第10話 金星教団

 夕暮れの聖域サンクチュアリには、酔っ払いと酒場女の嬌声が馴染む。デルファイの他の場所で、人間が酒など飲めば、即、死が待っている。人間のような弱い生き物が、さらに弱みを見せられる場所は、ここにしかないのだ。


 飲み屋が軒を連ねる繁華街を、リキキマは歩いていた。行き交う連中の中には、すっかり出来上がっている者も多いが、リキキマにぶつかるような馬鹿は居ない。ふと足を止める。道路の脇に屋台が出ていた。綿菓子の屋台だ。


 筋骨隆々の、岩のような体躯に入れ墨だらけの男が黙々と綿菓子を作り、袋に詰めて吊るしている。


「おい、おまえ」


 リキキマが近付くと、男は無言で頭を下げる。当たり前だが、彼女の事を知っているのだ。


「こんな所で綿菓子なんぞ売って、儲かるのか」


「意外に、お姉さん方が買ってくださいます」


 男は怯えてはいない。だが敬意はうかがえる。


「変なクスリとか混ぜてないだろうな」


「この街で、そんな怖い事はできませんよ」


 リキキマは無遠慮に屋台をジロジロ見回すと、吊られている綿菓子を指さした。


「一つくれ」


「ありがとうございます」


 男は吊られている綿菓子を取り、リキキマに手渡した。リキキマは銀貨を指で弾いて飛ばした。男はそれを受け止めながら、困惑した顔を見せた。


「いえ、お代は結構です」


 しかしリキキマは綿菓子を袋から取り出しながら、ジロリとにらむ。


「アホか。商売するなら金は取れ」


 そう言い残し、南へと歩き去って行った。



 繁華街を抜けると、いきなり人気のない広場のような所に出る。だがそこは公園ではない。そんな心安まる場所ではないのだ。そこは四千メートルの垂直な壁に面した、デルファイの南端である。


 リキキマは綿菓子を頬張りながら上を見上げる。壁に埋め込まれた、高さ五十メートルに及ぶ巨大な鋼鉄の門。聖域の住民は、ここを俗に『港』と呼ぶ。この門が開いた向こうには、港湾施設があるからだ。そのさらに向こう側には空港もある。


 かつて神魔大戦が終了したとき、四魔人を始めとする戦災の遺物たちは、『港』を通ってデルファイへやって来た。まあ、捨てられたと言う方が正しいのだが。ただしリキキマはこの巨大な門をくぐってはいない。


 巨大な門の向かって右側に、高さ三メートルほどの小さなドアがある。人間が通るサイズの入り口だ。出入り口ではない。何故なら原則として、デルファイに入った人間は外に出る事が出来ないから。リキキマは、そう四魔人の中でリキキマだけは、この小さな入り口を通ってデルファイに入って来た。


 ここを守り、魔人たちの脅威から人類を遠ざける事。それが聖域の存在意義であり、リキキマに与えられた役目であった。ただし。


「ま、例外はどこの世界にもあるがな」


 そうつぶやいて、リキキマは寂しげに笑った。そのときである。


 入り口ドアの上にある赤いパトランプが回転し、サイレンが鳴った。ドアの向こうで非常事態が起きているのだ。しかしそれをリキキマは静かに眺めた。どうという事はない。ここで起こる非常事態など、たかが知れている。どうせ外の世界が恋しくなった人間が、越境関門を逆走しようとしたのだろう。


 デルファイの越境関門は、入ってくる者に対しては常に開かれている。その気さえあるなら、誰だって入れるのだ。パスポートも金も要らないし、検査もない。だから警察に追われた者や、マフィアに追われた者など、外の世界で生きていけなくなった者が飛び込んで来る事はよくある。


 だが、ここに来るには一つだけ必要なモノがある。それが覚悟だ。人間の平和な社会と決別する覚悟。化け物じみた生体兵器と命がけで殺し合う覚悟。それがない者には、デルファイは最低の地獄でしかない。だから覚悟に欠ける連中は、外の世界に戻ろうとする。けれど、それは許されない。ここには人権思想などない。あるのは人類の病的不安のみ。ひとたびデルファイに染まった者は、二度と人類に近寄ってはならない。よって、あらゆる手段を講じて『処分』されるのだ。


 今回の非常事態も、五分とかからず終わるだろう、リキキマはそう高をくくっていた。確かに、サイレンの音はすぐに止まった。ただし爆発の轟音と共に。


 越境関門に至る入り口のドアは吹き飛んでいた。つまり、の攻撃である。もうもうと立ち上る煙の向こう側から、ベージュ色の僧衣のような服の上に戦闘装甲をまとった十数人の集団が、手に手に機銃やロケットランチャーを抱えて押し入って来た。そしてその中央に姿を現したのは、白髪頭を短く刈り込んだ黒い僧衣の男。ハンドスピーカーを持ち、その声をデルファイの中に響かせた。


「我らは金星教団! この地を解放しにやって来た!」




 真っ逆さまに落ちる途中、ズマは右手で枝をつかんだ。そこで回転してワンクッション置き、左手に少女を抱えたまま、足から地面に降り立った。しかしその足は分厚い氷に覆われている。


「クソ!」


 ズマが握りこぶしを叩きつけると、氷は粉々に砕け散った。そこに音もなくドラクルが降りて来る。


「機転も利くのか。いいね」


 森の中はもう暗い。夜目の利くズマではあるが、早めに勝負をかけなければならないと感じていた。


 ズマは静かに少女を下ろす。


「ちょっとだけ待ってろ」


「いいね。紳士だね」


 ドラクルの言葉に返事はしない。ズマは呼吸を整えた。体毛が伸びる。犬歯が伸びる。耳の先は尖り、その目は薄暗闇の中でらんらんと輝きを増した。


「おや、本気だね」


 その言葉が終わるのを待たず、ズマは突進した。しかしドラクルは左手を振るう。


「ストップ」


 再びズマの下半身が氷漬けになった。ズマは倒れた、かに見えた。だがズマはそのまま逆立ちで、腕の力でドラクルに突進した。


「うおりゃあっ!」


 そして下半身の氷を、ドラクルの頭部にぶつける。砕ける氷、吹き飛ぶマフラー。太い木の幹に叩きつけられた赤いセーターは、あり得ない方向に首を曲げ、ずるずると滑り落ちた。


 ズマは飛び起き、黄色いマフラーが地面に落ちるのを見た。と、思った。


「なーんてね」


 見たのは自分の胸から生えている赤いセーターの腕。あり得ない方向に曲がっていたドラクルの顔は、一瞬で元に戻り、そして笑う。その笑顔に向けて、ズマは拳を叩き込む。しかしそれを楽々とかわし、ドラクルは数メートル跳び下がった。


「君、心臓の周りの筋肉が凄いね。ボクの指が届かなかったなんて、初めてだよ」


 ズマの胸から流れ出る血はすぐに止まった。獣人の脅威の回復力。脳か心臓が潰されない限りは、ほぼ不死身だ。けれど目の前の相手は、それを上回る正真正銘の化け物だった。


 ズマは吠えた。走った。考えるだけ無駄だ。自分に出来る事は、ただ激流のように攻撃を浴びせ続ける事。そこにしか活路はない。


「ストップ」


 ドラクルが左手を振るう。ズマの全身は氷に包まれたものの、それを一瞬で砕き、渾身の一撃を敵に叩き込もうと跳んだ。


 ふっと笑った。ドラクルは静かに、右手を振るった。


「ゴー」


 そのとき何が起こったのか、ズマには理解出来なかった。わかったのは二つだけ。自分の上半身と下半身が、腰から分断された事と、その断面が凍っていた事。




 倒れ落ちるズマを見ながら、ドラクルは困ったような顔で右手を空にかざした。細い木の枝が刺さっている。この枝が刺さっていなければ、ドラクルの冷気はズマの心臓を内側から凍らせ、胸の位置で分断していたはずだ。枝を引き抜き、薄暗闇の向こうを凝視した。


「いまのは君の仕業かな」


 闇の奥から、人影が一つ現われた。


「ぬほほほほっ」


 人影とは言うものの、人間はここまでずんぐりむっくりではない。背の高さは二メートルほどあるだろうか、頭の大きな三頭身の、人影の如きもの。長靴にデニムのオーバーオール、内側に丸首のシャツを着て、頭には麦わら帽子、右手には喫煙用の木製パイプを握っている。その顔や手の肌は、針葉樹の樹皮のように固くシワシワだった。


「いやあ、助けるつもりはなかったのだけれど」


「ならば助けなければいい」


 ドラクルはちょっと面倒臭そうな顔をした。


「森に死は付きものなので」


 人影は少女を見た。怯えきった少女は腰を抜かして動けない。


「なので、別に誰が死んでも構わないのだけれど」


「いや、だから助けなければいいだろう」


 ドラクルはちょっとイラッとしたのかも知れない。人影は倒れるズマをのぞき込み、一つ溜息をついた。


「これの父親は古くからの知り合いなので、今度顔を合わせたとき、ちょっと可哀想かもしれないので」


 ドラクルも呆れたように溜息をついた。


「ではどうしたいのかね」


 人影はニンマリと笑った。


「おまえを殺す事にしたのだけれど」


「ストップ」


 ドラクルは左手を振るった。人影の全身は氷に覆われた。他愛もない、ドラクルの表情がそう語った瞬間。


 何かが風を切り、ドラクルの腕に巻き付いた。振り返ったドラクルの顔に驚愕が浮かんだ。馬鹿な、こんな所にオニクイカズラなどなかったはず。


「ゴー!」


 ドラクルが右手を振るうと、オニクイカズラの蔓の内側から氷の棘が突き出し、断裂した。しかし今度は別方向から、右腕に蔓が巻き付く。同時に左腕にも。顔にも巻き付き、口が開けられない。腹にも足にも蔓が巻き付き、ドラクルは団子のようになってしまった。ズマほどの怪力があれば引きちぎれるだろう。だが彼にそれはなかった。


 氷が砕け散る音。蔓の隙間からドラクルは見た。まるで何も起きていなかったかの如く、のんびりとパイプをふかす、三頭身の人影を。


「この森の中で我が輩と戦うというのは、さすがに無茶というものなのだけれど」


 やはりな、そういう事か。ドラクルは理解した。こいつこそ、この植物人トリフィドこそ、この森のただ一人の住人にして管理人、そしてデルファイ四魔人の一人、ウッドマン・ジャック。意識があったのはここまで。オニクイカズラの蔓は一斉に四方に引っ張られ、ドラクルの肉体は四散した。だがその場所から、数十の真っ白いコウモリが飛び出し、夜の空へと羽ばたいて行った。


「ぬほほほほっ、さすがに夜の王。厄介な厄介な」


 そう言うと、ジャックは二つに分かれたズマの体を拾って抱えた。


「こちらもまだ死なない。面倒な面倒な」


 そして振り返ると、呆然としている少女に声をかけた。


「死にたくないのなら、ついておいで。死んでくれても別に良いのだけれど」


 ジャックは闇の中へと歩いて行く。少女はふらつきながら、その後を追った。

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