第2話 落書きされた掛け軸

              ◇



「その小娘よりも価値があるんだぞ! 分かっているのか! ええ、おい!」


 事前に何度か顔を合わせた時の、その穏やかな様相がどこかに飛んで消えてしまったかのように、雲燕(うんえん)寺の六分魅(ろくぶんみ)住職は僕をヒステリックに怒鳴りつけた。


 見学の打ち合わせの時は終始落ち着いた物腰の方で、よもや「小娘」だなんて乱暴な言葉遣いをするような方とは思っていなかったから僕は思わず度肝を抜かれてしまった。


 そんな怒気に当てられてしまえば、まだ若輩の僕は何も言えなくなってしまう――が、しかし、今の僕の後ろには僕が守るべき生徒が居るのだ。


 可愛い(他意はない)女子中学生達が僕ですら竦んでしまうその気勢に直接晒されてしまうというのは忍びない。


 背後の様子は窺い知れないが、きっと彼女らは僕以上に怯え、慄いていることだろう。


 そんな彼女らの不安をほんの少しでも和らげようと僕は、


「僕はまだ話を聞かせてもらっていないのですけれど、一体何があったんです?」


 と、極めて平静を装って尋ねた。


「…………」


 六分魅住職はその質問に答えることはなかった――恐らく、それは僕の取り繕った態度が気に障ったのではなく、単に血が頭に登りすぎて何も言葉が出て来なかったというだけだろう。


 だから、言葉の代わりに彼は「中に入れ」とばかりに目の前の茶室———「雲燕寺」の誇る「不穏(ふおん)庵(あん)」の入り口を乱暴に指し示したかと思えば、「ついて来い」と、次の瞬間には身を屈め中に入って行ってしまった。


 これ以上住職のご不興を買うわけには行かない僕は、後ろの四人に先に入るように促し(「お前は絶対に手を出すなよ」と釘も刺し)僕自身も時の権力者達にさえ帯刀を許さなかったというその小さな入り口を潜る。


 そして――


 ……なるほど。


 なぜ、住職が電気ケトルの如く怒り狂っているのか? 茶室に入ればその理由がすぐに分かった。


 「なるほど」なんて落ち着いて言ってみたけれど、それは彼が活火山のように怒り狂うのも頷けるものだった。


 いや、むしろ住職の怒り程度では二束三文にしかならないだろう、仮にそれに対する「怒り」に適正量があったとするならば、住職から発せられる怒りなんてものは満額には程遠い。


 まさしく百聞は一見にしかず、彼が怒りにあかせ、感情のままに口頭で説明してもこうまで事態の把握をすることは出来なかったことだろう。(六分魅住職にそんな意図はなかったのだろうが)


 僕は茶室文化という物については殆ど何も知らないが、茶会にはお茶、和菓子と並んで、掛け軸が欠かせないものだと聞く。 


 その掛け軸にはその茶会の意図や、足を運んでくれた客人への労いの言葉が描かれており、主人が客人を迎える度――茶会の度にその都度その都度、その会合に相応しい掛け軸を掛け直すらしいのだ。


 それが一般的な茶会の掛け軸ではあるのだが、ここは現在においては茶会の為のではなく専ら見学の為としてだけ使われて久しい雲燕寺の茶室、不穏庵である。


 だから、ここに掛けられている掛け軸が出迎えるのは茶会に参加する客人ではなく観光客ばかりで、観光客が来るたびに掛け軸を毎度毎度、掛け変えているということはしていないらしい。 


 しかし、言い換えれば「不穏庵の掛け軸」はそんな風に取り替えられることなく、ずっと茶室文化の一端として、外国人旅行者や今日のように、修学旅行の生徒を出迎えている一点物なのである。


 だから……まあ、なんというか貴重というか――僕のような俗な人間の言葉でいいなら、茶会を開く為に掛け直されるような掛け軸よりは、ずっと文化財としてそこにある掛け軸は少々お値段が張るのだ。


 金額でしか物の価値を表せない自分が恨めしいが、要するに一つしかない不穏庵の掛け軸はかなり高価なものなのである。


 もちろん、高いからにはその掛け軸にはその値段相応の幾つ物の特徴があったのだろう――古くからある物だとか、さぞ高名な方が書かれたとか、かつては誰それの持ち物であったとか。


 物に歴史あり、人に物語あり――この掛け軸だって歴史的な出来事を構成し、何か物語を語るに置いて重要な要素の一つだったのかもしれない。


 しかし、今となってはその掛け軸を指し示す言葉は「僕には分からないが高そうな掛け軸」ではない。


 「僕でも分かるほどに落書きされた掛け軸」だった。

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