳で見つめるだけだ。

 白百合はずっと、こうして真正面からニコルたちと対峙してきた。

 それはなによりも、信用に足る意志表示ではないか。

 ニコルはぱん、と手を鳴らした。

「よし。じゃあ行くか。囚われの王様助けに」

 時刻はすでに十二時を回っている。

 十一月が、始まった。

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