第3話
寒風がひまわり組のガラス戸を乱暴に叩いている。まるで外にはびこる暗闇が室内に入りこもうとしているかのようだ。私はほうきから手を離して、ガラス戸のクレセント
陽平先生が行方不明になってから、丸三日が過ぎようとしている。警察には園長先生が連絡したものの、いまだ安否は不明だ。園児にはお休みという
そんな中でみよちゃんが一昨日、陽平先生の消息を口にした。とはいえ、人見知りの彼女は事情聴取に来た中年警官を前に口をひらかなかったので、代わりに私が聞きだすことになった。
「先生はここ」
すみれ組で子どもたちが粘土遊びをしている間、みよちゃんが指し示したのは、例のピアノの裏だった。警官と二人がかりでピアノをどけると、案の定そこには黒い穴のらくがきが大口をあけていた。
警官はしばらくあ然としてから、みよちゃんに説明させるよう私に目で訴えた。その表情はやけにこわばっていた。彼もまた、らくがきのただならぬ薄気味悪さを感じたのだろう。
私がみよちゃんに詳細を聞くと、彼女は
「陽平先生は、んぼーが連れていっちゃったの」
「えっと、どういう意味かな」
「んぼーも、絵描き歌で遊びたかったんだって」
会話のキャッチボールが成立していない気もしたが、私はめげずに耳をかたむけた。
「だからんぼーは、わたしに絵描き歌を教えたの」
「うん」
「んぼーは、それを陽平先生に描いてもらいたがってた」
「それで?」
「でも先生は、上手に描けなかったの。だから、この穴の向こうに連れていかれちゃった」
みよちゃんがらくがきを穴と称したことに、私の肌が粟立った。自分の印象とまったく同じではないか。
深呼吸をして、私は質問を続けた。
「穴に入っちゃった陽平先生は、それからどうしたの?」
ここでようやく、みよちゃんが感情らしい感情を表に出した。かすかに小首をかしげたのだ。
「先生に教えたでしょ」
「え?」
「陽平先生の絵描き歌」
「…………」
「陽平先生、今はあんなかっこうになって、んぼーと遊んでるの。ほら、あそこ」
と、みよちゃんは穴のらくがきに手を振った。誰かがそこにいるかのように。
警官はさじを投げたようにため息をつくと、らくがきは念のため残しておくよう伝えて帰っていった。みよちゃんの話は有益ではないと判断したようだった。当然だろう、誰が聞いても子どもの作り話に過ぎないのだから。私だってうのみにはしていない。
しかし陽平先生がいなくなったあの日、ピアノと壁の隙間は大人一人が入れるほどにあいていた。みよちゃんが動かせる重さではないはずなのに。その事実が妙に生々しくて、どうしても作り話だと切って捨てられない自分がいる。
もしみよちゃんの言葉が、仮に真実だとすれば、彼女には陽平先生の変わり果てた姿が目に映っていることになる。その姿をあの絵描き歌でたとえたのだとしたら、本物の姿はどれほどおぞましいのだろうか……。
「いけない、いけない」
わざと口に出して意識を戻す。一昨日の件はひとまず忘れることにして、私はひまわり組のはき掃除を再開した。
丁寧にほこりを払いながら、臨時担任としてすみれ組で過ごした時間を振り返った。子どもたちの元気な声が、耳の奥にありありとよみがえる。あのひとときだけは、胸にわだかまった不安を忘れられた。それだけに、今はほうきと床のこすれる音がひどく乾いて聞こえた。
直美先生とみよちゃんは、今頃なにしてるかな……。ふと、隣のすみれ組が気になった。
今日の預かり保育担当は直美先生だ。時刻は十八時四十分。二十分ほど前に、みよちゃんは直美先生と和室からすみれ組に戻ってきた。二人でなにをして遊んでいるのだろう。人形遊びやおままごとだろうか。
それとも、絵描き歌……。
背筋に悪寒が走った。『かごめかごめ』のメロディが脳内で反響する。
私は頭を振ってメロディをかき消した。でも一度意識すると、どうしてもピアノや棚の裏に目が引きよせられてしまう。もしかしたら私たちが知らないだけで、あのらくがきは幼稚園の至るところに存在しているのではないか。さながら
寒くなった背筋をなぞるように、隣のすみれ組から物音が響いた。重たい家具をずらすときに耳にする断続的な重低音だ。私が肩を跳ねさせると、次は
「な、なんの音……」
身をこわばらせながら、しばらく耳を澄ませてみる。でもガラス戸が風に揺すられる音以外、物音はぱったりとやんでしまっている。
落ちつかなくなった私は、ほうきを片手にすみれ組をのぞくことにした。肌寒い廊下を左に進み、すみれ組の手近のドアをそろそろとあける。
直後に息をのんだ。
すみれ組は暗闇に包まれていた。電灯がついていないのだ。暖房の音もしない。それでも空気はまだ暖かい。ドアを全開にして廊下の白い光を注ぎこむと、室内の三分の二ほどがぼんやりと浮かびあがった。中央には一卓のテーブルがある。その席に、スモッグを着た子どもの後ろ姿が見えた。
「みよちゃん……?」
部屋の入り口で声をかけた。にもかかわらず、背中はまったく反応を見せない。ガラス戸が風で騒いだ。
「みよちゃんだよね? 直美先生はどうしたの?」
彼女は手にした画用紙に目を落としているようだった。振りむく気配はない。
「直美先生、いないんですか……?」
ほうきを胸元に持ちながら、私は壁の埋めこみ型スイッチをつけた。乾いた音が静寂の空気を貫く。ところが、天井に明かりがともらない。確認してみると、スイッチを消灯側に押していた。つまりこの部屋が暗いのは、スイッチを消したからではなく、ひとりでに電灯が消えたからということになる。
もう一度スイッチを点灯の側に押してみる。つかない。私はドアをあけたまま、みよちゃんのそばまで歩みよった。
「ねえ、みよちゃん。こんなところでなにしてるの? 直美先生は?」
ここで私は、自分が三日前と同様の質問をしていることに気づいた。そのせいか、自然と体が背後のピアノの方へ向いた。
「ひぃっ……」
きゅっとのどが引きつった。暗い室内でも、一目でそれを理解できた。
廊下側の壁に密着して置かれているはずのピアノ。その位置がずれている。黒穴のらくがきがある左側に、大きな隙間が生まれていた。
みよちゃんは、黒穴のらくがきに陽平先生が連れていかれたと語った。あのときもピアノは壁から離れていた。しかし隙間は今回の方が若干大きい。そして直美先生は女性ながら、陽平先生より横幅があった……。
両目でピアノをひたと捉えたまま、私は震える手でみよちゃんをさぐった。
「み、みよちゃん。ここから、先生と一緒に出よう。ひまわり組で遊ぼっか。ね?」
急に風音が鳴りやんだ。さらに廊下の電灯が明滅して、ふっと消えた。
私は短い悲鳴を上げた。その後、再び廊下に明かりがついた瞬間、今度は絶叫を吐きだした。
暗いすみれ組の部屋一面に、無数の黒穴のらくがきが生まれていた。床も壁も天井も、棚やおもちゃ箱にもびっしりと、大小様々な穴がひしめいていたのだ。
戦慄のあまり、私は一歩も動けないでいた。足元の数センチ先に、大きな穴があいている。震える指からほうきが離れた。するとほうきは音を立てることなく、爪先の向こうの
それを見て絶句していると、どこかの穴から汽笛めいた音色がかすかに響いてきた。
んぼぉぉ……んぼおおぉぉ……
私は唐突な吐き気に口をおさえた。全身をじっとりとねぶられるような気色悪い音に、胃液が逆流しそうになる。でも、吐き気の原因はそれだけではない。
その音が、陽平先生の声に聞こえたのだ。
これが皮切りとなって、他の穴からも続々と重苦しい音がにじみ出てきた。
不気味な音波の振動が、空気から皮膚へ、皮膚から肉へ、肉から骨へと染みこんでくる。体中の細胞が侵食されて、共鳴するように震える。私は耳を塞いだ。しかし音は私を
「先生」
そのとき、背後から呼びかけられた。同時に、穴からの呼び声がやんだ。
私は足の裏をそのままに、上半身だけで振りむいた。今まで私のそばに座っていたはずのみよちゃんが、いつの間にかその対面の席に腰かけていた。
「んぼーが、絵描き歌で遊びたいんだって」
彼女は画用紙を差しだしてきた。
「…………」
まさか私に、んぼーの絵を描けと言いたいのか。
全身から汗が噴きだした。今から私は、んぼーなる得体の知れない化け物の絵を描かされる。出来が悪ければ、陽平先生や直美先生と同じ末路を辿ることになってしまう。
私はさきほどまでみよちゃんが座っていた席に正座した。床に足をつけたくなかった。
みよちゃんがわずかに胸を膨らませた。私は耳に全神経を集中させて、廊下のかすかな光を頼りにマジックペンを握りしめた。
そして少女はあの日と同様に、『かごめかごめ』に似た不気味なメロディを口ずさんだ——
じゃのめ じゃのめ
かおの あなに おおきな
ひる ひる ねばる
よだれの ように
じゅるっと はえが うねった
うしろの しょうめん だあれ
「…………」
なんとか、描けた……。
私はひとまず胸をなで下ろした。そして改めて自分の絵を見返した。
最初の『じゃのめ じゃのめ』とは、
続いて『かおの あなに おおきな』『ひる ひる ねばる』は、まず顔を作るために二つの『じゃのめ』を円で囲んだ。その顔に黒丸をいくつか塗って穴とした。『ひる』は
『よだれの ように』『じゅるっと はえが うねった』では、顔の下に黒い渦をよだれとして垂らした。一匹の
そして最後の『うしろの しょうめん だあれ』。こればかりはどう描けばいいのか見当がつかなかった。なにせ『うしろの しょうめん』は矛盾表現なのだから。
しかし『だあれ』と締めるので、ここの歌詞は、んぼーのことを示しているのではないかと推測した。後ろを振りむけば、目の前には絵描き歌の対象である、んぼーがたたずんでいる……そういう意味だと解釈できなくもない。なので、ここだけは手を加えないでおいた。間違ってはいないと思う。いや、合っているはずだ。合っていなければならない。
それにしても、この絵描き歌の歌詞はどことなく『かごめかごめ』に近い。母音が共通している部分が多いのだ。これは一体なにを意味するのだろうか。
すっかり冷えきった室温の中で思考を働かせると、一つの説がひらめいた。さすがに馬鹿げていると否定したくなったが、なぜか無視できない解釈だった。
童謡には、実はおそろしい真実が隠されているとよく言われる。特に『かごめかごめ』には、
でも、『かごめかごめ』にまつわるその不吉さが、意図されたものだとしたら。
たとえば、なにかしらの不吉な存在を人間が忘れてしまわないよう、昔の人々が警告をこめてさきほどの歌を作ったのだとしたら。
それが時代と共に形が変わって、『かごめかごめ』になったのだとしたら……。
「先生、見せて」
みよちゃんが小さな両手を差しのべてきた。我に返った私は、おずおずと画用紙を渡した。
彼女が絵をじっと見つめる。その間、私は気が気でなかった。今にも周囲の黒穴から化け物がひょいっと顔を出しそうで、目をつむりたくなる。しかし、そうしながら審判を待つのはもっと怖い。私は結局、片目を閉じて身をかたくした。
お願い、お願い、お願い……。私は両手を組んで神に祈った。組んだ手の骨がきしむほど力をこめて。
そしてついに、目の前の小さなくちびるがひらいた。
「全然ちがぁう」
突如、みよちゃんの姿が真っ黒になった。テーブルも瞬時に闇で覆われる。
なにかが、私の背後に立っている。廊下の光をへだてるように。
ガラス戸の窓にわずかながら反射した光は、後ろの正面にいる『そいつ』を映しだしていた。
それを目の当たりにした私は、とっさに喉を絞って吐き気をこらえた。
こんな奴、描けるわけがない……。
私の歌詞の解釈は、まるで見当外れだった。そして思い知らされた。
『じゃのめ』が意味するものと、そのいびつな形を。
『ひる』に似たなにかの、あまりにおびただしい数を。
『じゅるっと はえが うねった』の奇怪なうごめきを。
そして『うしろの しょうめん』の尋常ならざる光景を。
窓に映る、んぼーが笑った。そんな風に見えた。
んぼーは、凄まじい異臭を放ちながら、私に覆いかぶさってくる。
私は、観念して目を閉じた。
「先生!」
突然、大声が響いた。反射的にまぶたをあけると、真っ白な光が視界一面に広がった。目の奥が、針に刺されたように痛む。天井に明かりが戻ったのか。
涙をにじませながら、なんとかまぶたをこじあけた。
ガラス戸の向こうに、外の闇を背にした秋月さんが立っていた。突風で乱れた髪が絡みつくその顔は、凄まじく険しい。
私は背後を振り返った。明るい室内に、もうあの化け物の姿はどこにもなかった。あの異臭も、部屋一面に生まれた穴のらくがきも、すべて消えていた。
なにがどうなったのかも分からず、私はただ放心するしかなかった。すると、ガラス戸の鍵をあける音が鳴った。
そちらへ向けば、みよちゃんが帰り支度をして外に出ていた。
秋月さんと私の目が合う。彼女は今にも泣きそうな顔で、「すみませんでした」と口にした。そして帰りのあいさつを待つことなく、みよちゃんの手を引いて去っていった。
二人が夜闇にまぎれて見えなくなるまで、私はその後ろ姿を茫然と見送っていた。それから我に返ると、荷物も持たず、施錠もせずに幼稚園から逃げだした。
あれから三日がたった。
陽平先生と直美先生は、いまだ行方不明のままだ。立て続けの職員失踪で、保護者からは不安の声が広がっている。園長先生は警察が訪問するたび、沈痛なため息を漏らすようになった。
秋月家は、あの日を境に幼稚園に来なくなった。退園したのだ。噂好きの保護者いわく、夜逃げ同然で唐突にいなくなってしまったらしい。
そして私は、三日たった今日から幼稚園に復帰した。本当はしばらく休むつもりでいたのだけど、この状況で子どもたちを放っておくわけにはいかない。少なくとも三月の卒業までは心に鞭を打って働くつもりだ。
「あと少し、と」
幼稚園の開園前。私は洗剤スプレーを置いて、額の汗をぬぐった。陽の差したすみれ組、そのピアノの裏にあるらくがきは、ほとんどがぞうきんの汚れに変わっている。警察には苦い顔をされるだろうけど、こればかりは譲れない。幼稚園の安全のためだ。
らくがきはあと、親指ほどの大きさだけだ。口元を引きしめて、ぞうきんをあてた。ぐっと力をこめる。
直後だった。
んぼお んぼお
らくがきの奥から、汽笛のような音が二つ、かすかに聞こえた。
それはとても弱々しくて、悲しげで、懇願するような音色だった。
「…………」
私は、手を動かすことができなかった。くちびるを噛んで、おえつをこらえる。ぞうきんを握りしめた指が、真っ白に変わった。
親指ほどだった壁の黒色がにじんで見える。それはだんだん広がって、視界を塗りつぶすかのようだった。
私は、誘われるように手を伸ばした。
そのとき、
「先生、おはよう」
ピアノの陰から、三つ編みの女の子がひょっこりと姿を現した。まりんちゃんだ。
「先生、すみれ組にいたんだ」
「あ、うん。おはよう、まりんちゃん」
「……あのね、これ」
まりんちゃんは、通園バッグから画用紙を取りだした。
その画用紙には、エプロンを着た女の人が花や蝶々と一緒に描かれた、温かな色合いの絵が描かれていた。
「もしかして……私のこと描いてくれたの?」
聞くと、まりんちゃんは照れたようにうつむいた。
「……ありがとう。上手に描けてるね。先生、とっても嬉しい」
素直な気持ちを伝えると、彼女はぱっと笑顔を咲かせて画用紙を渡してきた。そして元気に部屋を出ていった。
遠ざかる小さな足音を聞きながら、私は手元の画用紙に目を落とした。
しばらく眺めて、再びぞうきんを手に取る。黒いらくがきの残骸を、真正面に見つめた。
「ごめんなさい」
そう別れを告げて、私はらくがきの欠片を拭きとった。
えかきうた @wirako
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