【人為探偵】

第1話 「展示物に落書きをしてはならない」

              ◇



 「展示物に落書きをしてはならない」


 美術館や歴史的な寺社仏閣なんかのパンフレットの最後にはよく注意書きが書かれている。


 「館内が静かに」だとか「順路を守るように」だとか。


 しかし「展示物に手を触れてはならない」だとか、「展示物の写真を撮ってはならない」だとか、そんな注意書きはよく見るけれど、「落書き」にまで言及している美術館は案外少なかったんじゃないだろうか。


 それは言うまでもなく、それは言うまでもないことだからだ。


 美しいものを見て手に取りたいと思うことは当たり前であるし、自分の目よりレンズ越しの映像の方に信を置いているのが現代人である。


 うっかり手を伸ばしてしまい、うっかりシャッターを押してしまう――もしかするとそんなことはあり得るかもしれない。 


 けれど、うっかり落書きまでしてしまう人間というのは実際のところあまり居ないのだ。


 綺麗なものを汚したいという欲求に駆られる倒錯者は少数派だから倒錯者と呼ばれるのだし、仮にそんな欲求があったとしても人間というものには理性がある。


 だから、人間的に考えれば「美術品に落書き」をすることなんて起こり得ないことなのである。


 そんな注意書きがないことこそ、その証明であろう、注意書きというものは起こり得ることに対する予防線として機能しているのだから。


 いや、予防策というより防備策か。


 「注意書きとは予防線のことである」とは言ったがその成り立ちと変化を考えれば、ほんの少し「予防」という言葉は適切ではないのかもしれない。


 恐らく、注意書きの成り立ちを考えれば「起こりうる」――なんて未来の話ではなく、既に起こり得たことに対する経験則から注意書きが来ていることの方が多いのだろうから。


 「誰かが触れるかもしれない」という懸念から「触れるな」というルールが出来たのではなく、「誰かが触れた」から「触れるな」というルールが出来たとする方がやっぱり自然だろう。


 「触れるな」ではなく写真撮影にしたってそうだ。


 いただきますの前に料理をカメラで撮りネットの海に漂流させるのが、もはや挨拶の一部となっているこのご時世だが、百年前の日本人は食事の前に写真共有アプリに投稿するなんてことはしていなかっただろう。


 他にも「ロジャー・ラビット」という僕も好きな映画があるけれど、1940年代アメリカが舞台のその映画で、主人公の一人・エディは探偵業を営んでいるというのに友人にずっと貸しっぱなしだったカメラを返してもらう、なんて一幕がある。


 それは探偵という職務に情熱を失っていたエディを端的に説明する場面でもあるのだろうが――しかし、見方を変えればその時代はそれほどまでにカメラが特別なものだったということを表す場面でもある。


 カメラの貸し借りなんて、きっとスマホ持っていれば全員カメラマン、そんな現代において起こり得ない行為なのだろうし。


 それを踏まえれば――僕は百年前にも1940年代にもまだ生まれていなかったし、「近代における美術館の禁則事項の変遷」だなんて研究もしたことがないのだから、はっきりとは言えないが。


 しかし、その時分ならば、美術館に「手を触れてはならない」との注意はあっても「写真を撮ってはならない」なんて文言は無かったんではないだろうか?


 それも勿論、その時代のカメラの希少性から「言うまでもないこと」だったというだけなのだろうけれど、時代が変われば前提が変わる、前提が変われば前例も起きる、前例があればルールも変わる――これはそんな一例ではないだろうか。



 だとするならば先月のあの事件である。


 先月、とある高校生が奈良の方隆寺で柱に落書きをしたというショッキングな事件があった。


 その話を聞いて高校生になってまだそんな物の分別がつかないのか、教師とはそんなことまで教えなくちゃならないのかと、僕は震えたものである。


 「消えるボールペンだからいいと思った」なんてその高校生の発言には二度震えたものだ。


 僕は先程「落書き」に関する注意書きは案外無いと言ったが、しかしその文言を採用し、インク類の持ち込みを禁止する美術館が年々増えていっているということも事実だ。


 先の高校生のような前例が幾つもあれば、入口のパンフレットの禁則事項の項目には、今後「境内の文化財を汚損・破損することは出来ません」だなんて文言が追加されるのがイッツアスタンダードな流れになるのかもしれない。


 ……もっとも、今後なんて悠長なこと言わなくともこの雲燕寺の境内マップには明日にでも、消えるボールペンではなく、消えない赤文字でその一文が殴り書きされるのだろうが。

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