発禁小説家 八坂士十

一齣 其日

発禁小説家

 口の中に広がる血の味は、いまだに絶えやしない。

 どころかそうだな、幾度もぶたれ、嬲られ、叩きつけられを繰り返すもんだから、余計に深みを増す始末。だが、この鉄の味も悪くないと、思えてしまうところまできたらそれはそれでまずいだろうか。


「何をそんなにニタニタと笑っている、この非国民ッ」


 耳にくる怒声とともに、細身の体に鋭い一撃。骨に響くどころか、砕かれん勢いに思わず叫び声が出てしまう。我ながらその声は酷く無様で情けなさすら感じるが、でも自分はこの痛みに耐えられるほどの屈強な精神なんぞ持っていないのだ。

 そんな軟弱な精神を叩き治そうとするが如く、木剣の制裁は止まらない。肩、腹、胸、背中、しまいには頭部すら打ち付けやがる。  まさに非情。幾度も意識が飛びかかるが、その度に水を打ち付けてくるのも非情さに拍車をかける。生傷の絶えないこの体にゃ、冷たくしみる痛みは地獄よりも地獄的だ。この男どもには慈悲ってものがないのだろうか。

 ……いやまあ、無いんだろうな。無いに決まっている。

 慈悲ってもんがあるんなら、もう少し優しくしてくれそうなものだ。自分が閉じ込められている牢獄であろうところなんて、ウジが沸くぐらいの劣悪さだ。もとより、その牢獄で休める時間なんてのも、露ほどない。

 ついでに言うなら、叫び声やら呻き声やらは、何も自分だけじゃあない。自分の隣の部屋でも、このような拷問まがいなことが行われているのだろう、痛々しい叫びがよくよく耳に入ってきやがる。目の前の男のお仲間さんが、自分にするのと同じようなことでもしているのだろうよ。

 しかしまあ、さてはて。自分は一体どういういわれでこのような拷問まがいを、その身に受けているのだろうか。

 唐突かもしれないが、自分は小説家である。名を八坂士十、ペンネームもそのままだ。わざわざ名前を変えたって仕方ないだろう。しがない小説家だが、とある男からの仕事で文章が書ける以上、それなりの金は貰っている運のいい小説家だ。

 それでとりあえず小説を書いて、食いつないで、そう生きてきた自分が突然押入られ、縄に縛られ、拉致られてこのざまだ。

 しかも、見るからに自分を拉致ったのは、どうやら国の公機関らしい。というか、警官だ。きっちりと制服を着こなして自分のような市民を守ってくれるはずの警官は、今この自分を目の敵と言わんばかりに睨み付けると、自分の体を足蹴にして地に叩きつけやがった。

 犯罪のハの字もしてないんですけどね、こちらとしては。しかして、彼らは自分を極悪人のような風体の扱いをしやがる。一体全体なんだっていうんだろうかね。

 いや、そんな疑問を持つことは野暮か。本当は分かっているのに、わかっていないふりをすることの方が野暮か。


「けしからん! けしからんなぁこれは! こんなものを書く人間は、全くもってけしからんなぁ貴様は!」


 そうして奴らは、ご丁寧にもしっかりと問題のブツをこの自分の目に入れんばかりに、突きつけてくるもんだからさ。

 そいつは一見ただの文庫本だ。眼を見張るところがあるというなら、表紙絵に若干の趣味の悪さがにじみ出ているというところかね。だが、この趣味の悪さが自分が気に入ったところでもある。だから採用した、というのもあるんだがね。

 これでもうわかるだろうかね。そう、これは自分が書いた小説って事だ。自分がとりあえず頭に浮かんだことをありったけのまま、包み隠さず、しかしてとりあえずは読みやすいように書きなぐった小説さ。

 それなりに自信もある。面白いんじゃねえか、という自惚れた自負も一割未満はある。だが、そんな小説の為に、自分はこのような憂き目にあっているということか。

 このご時世、どうにも表現媒体に手厳しいところがあるってのは感じていたさ。国民の思想を統一だとか、戦争の為には公共の風紀を乱すものは排除だとか、ましてや国の方針に嘴の一つでも突っ込めば逮捕だとか、まあ色々だ。

 だからこそ、自重はせねばなるまい。自重をして、とりあえずはその時代の空気に合わせておけば、自分の身に危険なんざ及ばねえもんだからさ。


 けれど、自分にゃそれはできなかった。どうしても、できやしなかった。


 この身には到底抑えきれないような情動を、衝動を、感動を、吐き出さずにはいられないサガなのだ。抑えれば抑えるほど頭の中は渦を巻き、思考は思考とならなくなり、いっそ廃人にでもなっちまうんじゃねえか、とすら思えてしまう。

 だから、自分は書くしかない。それが風紀を乱すものであれども、それを書きたいから書くしかない。国への文句の一つでも浮かんだら、それを吐き出すしかない。馬鹿馬鹿しい戦争の一つでも起きたのなら、声を大にして馬鹿馬鹿しいというしかない。

 たとえ、このどうしようもない閉塞感漂う時代の流れに逆境を演じようとも、そして時代に排他されようとも、自分は書かずには……いいや、吐かずにはいられないのだ。


 ……その結果が現状じゃあ、何も格好がつかないわけではあるんだがな。


 時代の反逆者への鉄槌は、容赦なく振り下ろされる。このまま死んじまった方が楽なのかもしれない、と脳裏を微かによぎるくらいには参っちまってきているものさ。血は吐き尽くしたようにも思えるし、あまりの痛さに小便も垂れ流しで、彼らに笑いのネタをも提供してしまった。

 それでもなお、彼らは飽き足らぬ様子。案外、この閉塞感を何よりも苦痛に感じているのは、そう推し進めてる国の犬たちなのかもしれないな。それを自分に向けてくることは、勘弁してもらいたいんだがね。


「どうだ、これほどの苦痛を受けてもなお、貴様はまだこのような低俗な読み物を書き続けるというのかね」


 鬼面を下げた刑事風情のおっさんが、自分の髪を鷲掴みにしてぐいと顔を上げさせる。そう閻魔様が魂を見定めるよう、にまじまじと見られるのは正直恥ずかしいんだがな。貧相な顔が腫れ上がって、余計に醜くなっているわけでもあるし。

 しかしまぁ、書き続けると言われたら、書き続けると言うしかないのが自分である。なにせ、それしか自分は取り柄というものがありゃしない。それさえ失くしてしまったならば、自分にゃ何も残らないからさ。

 だから、自分は笑ってみせる。そう、二ヘラって、だな。あんたらに従う義理なんざねえと、そう言わんばかりに、二ヘラって。

刑事風情は、その顔を見て、自分の答えを悟ったらしい。

 掴んでいた髪を離すや否や、思い切りという言葉がこれ程よく似合うぐらいに自分の顔を蹴飛ばしやがった。歯の一本でも折れちまったんじゃねえかとさえ思っちまう衝撃、しかも顔面に直撃だ、呻き声すらあげられねえ。


「なんたる男だなんたる男だ……なんったる男だ! この戦わなければ、我らが故国の未来も危ういというこのご時世において、このような低俗な読み物を書く不埒者は許せぬなぁ! 許せぬなぁ! まだ、この痛みをもって、考えを改めるならまだしも、ふざけた笑みを浮かべよるか貴様は! キ、サ、マはぁ!」


 どうやら、この男はすこぶる愛国心が強いらしい。しかも、頭が石どころか鉄並みに頑固なものとみた。そんな融通の利かない男に対し、ふざけた笑みを見せたことは、どうしようもない間違いだったのかもしれない。

 事実、既にその間違いはその身を持って突きつけられている。蹴られた痛みは顔面全体にいまだ響いていやがるし、何よりこの男、どうやらまだ止まらないらしい。見れば先程までの木刀なんかではなく、どうやら鉄の棒みたいなものをその手に下げているじゃあないか。

 そいつを思い切り振り下ろすのだろうか、頭上に掲げて狙いを見定める。どこにきても痛いのは変わりはしない。覚悟を決めたところで、自分の軟弱な精神は、きっとこの痛みに耐えることができないだろう。だから、とりあえずはこいつが嫌になるくらいの金切り声くらいはあげてやろうか。自分にできる抵抗は、それぐらいなもんだからさ。


 そう思った矢先の痛撃。



「んあっ……?!」



 現実とは、ずいぶん非情なものだと、思わずにはいられなかった。

 振り下ろされた先、目に映ったのは、見事にへし折れた、自分の……右腕。

 筆を持ち、文字を書き殴り、頭に浮かぶ文章を吐き散らす、右腕。

 その右腕に今、痛々しくめり込む鉄の棒。


「あ、あ、ああ、ああああ、ああああああ?!」


 それは、拷問なんてものじゃない。文字を書き記す者にとっては、処刑にも等しい所業だった。

 絶望。そう、絶望だ。まるで、死出の山の谷底に落っこちて、そのままいつぶつかるかわからない無限の時を恐怖で過ごすような、そんな絶望に引き込まれる。


「このような不埒者の腕は、今この場で、この儂が叩き折ってくれるわ! それで貴様ももうあの様な低俗な読み物、書くこともできまい!」


 似非愛国者の満足げな雄叫びが、耳に響く。だが、もはやそれは自分の心にゃ届きゃしない。もはや、腕を失ったという事実が、自分を生きながらにして死に至らしめつつあるのだから。

 だが、この男は自分がそうなりつつあることを知らぬかのように、なおもなおも右腕、ついでに左腕にも小説家にとってのギロチンを振り下ろし続ける。

 もはや、叫び声すらあげられる気力もない。自分の魂の吐きどころが殺されゆく様を、無力にも眺めることしかできなかった。



……



「釈放だ」


 その一言が降ってきたのは、捕まって3日か4日か、少なくとも1週間は経っていないだろう頃だった。自分にそれを宣告してきたあの似非愛国者は、どこか苦虫を潰したような顔。このままここで、自分を殺してやる腹立ったのに、という言葉がありありと現われていやがる。

 しかして、自分も案外それでも構わないかのような、というか、このまま殺されてしまった方がいいような気分すらあった。肘から先の感覚は、もはや痛みしか残っておらず、今更娑婆に出たところで、生きる意味なんぞどこにもない。

 だが、釈放と言われてしまえば釈放である。連日続く拷問で立つ体力も根こそぎ奪われてしまっているもんだから、あの似非愛国者にその身を引きずられて、それでほいっと外へと投げ出される始末。こんな釈放があってたまるか、まるでゴミと変わらない扱いじゃあねえか。あまりに無体が過ぎるもんだから、つい自分でも可笑しくなってくる。

 でもまあ、釈放されたところで、肉親とは疎遠になり、一人都会に沈んだ身である。このようななりになった今、自分を引き取りに来るような人間など誰一人とていやしない。この足で住処のアパートに帰らなければ、ここで野垂れ死ぬしか無いだろうて。だが、腕がこうも痛みばかりで、二度とは動かせないかもしれないとまで思っちまう状況の中、この先を生きていたってしょうがないじゃねぇか、なんて気にもなってしまう。

 たまたま通りかがる人間は、自分を哀れむか、あるいは侮蔑の目で見下げるかのどちらか。決して、自分の側には近寄ろうともしない。助けを差し伸べる手も、一切ありゃしない。

 人に親切をよこしたって、何にも特にならないどころか、むしろ不運を背負っちまうこのどうしようもないご時世だ。これが懸命なんだろうさ。

 それに、自分だってそんなものを望んじゃいない。全てが自業自得の結果だ。自分のケツくらい、自分で拭かなきゃ一人の人間じゃねえだろうよ。

 誰かの手なんぞ借りようなんて甘えは、一っ欠片もねえさ。



「そうやって、貴方は今日も強がっておいでなんですね。惨めなのは変わりないくせに」



 落ちてきたのは、自分を嘲る痛い声。

 誰だ?

 ……いや、この声には聞き覚えがある、聞き覚えしかない。妙に神経を逆なでするような、そして若干反吐が出ちまうようなこの甘ったるい声。ああ、知っている。自分はこの声の主を知っている。わざわざ見上げて、顔を確認するなんて面倒くさいくらいには、な。


「……死に体の自分を笑いに来たか、恵美奈」

「ひどいですねぇ。きっと、体がボロボロで動けなくなっているだろうから、リアカー引いて迎えに来てあげた、というのに」


 今時な学ランを身に纏い、ニタニタと笑ってみせる男子学生……のようで、実を言うとまだまだ年端もいかぬ小娘、それが恵美奈という人間である。

 ちょっとした縁があり、この女は自分の住むアパートの隣の部屋で暮らしている。ついでに言えば、こいつが来てる学ランは自分のお下がりのもんだ。あいつが勝手に見つけて、勝手に着だしてしまったものだ。これに咎めようと思えばできたが、別に問題があるわけでもないので放っておいたら、このザマだ。

 まあ、この通りなんて言っていいのかわからんが、中々にこいつと自分は腐ったような付き合いがあるのであるが、自分はこいつが心底嫌いなのだ。

 何が嫌いかって、それすら話すことも嫌いだ。何もかもが気に入らない。特に、そうだ、望んでもねえってのにさも困っているだろうから、なんて分かった風に現れる今だとか、な。


「……そもそも、恩着せがましい言い方が、またムカつくな」

「そんなこと言わないでくださいよう。とりあえず、乗せますようっと」

「ちょ、おい……て、手荒に、扱う……ぐぇっ?!」


 こいつは女だから、自分を持ち上げる力なんてない。言ってしまえば非力だ。腕なんて小鹿の足のようだ。

 それでも、なんとかリアカーに乗せようとすればどうなるか。それも結構な怪我人を、だ。普通の人間なら、少し考えただけでもその結果は分かるだろう。


「いでえええ! おい、ほんとにいでえぞ、おい!」

「我慢してくださいよう。僕には、そんな力なんてないのお分かりでしょう?」

「自覚しているんなら、もう少し上手くやれ!」

「でも、それくらい大きな声を出す元気があるんなら、これくらい問題ないでしょ?」

「大アリだ!」


 いくら文句言えどもぶちかまそうとも、この女は改善しようとはしない。むしろ、自分が痛みに呻き、叫び、悶えてるのを楽しむかのような目をしてやがる。だから嫌いなんだ、この女は。

 まあ、そんな寸劇を繰り返しつつ、実際には引き摺り込まれと言った方が正しいのかもしれないが、なんとかリアカーに乗せられ、恵美奈は悠々と引いていく。

 しかして、学ランの少年とも見える少女が、ボロボロの乞食のような男をリアカーで引いていく姿。文章にしてみても、なかなか珍光景ではなかろうか。

 しかも、その引きは存外揺れが激しく、ところどころ怪我をした体にはかなり堪えるものがあった。


「お、おい……もう、すこし……丁寧に引けねえのか……」

「これくらい平気じゃないんですか? 苛烈な拷問に耐えた、なんて聞きましたよう?」

「ぜんっ、ぜん耐えれてねえんだよ、オイ……どこから流れてきたデマだよ、そりゃあ……いや、というかそもそもなんで自分が釈放されること知ってたんだお前」

「貴方に仕事をくれる人から聞いたんですよ。確か、スポンサアさん、でしたっけ?」

「あいつの言うことは、何も信じるんじゃねえ。とにもかくもだ、もう少し優しく引いてくれ、頼むから……」

「ええー、気丈に拷問に耐えた人から聞くセリフじゃないなあ」


 だから耐えれていないのである。泣き喚き小便漏らす始末だったのである。どうせだったら、見てもらいたいものだ。自分の情けないあの時分の姿を。

 ……いや、それはそれで嫌だな。どうせ、こいつはその後で、自業自得だから仕方ないですよね、なんて言うんだろうさ、しかも何処と無く恍惚さを漂わせた笑みでな。自分が怒り散らし、あるいは酷い目にあっているのをさも横から、対岸の火事でも見るようにほくそ笑むのが、恵美奈という奴なのだから。


「……まあ、でも、そこまで腕が酷い痛めつけられ方をしてるのは、流石に意外でしたけどね」


 そんな女のほんの少し、どこか落としたような声。ちらりと向けられた横目は、一体どんな感情が込められているのかはわからない。

 今の無様な自分が面白いのか? それとも、憐れみや同情なんか向けてくれるのか? まあ、こいつにどんな感情を持たれたところで、結局のところ惨めであるのは変わりねえだろうけどな。

 しかし、こんな腕じゃ二度と小説が書けるかどうかもわからねえものだ。もし書けないんだとしたら、もはやただ生きてるだけの人間になっちまう自分。このまま帰り着いたところで、それこそ生きている意味も何もない。


「……正直、お前が迎えに来なくても、良かった気はするんだがな。あのまま、自力で家に帰り着く途中で、野垂れ死にするのも、ある意味では自分らしい最期のような、気もしないでもねえ」

「らしくない弱音を吐きますねえ。いつもなら、嫌なことがあったなら、全部小説という形にする癖に」

「五月蝿えよ。……この腕を見りゃ、それができないのがわかるだろ」

「ええ、そうです、けど。……そういえば、スポンサアさんは次の小説も問題なく載せてあげるよ、なんて言ってましたよ。変な人ですよね、貴方のような、発禁になった人の小説をわざわざ出してくれるんですからね」

「知らねえよそんなもん。……できねえもんはできねえって、何度言ったらわかるんだよ」

「そう、ですかね……僕は、貴方がそう簡単に諦めるなんて、あまり想像できないんですけど、ね」


 随分と勝手なことを言いやがる。自分でも、諦める時は諦めてしまうものさ。

 どうしようもねえ。

 どうにもできやしねえ。

 感覚の遠いこんな腕じゃ、最早、筆すら持てやしねえだろうよ。だからもう、ほっといてくれた方が、そんでどこぞへと置いてくれてしまった方が、楽かもしれねえ。


「こんな自分に価値などありゃしねえんだ……いっそ、このリアカーから捨てちまってくれよ」


 弱音。そう、自分でも認めてしまえるほどの、しょうもない弱音。

 そいつに応える言葉はなく、リアカーから捨てられるでもなく、いつの間にか、この産廃の身体は自らの住処へと運ばれていた。街からはちょいと外れ、空はどんよりとした排気混じりの暗雲が立ち込める。その鬱屈とした雰囲気には、もはや慣れに慣れたと言ってもいいが、しかしやはりそんなにいい気もしないのが現状だ。


「ほら、着きましたよ、八坂さん」


 随分と寂れたボロアパート、そこが自分の住処だ。家賃は安いがトイレは共用、終いにゃ工場の薄汚れた煙が舞い込むもんだから、度々咳が酷くなる。もしかしたら、その点に関しては先ほどの拷問刑務所の方がマシかもしれない。

 だが、それはそれで、こういう場であるからこそ、我慢できないものを吐き出すところとしては良かったのかもしれない。自分の身を犯すくらいの環境の悪さの中で、足掻くように筆を走らせる。逆境への抵抗、ある意味それが自分の執筆の原動力だったのかもしれないが。

 その原動力ですら、今ではもう、ままならない。

 結局は、時代という波に飲まれ、沈んでいくのが自分の身。心底強大な力を前にしては、この脆弱な精神など、チリも同然。あっという間に散っていく。

 見下ろした腕は、相変わらず痛々しげな血と青痣に塗れていた。幾度も幾度も裁きの鉄槌を振り下ろされた、その腕。今一度動かしてみようとするも、感覚は随分遠いところにある。指一本がやっと、というところか。

 せめて自分らしく、自分があるがままに生きてきた結果がこれとは情けないが、だが、これも一つの結末。ピリオドの打ち所には、丁度いいか。


 負け犬の小説家の人生、ここに完……なんてな。



「何そんな終わってしまったような顔してるんですか、貴方は」



 それは突然、降ってきた。

 何もかもを諦め、心はとっくに死に物同然となってた自分の頭を金槌で打ち付けるように、叩きつけるように。


 まっさらな原稿数十枚に一本のペン。ついでにインクもおひとつ追加で。


 自分と、原稿と、ペン。

 それさえあれば小説は十分に書ける。いいや、十二分にも書ける。小説とは、得てして案外少ない持ちようでなんとかなるというもんだ。

 しかして、既に自分という腕が、吐き出そうとする腕が既に死んじまっている。そんな自分が、何を書けるというんだ。

 何もかもが終わってしまっているんだ。小説など、書けやしないのだ。吐き出せやしないのだ。


 だが、どうしたことかね。自分の腕が、おもむろに、ペンに伸びているのは。そのペンを、掴んでしまっているのは。


「案外、自分というのは、わかりはしませんよ。ただただ考えているだけじゃ、到底見出せないものもあるのです。それに向かい合った時にしか、わからないもの。ほんとはそれ、僕は貴方から学んだんですけど、ね」


 憎たらしいような甘ったるい声が、延々と脳髄に響き続ける。

 あいも変わらず、分かっているようなその口ぶりが気に入らない。その何もかも見通してますよ、と言いたいばかりの口調が気に入らない。

 それでも、こればかりは完敗かもしれない。一言一句、てめえの言う通りなのかもしれないと、そう思える自分がいるからだ。


 そうだ……自分は、書きたくないわけじゃあ、ねえんだ。



 自分にはまだ、吐き出しちまいたいもんが、あるんだよッ!



 瞬間、噴き出してくる文字がある。

 脳髄に埋め尽くされる言葉がある。

 吐き出さなきゃ、この身が潰されてしまうかのような代物。うっかりすれば、耐えきれずにゲロの一つでも吐いてしまいそうにもなる。

 そんなそいつらを、この腕を持って吐き出さずにはいられないのは、自明の理。

 だが、死に体の腕だ。無理に動かそうとすれば、どっかもっていかれそうな激痛が走るのは至極当然。それこそ雷をこの身に浴びるか、あるいは焼けた鉄ごてを散々に身に打ち付けられる、そんな感覚。

故にか、手先が震えて、どうにも文字は文字たり得ない。


「おい、恵美奈! テメエがわざわざ火を付かせてくれたんだ! なんか腕に添えるもんと包帯持ってきやがれ!」

「しょうがないですねえ。まあ、そういう風に無様に足掻く方が、僕としては好みなんですがね。でも、書くんなら中で書きましょうよ。こんなところで書いてたら、僕以外にも笑われますって」


 などとのたまう癖に、自分をその小さな体で背負うと、わざわざ部屋に連れ入れる。そして、親切にも自分でつけるつもりだった添え木までつけてくれる始末なのだから、つい無体なことは言えるもんじゃあない。包帯の巻きようがキツすぎて、痛みが増していようとも。

 けれど、今ばかりはこれでもいいのかもしれない。この痛みがあるからこその、この痛みでしか感じ得ないものを書けるというもの。


 そうだ、この痛みがなんだ、それがどうした、そういう事だ。


 むしろ、その感覚を、今この身に背負っているこの痛みを、全て吐き出しちまえばいいじゃあねえか。自分をここまで追い詰めた元凶どもへの怒りをこの原稿に叩きつけてやればいいだけの話じゃあねえか。

 いいや、褒めてやってもいい。よくもまあこんな小説しかかけないような自分が、まさか筆を折ろうとまで考えるまでに痛めつけた奴らは中々にいない。投書にカッターの刃を仕込まされても、あるいは批判の嵐の文面を叩きつけられても折れなかった自分を、いともあっさりポッキリ折ろうとしたんだからなあ。折れなかったけどなッ!

 ついでにケツに火をつけた恵美奈、貴様のことも書いてやろう。いつもの恨みも兼ねて、手酷く書いてやろう。手加減など最もだ。……いや、少しくらいは優しくしてやってもいいか。こいつに借りを作りっぱなしは、癪でもあるわけだし。

 全て、そう全てだ。ここに全て叩きつけてやろう。ここに全て吐き出してやろうじゃあねえか。

 そして、奴らの踏ん反り返った目に見せつけてやるのさ。てめえらの貧相な拷問などでは、決して屈しぬ自分の姿を。たとえこの小説が発禁になろうとも、いくらでも書いてやろうという心意気を。

 さあさあ、ここからが正念場さ。この手に縛り付けたペンをもって、まっさらな原稿に叩きつけ、書き散らし、吐き晒そうじゃあねえか。


「そうでもしなけりゃあ、自分は自分足り得ない。そうだろう、なあ」

「ええ、それが、僕が知っている、八坂士十ですよ。間違えても、変に投げ出さないでくださいよ。そんな貴方をからかうのが、好きなんですから、僕は」

「言ってくれるぜ、この女は」




……




 後日、又しても煩わしく踏み込んでくる足音が劈いてくる。そこには随分と焦りが込められているようで、嘲笑の一つでも飛ばしたくなる。それ程までに、奴らは怒り狂っているというのかね。

 まあ、それもそうか。自分らの所業をああもまざまざと書きつけられ、世間にばら撒かれたりしたんじゃ、焦り怒るのも無理はない。普通なら、あんな拷問食らっちまったら、縮こまったミミズのように萎縮するしかないと考えている輩なんだろうからさ。

だが、自分は違った。反省の色無しとはこのことよ。あいも変わらず自分勝手な小説を吐き出す始末。ついでにあんたらへの恨みも兼ねてありのままに……自分の文句もありのままに書かせて頂いたってわけでね。

 まあ、それで当然のごとくやってくるわけだ。怒り猛々しくドアを踏み開け、憤怒の形相をこちらに向けて警棒を向けてきた、というもんさ。

 鎖に繋がれていても、犬というのは煩いものだ。だがまあ、この煩さも、また小説を書く原動力となるのならば、甘んじて受け入れてやらないでもない。これでまた一つ、ネタができるというものだ。

 それでも、あの痛みを想像すると、妙に震えちまうものがある。やはり怖い。正直胃から込み上げそうになるものがあるくらいには、怖い。

 だからこれは強がりだ。

 せいぜい、なけなしの勇気をもって、ちょっとした格好つけなきゃ、如何にもこうにもやってられない。強がって、意地張って、脆弱で貧弱なりに、自分の人生自分なりに吐き散らして生きていくのさ。

 そうでもしなきゃあ、自分はどうにもやっていけないわけで。

 だから、そんな自分を罵声を飛ばすヤツらに、こう一言、言ってやるのさ。


「誰がなんと言おうと、これが自分だ、八坂士十という、人間さ」

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