魚釣木しらすちゃん

かきはらともえ

『魚釣木しらすちゃん』


     1.


『それ』を『事件』と呼ぶべきかどうか僕には判断ができないけれど、僕の後輩であるところの魚釣木ぎょつるぎしらすちゃんはこう言った。

「どんな些細なことであっても、あれは立派な事件なんですよ、先輩」

 魚釣木しらすちゃんは――事件を終えたのちに、言った。『それ』は極めて不快な事件だった。


     2.


 その事件が起きた日は、何の変哲もないただの平日だった。前日に何かがあったなんてことはなく、『それ』は突如として、僕たちを襲った。生徒たちが登校し、靴を履き替えて真っ先に見る場所に掲示板がある。そこに、今日一日の行事やらどの部活動があるかの有無が書かれている。まあ、そんなのは前日の間どころか何週間も前から貼られていることが多いので、わざわざ確認をする必要もないが、掲示板内容の更新は部活動によって異なるため、必ず誰かはその掲示板で、日程や行事のスケジュールなどを確認する。この掲示板に、ある日、ひとつの掲示物があった。それはほかの張り紙と何も変わらないA4サイズの用紙が無作法にラミネート加工されて、それを画鋲で貼り付けてあるだけだった。しかし、誰もが、その張り紙に視線を奪われた。その掲示物の内容である。これは極めて不愉快なものだった。

『嫌われ者ランキング』とそこには大きな字で描かれていた。そんな文字を見れば、誰だって視線を奪われるだろう。気分が悪くても、気になる。ましてや、高校生の多感な時期に、『それ』はデリケートな問題だ。しかも、だ。物凄く丁寧に掲示されていた。『一年生』から『三年生』まで。『い組』から『と組』まで。それぞれワースト三位まで掲示されていた。加えて、投票数まで。これは、その日のショートホームルーム中に教員から注意が入った。とはいえ、教員が何を言ったところで、犯人は出てこず、生徒同士での疑心暗鬼は更に拍車がかかった。


「…………魚釣木ちゃん」

 その日のうちに、旧校舎三階にある教室を訪れた。魚釣木ちゃんという後輩はいつもここにいる。扉を開けると、机をみっつ並べて寝転がっている魚釣木ちゃんがいた。

「おや、おやおやおや! 柏木かしわぎ先輩じゃありませんか! ご無沙汰しております! こんな体制ですみません」

「別にいいよ。ここはきみの部屋なんだし」

 僕はそこらへんにあった椅子に座った。そこで単刀直入に話題を切り出す。

「今日の出来事、もう把握している?」

「もちろんです。わたしがこの学校のことで知らないことなんてありませんよ」

「それは心強いね」

「何なら、どうやったかもわかっています」

「……それ、本当?」

「はい。本当です」

 寝転がった体制のまま、ブリッジを始めた。僕も僕で、いろいろと話を盗み聞きして情報収集を行ったが、『あんなアンケートに答えた憶えはない』と生徒の過半数が述べた。そう、アンケートだ。紙とペンで答えられるような、簡単なアンケートだ。掲示されていた張り紙曰く、情報の収集方法はアンケートとのことだ。だが、誰も、それは僕も含めて、答えた憶えなんてない。

「これはですね、先輩。アンケートを受けているものもいれば、いないものもいるんですよ。たとえば、朝学校にきて、机の中に一枚の紙とペンが入っていて『嫌いな人は誰ですか?』とあったとするじゃない。それを書いて、再び机の中に戻す人もいれば、『くだらない』と一蹴して捨てる者もいる。あるいは置き勉をしていて、机の中でぐしゃぐしゃになっているかもしれない。これもひとつの手ですし、あるいは学級会の時間に『いじめについて』って題材で、アンケートを取ればいい。『いじめを行っている人』『苦手意識のある人』って。あるいは、手紙を回してもいい。『まるまるってうざいよねー』って、それに同意すれば、投票した扱いになるとかですね。これを、かなりのスパンを開けて、気づかれないようにすれば、いずれ人々の記憶からは消えてなくなり、同時に思い出しても投票したようなことを言えば、追求され、追い詰められてしまう――そんな損得勘定ができるなら、言わないですよね。先輩、心当たりはありませんか?」

「心当たりなら……」

 ある。学級会があった。委員長が開いた学級会を思い出した。そこで、アンケートを答えさせられた。何を答えたか忘れたけれど、でも――心当たりがあるとすれば、それくらいだ。

「おや、おやおや。先輩。心当たりがあるなら、もうあとは簡単ですよね。あの張り紙の出処はわかりますよね」

「委員長……学級委員会か?」

「違います。その委員長という方が所属している部活は、なんですか?」

「部活……」

 委員長。道祖委員長が所属している部活は。確か。


     3.


 僕は、新聞部にやってきた。三年生にひとり、二年生にふたり、一年生にひとり――合計四人の少数だ。新聞部部長の女生徒には憶えがある。悪目立ちをしている人物だ。名高なたか高那たかなという人物だ。


「……私たちが犯人であると突き止めたのはきみが最初だよ。それもこんなに早くに、ね。これは恐れ入った。心から称賛の言葉を贈りたいと思う。ええっと……」

 二年は組の新聞部員にして、委員長の道祖道真どうそみちざねくんは耳打ちするようにして新聞部部長に『柏木かしわぎ内服ないふくです』と、僕の名前を教えた。

「そう、柏木くん。きみは確か、二年は組の中でも投票数の少ない人だったね。きみは、私たちのところにきてどうするつもりなんだい? どうやったのか? を聞きたいのかい? ?」

「……吊し上げてほしい人って、どういうこと、ですか?」

「おや、それに気づいたからきたのではないのかい? 私たちはね――ひとつの実験をしているのだよ。きみは『ペンは剣よりも強し』って言葉を聞いたことはないかい? これはまさにそういう証明だ。私たちはペンで文字を綴っただけだ。なのに、見ただろう。あの疑心暗鬼を」

 なるほど。このご時世に、そういう意味か。

「『あれ』には、今後の実験を始めるきっかけに過ぎない。これから私たちは、文字だけで人々をコントロールする。人を狂わせるのには――」


 


「…………そうですか」

 僕はここで踵を返して、扉を開けた。

「おや、帰るのかい? 何か聞きたいことがあったからきたんじゃないのかい?」

「いえ、十分です。もう要りません。十分に聞きたいことは聞けました。僕が期待しているのは、彼女以上の解答なんですよ。彼女以下の解答なんてまるっきり用はありません。聞くに耐えません。何よりもレヴェルが低すぎる。ただの嫌がらせレヴェルで、その思い上がり方を見るに、あなたたちはすぐに瓦解する」

「…………随分と、挑発的なことを言うじゃない。どうなってもいいの? 明日、どうなっても知らないわよ」

「それが挑発で、脅しなのだとすれば、程度が低い。なんでも書いてみろ。すぐにわかる。『ペンは剣よりも強し』かもしれないけれど、所詮――

 扉を開けた――。トイレの蛇口にホースをセットして、それを部室まで伸ばして準備しておいた。

「う――うわああああああああ!」

 部室内を水浸しにする。部室内にあったパソコンは水を浴び、本を始めとする紙媒体はぐちゃぐちゃに変質した。

「どうして! どうしてこんなことを!」

「お前たちがしたことと同じだろ。誰も彼も、建前を作りながらも円滑に人間関係を進めているんだ。そのバランスを、いつ崩れてもおかしくないバランスを、わざわざ崩しにかかったんだ。先生に言いたければ言えばいい。僕は怒られて、停学なるかもしれないけど、逆に言えばその程度だ。その程度の罰則で、おまえたちをそんな顔に変えられるんだ。安いものだろう」


     4.


 僕の印象が冒頭と随分と違うって? そういうこともある。誰だって二面性を秘めているものだ。さてさて、この事件というべきか騒動というべきか――は、僕が謹慎処分として停学を受けたことで済んだ。同時に新聞部の行動も白日の元に晒された。だからといって何かが変わるようなことはなかった。何もかも、平凡でしかない。そういうこともあったな、と、新しい風が吹き込んできて、流されてしまう。僕が、廊下をびしょ濡れにしてまで(拭き掃除をやらされた)やったことはあっという間に風化してしまった。

 そして、停学明けのその日。僕は旧校舎三階にある『存在しないはずの教室』を訪れた。あの新聞部室での件では、いろいろと魚釣木ちゃんが教えてくれたことが役立った。


「お待ちしておりましたよ、柏木先輩」

 この日、僕を出迎えた魚釣木ちゃんは、椅子に座っていた。いや、これが本来の彼女だ。こうして聞こえる言葉も、きっと僕の気のせいでしかない。、今や黒ずんだ制服と骨しか残っていないのだから。

「先輩にここでひとつ、質問があります」

「質問? なんだい?」

「紙とペンと、あと何があればわたしを殺せますか? わたしは未だなお、こうして先輩の前に現れてお話ができていますけど、どうすれば先輩は、わたしを完膚なきまでに殺せますか?」

「魚釣木ちゃんにしては、えらく平凡な質問だね。いいかい、僕はきみを殺し損ねたなんて思っていない」

 だからね、人をひとり殺すのは。

 ペンだけで、ほかには何もいらないんだよ。



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