ミイラ男と四十一人の小悪魔

つばきとよたろう

第1話

 彼には、追跡者が迫っていた。今し方警察官をまいてきた、逃亡者だったからだ。用心深く、早朝のごみごみした路地を曲がって、狭い通りに出ると、行き成りぶつかった。彼は構わず走り去ろうとして、頬を歪めた。倒れた男は、常識的な三十代前後の身なりをしていた。その顔は、サングラスに大きなマスクで、完全に隠していた。明らかに不審な男だ。ところが、これを好機と考え、彼は男と全てを交換した。何食わぬ顔で、そこを離れた。その男に、完璧に成り済ますことは、出来ないにしても、彼が安全な所まで逃げる、時間稼ぎにはなると打算したのだ。


「あっ、大貫先生。おはようございます」

 彼の隣に寄り添って歩く、者が居た。頭髪の薄い、小柄で胴回りの太い老人が、日に焼けた黒い顔を、愛想良く向けていた。恐らく先ほどの男の、知り合いだろう。彼は不味いことになったと思った。そこで慌てて逃げ出すこともできず、何とかこの老人と調子を合わせた。

「お、おはようございます」

「お風邪ですか?」

「いえ、大したことはないんです」

「気を付けて下さいね。生徒にでも、移したら大変だ」

 彼は、老人と会話を交わすうちに、サングラスにマスクの持ち主が、大貫という名前で、学校の先生であること、そしてこの老人はその横柄な態度からして、男の上司、つまり校長か教頭だと推測した。彼は、これは妙な雲行きになったと思って、とぼけた振りをし、脇道へ逃走を図ろうとした。そう簡単には、見逃してもらえない。

「どうかしましたか? 学校はこっちですよ、大貫先生」

 老人に皮肉っぽくたしなめられ、彼は気が付けば、四年四組の教壇に立っていた。どこでどう間違えたのだ。


「起立、礼。おはようございます」

「お、お、おはようございます」

 こうなれば、彼は大貫先生に成り切って、隙を見て逃げだそうと考えるしかなかった。しかし、学校という物は、現代の鉄城だ。一度登城すれば、授業が終わるまで、容易には下城できなかった。

「取りあえず、俺は大貫先生だ、今は」

 大貫は、男から黒革の手提げ鞄を奪って、その大きさに喜んだ。小学校の教師の私物と分かると、がっかりした。中を開けて、ろくな物が入っていないことを確かめた。紙片の束に、教科書類、輪ゴムで縛ったボールペンの束、大きな手帳など、そして、なぜかそこに飴が一袋見つかった。これは後で頂くとしてもだ。目の前のたくさんの視線が、それを許してくれるかが問題だった。

 大貫はこの教室に入って、生徒たちの幼い瞳が、腐った魚の目のように、異様に感じられた。それどころか、ときどきこちらに向けられる鋭い視線から、激しい軽蔑と殺意までもがうかがわれた。この教室の雰囲気は、尋常ではない。彼がかつて居た、独房に集められた奴らと、大差なかった。それは、追い詰められ殺気立った獣と、そっくりだった。


 こんな生徒を前に、授業とは閉口した。幸運にもその日の予定は、鞄の手帳に事細かに書き込まれている。随分と几帳面な先生だな。それに従えば、何とかこの苦境を乗り切れると、大貫は考えた。

 きっと教育熱心な先生だったんだろうと感心した。生徒の評価が、細部にわたって記されている。しかし、これは些かやり過ぎで、辛辣な評価だ。悪口とも取れる言葉が連なっていた。落ち着きがない。他力本願、協調性ゼロ、特に三人の評定が低かった。

「衝動的暴力的自己中心的。偉く悪いことが並んでいるじゃないか、まあ俺と同じだな。――止めた、止めた。こんなの一々読んでたら、頭が痛くなる」


 大貫は、何とか手帳を頼りに午前の授業を終えた。そして、給食のカレーライスを前にし、口を固く結んだ。辛いし、少し舌先が苦みを感じる。冷や汗を掻いている。この頃の子は、こんな珍味を食べているのかと疑った。

「先生、残さず食べましょう」

 そんな大貫の様子を見て、誰かが言った。

「いいんだ。いいんだ。嫌いな物は、少しぐらい残しても構やしない」

「ぼくの嫌いな人参もいいですか、先生?」

 一番前の、体の小さな子が、明るい声を上げた。

「ああ、残せ残せ! 人参さんには、後で俺から謝っとくってな。はは」

 大貫は妙な視線を感じて、教室を見回した。生徒たちが皆、彼の方を驚いた目で見ていた。

「おい、どうした?」

「今日の先生、何か変!」

「変か! こんな先生、嫌いか?」

「いえ、ぼくは今日の先生、好きです」

「おい、長山! いい加減にしろ!」

 そう叫んだのは、特に手帳の評価が悪かった、体格のいい男の子だった。


 午後の道徳の授業が始まった。大貫は、何度か間違えながらも、懺悔と大きく黒板に書いた。手帳に、そう書くと記してあった。

「はい。この漢字、何って読むか分かる人?」

 三人の生徒が挙手をした。大貫は、一人ずつ指して答えさせた。三人が全員、ザンゲと読んだ。

「それでは、今から配る紙に、お前らの両親にした、悪い行いを告白しなさい。イタズラしたとか、黙ってしたこととか、嘘を吐いたこととか、あると思う。それを書いて、謝りなさい。それが懺悔だ。分かるか?」

 大貫は一番前の生徒へ順番に、紙片を配って歩いた。

「おーい、真面目に書けよ。ふざけた奴は、本当に両親に見せるからな、覚悟しろよ」

「えー!」

 教室中が、急に騒がしくなった。

「それから、ちゃんとボールペンで書け。消しゴムは使わない。間違えたら、線で消しなさい。その方が真剣になるだろ」

 大貫は、椅子を教壇の側に持ってきて座った。

「それじゃあ。出来た者から、教壇の上に出しなさい。紙を置いたら、褒美にその飴を袋から一つ持っていく」

「やったー」

 嬉しそうな声が、どこからか上がって、教室中が和やかな雰囲気に包まれた。最初に、優等生三人が紙片を出して、飴を取っていった。それに倣って、次々と生徒が立ち上がった。教壇には、懺悔の言葉を書いた紙が、集まってくる。大貫は、その一枚を手に取ってみる。ごめんなさいから始まり、子供らしいイタズラの告白が書かれている。が、続けて二三枚、見るうちに、彼はある疑問が湧いてきた。

「俺は、一体何をしようとしているのだ。これでは、まるで子供たちの遺書ではないか」

「全員、書き終わりました」

 大貫は、生徒の声で我に返った。

「おお、分かった。全員、飴はもらったな」

 すると、一人の生徒が慌てて出てきて、飴を掴むと戻っていった。

「いいな。残りは先生がもらう」

 そう言って、大貫は飴を一つ手にして食べようとした。

「あっ、先生! こっちと換えて下さい」

 今度は、別の生徒が走ってきた。彼は訳も分からず、手の飴を与え、その子の飴を受け取った。

「じゃあ、もういいな」

 そう言って、彼はその飴を口に放り込み、美味そうに口の中で転がした。みんなも先生を真似し、飴の包みを開いて、口に押し込んでいた。大貫は、急に目の前が真っ暗になった。


 大貫が、誰かに揺り起こされたときには、酷い目眩と吐き気に悩まされた。すると、さっき飴を交換した生徒の意地悪な表情が、頭に浮かんだ。

「先生、大変です!」

 生徒が二三人、彼を囲んで集まっている。

「飴を食べた子が、急に具合を悪くして」

「そんな事ないだろう。ちゃんと袋には、封がしてあったんだからな。お前らは、大丈夫なのか?」

「はい、私たちは食べなかったので」

「でも、何人かは先生は、変わったからと安心して、飴を口にして」

「俺も、さっきから吐き気がするが」

「そ、それは」

 眼鏡を掛けた、真面目そうな子が言い掛けて、口を塞いだ。大貫は、ぐったりした生徒の顔を覗き込んだ。

「どうだ具合は? 毒かもしれないな。先生が口から飴を出すから、水で口をすすがせてやってくれ。そして、職員に知らせてこい」

「はい」

 大貫もまだ頭がくらくらする。水を飲んで、少しは落ち着いた。

「先生、偽物でしょう」

 一人の女の子が、彼に耳打ちするみたいに囁いた。

「えっ、どうして分かったんだ?」

「だって、全然違うもの。みんな知ってる。知っていて、知らん振りしてたから」

「しかし、お前らの先生は、酷い奴だな。危うく、みんなを殺すところだったぞ」

「その事は、あまり気にしないで、いいから」

「先生、早く逃げて!」

「すぐに警察も来るって」

 大貫は、いや大貫の振りをしていた男は、数人の生徒に見送られ、教室を出て行った。

 ところが、間もなくその男が、自分の罪を認め、近くの交番に出頭した。出頭の理由を聞かれた彼は、

「世の中には、俺よりももっと恐ろしい悪党が居る。俺は懺悔して、そんな悪党から守るべき奴らを見つけちまったんだ」と答えたと言う。

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