赤ペンは心の友

篠原 皐月

人間性は多種多様


 とある私立高校で、定期試験が無事に終了した日。数学科の教員室では、その場に相応しくない怨嗟の声が上がっていた。


「あぁあああっ! どいつもこいつも! 私の時間と労力を返せえぇぇっ!!」

「五月蝿いぞ、沢井。他人の仕事の邪魔をするな」

 着任三年目の教員である沢井舞が、赤ペン片手に目の前の答案用紙を睨み付けながら憤怒の形相になっているのを、隣席の東和文孝が冷たい目で見やる。しかし舞は恐れ入る事無く、二年先輩の彼に切々と訴えた。


「だって東和先生は、自分が教えた内容が生徒の頭に入っていない現実に、愕然としないんですか!?」

「生徒の頭が悪い。俺達の教え方が悪い。あるいはその複合の結果。それがどうした」

「……聞いた私が馬鹿でした。だけどこれは、あまりにも酷くありません!?」

「うん? その答案用紙がどうした?」

 冷たく切り捨てられてがっくりと肩を落としたものの、舞はすぐに目の前の答案用紙を手に取り、東和の前にかざしてみせた。解答欄が殆ど埋まっていないその答案用紙を見て彼が怪訝な顔になっていると、舞がその用紙の一点を指差しながら吠える。


「ここです!『I don't know this answer.』って書いているんですけど、よりにもよって『know』の綴りの最後の『W』が『U』になってるんですよっ!」

「…………」

 その時、室内には舞を含めて六人の教員が居たが、全員ペンの動きを止めた事で室内に不気味な沈黙が満ちた。


「……何点だ?」

「え?」

「その江田の点数だ」

「ええと……、20点ですね」

「5点マイナスで15点にしておけ」

「なるほど! 東和先生、頭良いですね!」

 東和と舞の間でそんな会話が成立したが、立場上傍観できなかった数学科主任教員の田辺が呆れ声で会話に割り込んだ。


「沢井、東和、そこまでにしておけ。点数は20点。答案用紙はコピーを取って英語科に回す。分かったな?」

「……分かりました」

「すみません。沢井が真に受けるとは思いませんでした」

 一応素直に謝った二人だったが、再び採点を始めた舞は無意識に愚痴った。


「それにしても……、どうして英語で書くのよ。素直に日本語で『分かりません』って書けば良いじゃない」

「君の気を引きたかったんだろう? やり方が馬鹿で、如何にもガキだが。ガキはガキなりに考えているって事だ」

「はぁ? 意味が分かりませんが?」

「……そうだろうな」

 淡々と応じながら、サラサラと赤ペンを滑らせていく東和を見て、舞は何となくムカついた。しかしその理由が分からないまま、目の前の仕事に集中しようとする。


「この仕事って、いつまでアナログなんでしょうかね? もうすぐ全生徒にタブレット配布で、採点もチャチャッとAIがやってくれたら、凄く楽なのに」

「それなら、俺達教師は失業じゃないのか?」

「……東和先生、もう少し明るく夢を語りましょうよ」

 即座に切り捨てられた舞は溜め息を吐いたが、東和の口調は変わらなかった。


「確かに便利だし、画一的な教育ができると言う面では、一元的なシステム管理は重要だと思う。だが何から何まで機械から教わるって言うのは、人間としてどうなんだろうな? 種として退化しているような気がして仕方がない」

「田辺主任! 東和先生が変です!」

 東和の台詞を聞いた舞が思わず立ち上がり真顔で田辺に呼び掛けた為、東和は軽く顔をしかめてから話を続けた。


「失礼な奴だな……。とにかく、俺は教育と言うものは人と人との繋がりや関係性を作る事で、成し得るものだと考えている。だからどれだけシステムが便利になっても、教育に人間性は必要だと思う」

「だから教師は必要だと? 人間性に問題がありそうな東和先生から、言われるとは思いませんでしたが」

 うっかり考えた事を駄々漏れさせた舞に、東和が冷たい目を向ける。


「……何か言ったか?」

「いえ、何も言ってません!」

「それなら採点を続けろ。ほら、次からはお待ちかねの特進クラスの答案用紙だぞ?」

「そうですね! もう最後にこのクラスを持ってこないと、やってられません!」

 さりげなく東和に机の上を指摘された舞は、嬉々として再び答案用紙に向き直った。


「きゃあぁぁっ! 鳥居さん凄い、さすが! この引っかけ問題に惑わされず、良くこの正解を導きだした! お姉さん、嬉しいわっ! あぁああっ、この100点をサラサラと書く時の快感! この為だけに教師をやっていると言っても良いわよね!」

「五月蝿いぞ、沢井」

「申し訳ありません!」

「……全然申し訳無いと思ってないよな。喚いていると喉を傷めるぞ。これでも舐めてろ」

「ありがとうございます! いただきます!」

 満面の笑みで謝罪した舞を見て、東和が疲れたように溜め息を吐いてから、机の上に常備してあるのど飴を舞の机に一つ放って仕事を続ける。そんな二人のやり取りを少し離れた所から窺っていたベテラン教員の大塚は、隣の田辺に笑いを堪える表情で囁いた。


「さっき沢井先生が東和先生の事を『人間性に問題がある』とか言ってましたけど、そんな事はありませんよね?」

 それに田辺も苦笑で応える。


「全くだ。あれでなかなか解りやすいんだがな」

「あの二人、タイプは違いますけど、違う意味で教師には向いてますよね?」

「そうだな。将来どうなるかは分からないが、今現在の教師の俺達には、まだまだ紙とペンと人間性が必要だ」

「その通りですね」

 年長者二人はそんな会話を交わしてから、何事も無かったかのように再び手元の仕事をこなしていった。



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