応援コメント

10. ○○人と、○○民族。」への応援コメント

  • 本当にそうですね。おっしゃること、全面的に納得できます。

    血筋や肌の色で差別などしたくないのですが、幼い頃から「日本人」というと「先祖からこの地にすむ黒い目黒い髪のモンゴロイド」みたいなイメージがありました。
    大人になってから、そうとも限らないのだと理解してきました。
    大きな大陸で、多様なルーツを持つ国の方とは、自然と身についている感覚が違うような気がしています。

    これからは、自分でよく考えて、日本で暮らす様々な人々ができるだけ幸せであるように、柔軟に意識を変えていければなあ……と思います。

    作者からの返信

    松宮さん、ありがとうございます。

    こういうことは、外国に住んでみないとわからないことも多いです。
    柔軟にというのはいいですね。
    大事な部分は守り、柔軟になれるところはなる。
    それがいいと思います。


  • 編集済

    確かに、外国から来た日本に住む人は「日本に住む外国人」とずっと考えられてしまうところがあるかもしれません。私は海外に少し滞在していましたが、移民が多くて、日本人の身なりでもその国の人扱いされることも多くて逆にびっくりします。

    でも、どこの国でも本当にその国の人間になることは難しいです。私個人としては、「国籍」、「民族」、というより、「幼少期をどこで過ごしたか」が「その国の人間である」ために重要だと思います。
    40年別の国に住むイギリス人に会いましたが彼は「自分はイギリス人である」と結局言っていました。私も多分どこに何年住もうとどこの国籍を取ろうと、多分アイデンティティは「日本人」であり続けると思います。結局幼少期にその人の考え方、アイデンティティは培われるので、そこをどこで過ごしたが大事ではないでしょうか。それはその人自身の考えだけではなく、周りの見方もそれによって変わると思います。例えば、私は小中学校で、日本民族ではないけど、生まれも育ちも日本、というクラスメイトがいましたが、彼のことは肌の色が違おうとみんな「日本人」だと認識していたと思います。

    なので、ある場所で育った人間が他の国に住めば、その人は基本的にはやはり、"異邦人"であり続けると思います。でも異邦人という区分はユニークで、別にポジティブに捉えることもできると思います。

    個人的には国籍による区分はあまり重要ではないのかな、と思います。例えば、たしか生まれた時だけアメリカにいればアメリカの国籍を得ることはできますよね。でも私は生まれた時だけアメリカにいた友人を持っていますが、彼を「アメリカ人」とは誰も思わないと思います。


    ただ、確かに日本人は外国人と統合するのが苦手、外国人を扱うのが苦手で、より強く人に「自分は異邦人だ」と感じさせてしまうというのは事実でしょう。
    単純に日本にはそういう「海外から来て日本に住んでいる人」が圧倒的に少ない、移民受け入れの歴史がほとんどないから、というのがやはり原因だと思います。どう接すれば良いか、わからないのです。また、少ない、珍しいものは目立ってしまいます。また、日本は"普通"を大事にする国だと思うので、外国人という"普通"を知らない人たちに対してどう扱えば良いのかわからないのかもしれません。

    そして、私は日本での移民の受け入れについて、モラル的には無論賛成ですが、現在の日本のあり方の保存、という意味では複雑な気持ちです。
    なぜなら、アメリカでは移民の受け入れが歴史だったのと同様、日本では「鎖国」が歴史だったからです。世界の国際化は賛成ですが、世界の全てが統一的に「人種混合」の道を歩んでいくのは世界全体の多様性の点で少し寂しいことのように思います。世界で少しくらい鎖国を続けた国があるのも、それはそれで、世界のシーラカンスとして面白いと思います。
    こんなことは、目の前の貧困問題などに対してあまりにか弱い反論ですし、私もやはり国に"壁"を作るべきではないと思います。ただ私はそれが世界の単一化に繋がる気がして少し寂しいのです。



    あと、日本人には「移民問題」はわからない、という意見にも賛成です。私は海外で、「大麻の合法化」とか、「移民問題」とかの議題で議論する機会がありましたが、扱う社会問題自体、日本と海外では全く違うと思いました。
    結局それらの問題にまだ現実的に直面していないので、それらについての現実的な議論をするのは私たちにとって少し難しいです。日本人にとって大麻はそもそもマトモに生活していれば普通は触れる機会がほとんど訪れないものなのに、違う国だと「実際には吸っている人は大勢いるから、大麻を違法としているのは現状に合わない」というような意見があったりする。そういう観点は日本では全く生まれません。
    移民問題についても、「理想論として、モラルとして受け入れるべきか否か」、という議論はできても、実際にそれで日本がどう変わるのか、について想像を働かせることは今の日本人には難しいかもしれません。


    作者からの返信

    tenarperzonasさん、コメントをありがとう。
    読むのに時間がかかってすみません。
    読むのは、友人の助けが必要な時があります。

    興味深い話です。
    どこで育ったかは大きい問題かもしれない。
    もしずっと日本に住んでも、
    ボクの中のアメリカ人は完全には消えないかもしれないです。

    移民の問題は、日本がどうするのか、日本がどうなるのか、
    きっと今は誰にもわからない。
    日本は少し特別な歴史があるから。
    それをこれから見ていくのは、おもしろいと思う。

    ボクも、日本らしさはなくなってほしくないと思う。

  • 私の考えでは(あなたとは少し違うかも知れませんが)、「逃れられない属性が identity である」と言う考えです。
    例えば、私は、日本のやや全体主義的な傾向に、むしろ虐められて来た人で、日本のそう言う部分は大嫌いな人なんですが、外国人と話すとわりあい頻繁に、日本の過去の戦争責任についての弁明を求められます。
    私は直接の当事者ではないので、あくまで第三者として、歴史を評価して自分の意見として自分の考えを話すと、その答えが彼らの求めるものではない場合、「醜い日本人」として非難されます。
    あなたが仮に日本国籍を取ったとしても、そう言う場面で「醜い日本人」扱いはたぶんされないですよね? クジラの肉を一度も食べたことも無いのに、捕鯨について弁明を強いられることもないですよね?
    そう言うことをしばしば強いられる私から見れば「リスクを共有していない」と言う意味において、「白人の日本帰化人」はやはり同胞ではありません。
    申し訳ありませんが、それが実感です。

    作者からの返信

    本坊さん、率直な意見をありがとう!
    少し考えてみたが、自分が自分をどう考えるかと、相手が自分をどう見るかは、一致しないことがあるかもしれない。
    ボクが言いたかったのは前者で、本坊さんは後者をメインに考えているのではないか。
    そして、本坊さんが白人の日本帰化人を同胞と考えられないのも、後者が基準ということではないか。

    いろいろな見方や考え方があるのは事実で、それは否定できません。

    アメリカでも、たとえば、過去にネイティブアメリカンの問題がある。今の時代にアメリカ人になった人は、その問題に直接の責任はない。でも、普遍的な問題としてかかわることはできる。逆に、その人がその問題で責められることはないとしても、ボクは彼をアメリカ人と認めると思う。

    これは、やっぱり、○○人と○○民族ということの感覚の違いも大きいかもしれないね。それも、言いたかったことだ。

    話し合うことはいいこと。これからも、みんなで考えてみたい問題ですね。

  • アメリカで「アメリカは日本と違って多民族国家だなあ」と感じる機会は何度もあったような気がしますが、私にとって一番印象的だったのが「オリンピックの楽しみ方」でした。
    日本人の場合、自分が興味ある競技であろうと日頃は見向きもしない競技であろうと「とにかく日本代表が出ていれば応援する!」という傾向が強いと思います。だから日本代表が勝ち進んでいる間は見るけど、敗退した時点で見るのもやめてしまう。でも、アメリカでは(少なくとも当時の私の周りでは)全く違っていた。『国』を応援するのではなく「自分が興味のある競技を見て楽しむ」という感じでした。
    この点に関しては、多民族で形成された集団っていいなあ、と思ったものでした。

    作者からの返信

    鳥川さん、いつもありがとう!

    実は、オリンピックについては、生徒さんに訊かれたことがある。
    そのうちに、そのことを書こうと思っていた。

    日本の人たちのオリンピックの見方や楽しみ方が、あなたのコメントでもっと詳しくわかりました。ありがとう。