第2話
ここ数年で、幼稚園は保育園に近づいてきたように思う。
保育園と幼稚園、そのどちらを選ぶかは各家庭の事情による。たとえば保育園は、朝早くから十八時頃まで子どもを預かっているため、仕事で長く家をあける共働き世帯に適している。乳児を受け入れているのも幼稚園にはない特徴だ。
対して幼稚園はあくまでも教育機関なので、小学校と同様に教育に力を入れている。ただし降園時刻は十四時前後と早めであることから、専業主婦がいる家庭の需要が高かった。
しかし景気の悪化や女性の社会進出などが重なったことで、共働き世帯が急増。その影響から、多くの幼稚園が開園時間を保育園並みに延ばすこととなった。うちの幼稚園でも朝は七時から、夜は十九時まで子どもを預かっている。いわゆる預かり保育というものだ。
この預かり保育の常連が、秋月みよちゃんのお母さんだ。娘と同じく物静かで綺麗な黒髪が特徴の秋月さんは、毎日開園と同時に娘を預けて、十九時ぎりぎりになってから迎えにくる。かといって日中働いているわけではなく、介護などもしていないそうなので、育児放棄ではないかと先生たちの間ではささやかれている。
ただ娘への関心がないのかというと、そうでもないらしい。陽平先生いわく、秋月さんがみよちゃんとコミュニケーションをはかろうとしているのは伝わるものの、それがぎこちないというか、みよちゃんを怖がっているように見えるのだという。
私が思うに、みよちゃんは一人娘なので秋月さんも戸惑っているのではないか。初めてできた子どもとの距離感をつかめない親は珍しくない。その子が変わった性格の場合はなおのことだ。
そうした家庭のためにできることはないだろうか。私は職員室で、園児に配るプリントの印刷をしながら窓の外を見た。日はすっかり暮れて、紺色の空には黄色い満月が浮かんでいる。時刻は十八時五十分。あと十分で預かり保育が終わる。
預かり保育を受ける園児は、全員二階の和室で過ごすことになる。でも三十分前ともなるとほとんどの子にはお迎えが来るので、最後には広い和室にみよちゃんだけが残る。それも
今日の担当は陽平先生だ。本来は預かり保育専門の先生が引き受ける仕事だけど、その先生が先日、この幼稚園で
窃盗事件の犯人は陽平先生と仲むつまじい同期だった。それもあってか、彼はまだ立ちなおれていないようだ。昼間の体調不良もそれがゆえんだろう。
みよちゃんと陽平先生。なにかと心配な二人の様子を見ておこうと思い、プリントの束を机に置いた私はすみれ組に足を運んだ。
白色電灯の並ぶ冷えた廊下を通って、すみれ組のドアをあけた。
「あれ……?」
暖房の音がかすかに響く室内には、誰もいなかった。もうみよちゃんは帰ったのかと思うも、園児用の棚には黄色い通園バッグが入っている。まだ片づけられていない一卓のテーブルの上にも、クレヨンの箱や画用紙、それからマジックペンが放りだされていた。
違和感を覚えた私は、部屋の中央まで足を踏み入れた。見回してみると、廊下側に寄せてあるピアノが、なぜか若干壁から離れていた。特に左側は大人が入れるほどにずれている。なんとなく気になったので近づいてみると、
「わっ、みよちゃん!」
思わず声を出してしまった。ピアノと壁の隙間に、水色のスモッグを着たみよちゃんがしゃがんでいたのだ。そのみよちゃんは私の声にもまるで動じず、暗がりになった壁を見つめている。
それを目にした私はぎょっとした。
壁には、真っ黒な穴があいていた。いや、よく見ればそれは、黒いクレヨンらしきもので塗りたくられたらくがきだった。位置は私の腰くらいで、年少組の子どもならすっぽり収まりそうな大きさだ。昼間に見た、ピアノからはみ出していた黒いもじゃもじゃの線は、これの一部だったらしい。
らくがきの黒い線は、中心へ向かうほど密度が濃くなっていた。まるで山奥にある
「…………」
単純な絵のせいか、穴がじわりじわりと大きくなっているように見えてきた。錯覚には違いないけど、ふと、不思議の国のアリス症候群という病気を思いだした。子どもがかかりやすいようで、目に異常はないのに物が大きく見えたり、または小さく見えたりするそうだ。
まさか突然その病気に見舞われたとでもいうのだろうか。紙ににじむ墨汁のように、依然として黒穴は広がっていく。広がって、広がって、やがて視界の隅まで覆いつくして……
はっと我に返ったとき、眼前に黒穴のらくがきがあった。
驚いてのけぞると、ピアノの裏に頭をぶつけた。どうやら私はみよちゃんの隣に座りこんで、顔をらくがきに近づけていたようだ。無意識にそんな行動を起こした自分を認めた途端、うなじのあたりがぞわぞわした。
私は極力、穴を視界に入れないようにして話しかけた。
「みよちゃん、陽平先生は? おトイレかな?」
そう聞くと、みよちゃんは私の目を見ながら首を振った。
「じゃあ、このらくがきを綺麗にするための道具でも取りにいったとか」
細い首がまた否定した。
「うーん、じゃあ陽平先生はなにしてるんだろう」
陽平先生は無責任な人ではないから、不在には理由があるはずだけど……。私が悩んでいると、不意にみよちゃんが立ちあがった。そして私の手を引く。
「ちょっと、急にどうしたの?」
返事もなく誘導されたのは、部屋の中央にあるテーブルだった。よくわからないまま私が突っ立っていると、対面に座ったみよちゃんが真っ白な画用紙を渡してきた。
「え、なに?」
「絵描き歌」
彼女は一言、そう口にした。
「あ、絵描き歌を歌ってほしいの?」
綺麗に切りそろえられたおかっぱ髪が、さらりと左右に揺れた。違うようだ。
「わたしが歌う」
「え、みよちゃんが?」
こくんと頭がうなずいた。
「へえ、絵描き歌覚えたんだ。凄い凄い。じゃあ聞かせてもらおうかな」
陽平先生の居場所は聞けていないけど、とりあえず彼女の遊びにつきあってあげることにした。私は着席してペンのキャップを外す。
みよちゃんはその絵描き歌を、童謡『かごめかごめ』に酷似したメロディに乗せて歌いだした——
いちごの ふうせん
かぎの あなが みっつ
ぼこ ぼこ あいた
さかさま ひょうたん
ひもに くくり つるせば
みみずが よんひき おどる
「…………」
歌い終わりから十秒ほどたって、なんとか完成させることができた。聞いたことのない歌詞だったのでかなり手さぐりだったものの、それなりに形になったのではないか。
最初の『いちごの ふうせん』は、いちごらしく角の丸い下向きの三角形を描いて、上にぎざぎざのヘタを生やした。三角形の下には風船のひもを表す縦線も加えた。
次は『かぎの あなが みっつ』『ぼこ ぼこ あいた』ということで、『いちごの ふうせん』に鍵穴を三つ描いた。台形の上に円を乗せたような、鍵穴の典型的なマークだ。この三つが目と口になるとあたりをつけて、顔らしくなるように配置した。それと穴なので、一応黒く塗りつぶしておいた。
続く『さかさま ひょうたん』『ひもに くくり つるせば』では、歌詞通りひもの下にひょうたんを描いた。逆さまということは、雪だるまをひっくり返したような形だろう。何本か横線を引いて、ひもでくくっていることを強調した。
最後となる『みみずが よんひき おどる』の不快さはさておき、細長い「U」を逆さひょうたんの下部から伸ばした。ひょうたんからみみずが這いだしてきたイメージだ。
できあがった絵は、いびつながらもどことなく人の形に見える。風船が顔で、鍵穴が目と口。いちごのヘタは髪型だ。ひょうたんは胴体で、みみずは手足だろう。そうなると風船のひもはやたら細長い首になってしまうが、全体的には正解に近いのではないか。
とはいえ、この絵がなにを示しているかまではわからない。私はペンを置いて、みよちゃんに絵を見せた。
「どうかな、みよちゃん?」
みよちゃんはしばし絵を眺めたあと、私が置いたペンを手にした。それも字を書く握り方ではなく、手が拳になる握り方で。
そして唐突に、私が描いた絵にペンを突き立てはじめた。
「え、え、ちょっと、みよちゃん!」
慌てる私にも構わず、彼女はとりつかれたようにペンを振りおろし続ける。黒い点がぼつぼつと画用紙ににじんでいく。
数秒たって、ようやく腕の動きが止まった。
「みよちゃん、一体どうしちゃったの」
動揺を隠せないまま聞くと、
「いちごだから」
そう言って『いちごの ふうせん』を指さした。
見れば、彼女がペンで点をつけたことで、いちごの種が表現できていた。
「まあ、確かにいちごっぽくなったけど……。これ、なんの絵なの?」
私はたまりかねて問いかけた。すると、
「陽平先生」
「はっ?」
思いがけず間抜けな声が出た。陽平先生ということは、さきほどの絵描き歌はみよちゃんの自作なのか。
確かに陽平先生はいちごのように、頬からあごにかけて引きしまった面立ちをしている。ベリーショートの髪型をヘタに見立てているのも特徴をつかんでいるといっていい。
でも、鍵穴の目と口は少々気味が悪い。涙とよだれを垂れながしているようにも見えるし、いちごの種に至っては悪質な伝染病だ。陽平先生にこんな吹き出物はない。
私の忌避感が強いのもあるけど、手足をみみずとしたのも受け入れがたい。それに陽平先生はひょうたん体型ではないし、風船の細長いひもが首になっていることもあって、総じて不気味な化け物となり果てている。
絵は個性や自由さが大事だとつねづね思っているし、絵描き歌の自作は凄いことだと思うけど、さすがにこれは悪意があると言わざるを得ない。
私が眉根を寄せていると、ガラス戸の外で人の気配がした。秋月さんだ。彼女は微笑をたずさえて私に
それからしばらく待っても陽平先生は現れないので、ピアノでらくがきを封印してから、彼を探すことにした。体調不良で倒れているおそれもあったからだ。でも幼稚園のどこを探しても見つからなかった。いや、見つかるはずがなかったのだ。
なぜなら陽平先生は、この日を境に消息を絶ってしまったのだから。
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