第七章 帰る場所 1
あの雨の日から、数日経ったある夜。
「……シャル、入るぞ」
フォルテは水差しの乗った盆を持つ手にランプを持ち替え、空いた手で扉を叩くと、中からの返事は待たずにそっと部屋へ入った。
夜闇に沈む室内、それでも手元の灯りを頼りに見ると、窓際のベッドで横たわるシャーリーが身じろぎし、こちらを向いたのが分かる。
「悪い、起こしたか?」
「いや……さっき起きた。というか、寝たり起きたりの繰り返しだ」
シャーリーは熱の籠もった声で、気怠げに答える。
フォルテはテーブルに盆とランプを置くと、水差しをベッドの頭側の小棚にある空のものと交換し、枕元の椅子に座った。
「気分は?」
「まだぼうっとする。しかし……情けないな。あれだけ大騒ぎした挙句、体調を崩すなど」
「仕方ないよ。それだけのことがあった」
フォルテはシャーリーの額に手を乗せ、熱を確かめてから、頬、そして首へと滑らせる。
あの雨の日。泣き疲れるまで慟哭したシャーリーは、フォルテに連れられ部屋に戻り、一旦着替えて床に就いたが、夕刻頃になって発熱が発覚した。リタの妹だという医師ビーチェの見立てでは、恐らく興奮と精神的疲労が原因で、安静にしているのが一番だという。
なのでここ暫くフォルテは、シャーリーの看病で日々を過ごしていた。シャーリーに病床から熱に浮かされた涙目で「そばにいて欲しい」と懇願されたこともかなり効いたが、ラングを追われて以来の無理も祟ったのだと思うと、放っておけるはずがなかった。
「……お前の手、気持ちいいな」
指が首の痣に触れてしまい、どきりとしたのと同時に、シャーリーがそっと手に触れる。
「叶うならずっと、こうして借りていたい」
「……そのうち、俺の手も熱くなるぞ」
素直な微笑での言葉に、フォルテは気恥ずかしく視線を泳がせる。
どうもあの日以来、シャーリーはフォルテに随分と甘えてきて、時に接し方に困った。まあ病身の心細さだろうし、回復したら多分元の辛辣な兄分気取りに戻るのだろうが。
「フォルテ。……私は本当に、お前がいてくれて良かった」
「……うん」
「以前も話したが……私は祖国にも、居場所を持たない人間だった。そんな私にとって、歌い、そして世界が応えてくれることが、唯一自分を確かにしてくれた。だけど……ラングの宰相たちは、私からそれすら奪った」
「…………」
「異国の地で、私は本当に一人にされた。孤独で、何故生きているのかも分からない……そんな地獄のような日々だった。けれど……そこに、リンと、お前が現れた」
静かに言い、シャーリーはフォルテの手を大切そうに両手で包む。
「お前たちは、私を地獄から救い上げてくれた。繋がれなくなった世界の代わりに、家族と新しい家という、別の世界を与えてくれた。リンとはもう、道を違えてしまったが……。今の私にとって、帰りたい、帰るべき場所はお前なんだ」
「シャル……」
「だから私は……お前を絶対に守りたい」
フォルテの手を取ったまま、シャーリーは静かに、重い決意の籠もる声で言う。
「今までのことを償わせてくれ。それに今の私には、アレニアの王族としての魔力もある」
「償いとか、そんなのもう気にするなよ。大体、俺がお前を守るって言ってるだろ?」
「フォルテ、その……あまり私を、弱くしないでくれ」
シャーリーは口籠りつつ言い、戸惑うように視線を揺らす
「自分でも分かっているが……私はかなり他者に依存してしまう性格だ。どこかで気を張っていないと……せめてお前の兄でいないと、どこまで弱くなってしまうか分からない」
「いや……そこは気を抜いて、頼ってくれていいよ」
言うと、フォルテは握られた手の指を動かし、シャーリーの頬をそっと撫ぜる。
「大体、そんなだから今回みたいに倒れちまうんだろ」
「それを言われると、何も言い返せないが……」
シャーリーは気恥ずかしげに語尾を濁し、視線を落とす。
そんな頼りない姿に却って安堵し、フォルテは自然と微笑んでいた。
それからまた日数を経た後。この日もフォルテは朝からシャーリーの世話をしていた。
部屋で一緒に遅い昼食を終え、ベッドで本を読む姿を少し見守ってから退室し、空の食器が載った盆を持って食堂に向かう。
と、食堂前の廊下で待つ人物の姿に、フォルテは足を止めた。
「今、時間はあるか」
エディスは相変わらずの無愛想だったが、見慣れてきたフォルテには、今の彼は少し苛立っているように感じられた。
「あるけど……何か用?」
「市長が探している。お前だけでいいから、来い」
エディスに連れられて向かった市長室は、昼過ぎの穏やかな日差しに満たされていた。
室内には既に市長やリタ、数人の護衛が控え、入室したフォルテに視線を向けてくる。
「やあフォルテ君。ごめんね忙しい時に。シャル君は大丈夫?」
市長はいつもの――だがどこか態とらしさも感じるような、妙に明るい笑顔を見せる。
「失礼します。そうですね、大分具合は落ち着いてます。ただできたらもう少し休ませてやりたいんですが」
「うん、それは勿論構わないよ」
「……あの、用事って何ですか?」
牽制めいた遣り取りを切り上げ、フォルテは単刀直入に切り出す。
シャーリーへの気遣いは恐らく本当だろうが、呼んだ理由は他にあるはずだ。
「うん。……そう、いずれは知れることだから、僕が正しく話さないと、って思ってね」
市長は小さく息を吐き、フォルテを数拍見据え――穏やかな表情のまま、言った。
「ラングとアレニアが、開戦したよ」
戦場は、ラングの北端、アレニアと国境を接するニース平原。
取り急ぎの第一報のため、状況の詳細は続報を待つしかないが、アレニアも明示的に叛意を示している以上、簡単には屈しないだろう――というのが市長室の面々の見解である。
それだけでもフォルテを驚かせるには十分な話であったが、さらにこの報告には、それを上回る衝撃の内容が含まれていた。
戦に先立ち、軍部の最高司令たる大将軍位に、フォルツァートの若き侯爵――即ち兄であるリンが、皇帝の名のもと、正式に任官されたのだという。
部屋に戻ると、シャーリーは枕の脇に本を置いて眠っていた。
フォルテは枕元の椅子に座り、その姿を眺める。
規則正しい呼吸と、穏やかな寝顔。外の世界の激動が嘘のように、静かに流れる時間。
その空気に身を浸していると、市長から話を聞いた直後の、胸の中をぐちゃぐちゃに掻き乱されたような感覚が落ち着き、全てがひとつずつ、ゆっくりとあるべき場所に収まっていくような気がした。
――シャーリーにとって、帰る場所が自分のそばだというなら。
自分にとっても、帰る場所はただ一つ――。
「フォルテ……?」
「……起きたか、シャル」
やがて夕刻にシャーリーが目覚めた時、フォルテは自然と穏やかな気持ちで、彼に笑みかけることができた。
「体、大丈夫か? 落ち着いたら、ちょっと話があるんだ」
そうしてフォルテは、シャーリーに自分が知り得た全てを話した。
また体調を崩すのでは、という心配もなかったわけじゃない。だが状況は待ってくれないし、今、自分が伝えるのが一番正しいと判断した。
「……そうか。とうとう戦争か」
話を聞き、シャーリーは驚きを隠さなかったが、取り乱すことはなかった。
彼は起こした上体を窓の夕日に晒し、病身に沈痛な面持ちを湛え、頷く。
「思えば……いつかはそうなっていたのだろうな。そもそも私が殺されかけたのは、アレニアが講和に背いたことが原因だと、リンも言っていたのだし」
「これから、どうなるんだろうな」
「アレニアが屈しなければ、戦は続くだろう」
傍らの椅子につくフォルテに、シャーリーは窓の外に顔を向けたまま、言う。
「だが、私も市長と同意見だ。恐らくアレニアには、帝国を挑発しただけの何かがある。その内容如何では帝国も楽観はできなくなるだろうし、最悪、戦の長期化もあり得る」
フォルテは何も言えないまま、静かに語るシャーリーの横顔を見る。
透き通る白い肌。雪のような銀髪に、冬空の瞳。初めて見た時から綺麗だと思った、北国の色。
やっと本当に、互いに通じ合えたと思ったばかりなのに――その色が今、戦争という現実を前に、自分との間に深い隔たりを生み出そうとしている。
「リンは……とうとう大将軍になったか」
「えっ、ああ……うん。前にちょっと話は出てたけど、戦争で本決まりになったのかな」
「中にいなくて……良かったのかも知れないな」
「えっ?」
「あ、いや……。もしこの戦争をラングで経験することになっていたら、と思ったんだ」
シャーリーは窓から振り返ると、言葉の意味を補足する。
「リンが将軍として、祖国と殺し合うのを見なければならなかったのかなと……。それにお前にも迷惑だったろうな。私がいては、兄上の活躍を素直に受け止められないだろうし……って、そもそも私は殺されていただろうし、いたらも何もないのか。済まない。疲れているせいか、おかしなことを考えていた」
首を横に振り、シャーリーは訂正するが――彼の話が、妙に胸に引っ掛かる。
『もし自分たちが、帝国の中にいたら』――……?
「他に、市長は何か言っていたか?」
「あ、いや……別に。お前のこと心配して、ゆっくり休めって言ってた」
「そうか。だが……そろそろ限界だろうな」
「……うん」
呟かれた言葉の真意を汲み、フォルテは頷く。
「いつまでも厚意にただ甘えるわけにはいかない。答えを決め、身の振り方を考えよう。……フォルテ、お前はどうしたい?」
「どうも何も、俺はシャルと一緒にいるよ」
フォルテは吹っ切れた気分で答える。
「お前がこの街にいたいならそうするし、出て行きたいならついていく。世界の果てまでだって、俺はお前と一緒に行くよ」
「……その返答は、少し困る」
シャーリーは恥ずかしげに小さく俯き、言葉通りの困り顔でフォルテを見た。
「私だって、フォルテと一緒がいいと思っていた。これでは結局決まらないじゃないか」
「何だよ、人にちゃんと考えろって言っておいて」
不服げに唇を尖らせてから、フォルテは呼吸を置き――本題前のささやかなじゃれ合いのに過ぎない会話に、静かに終止符を打った。
「けど……多分、答えはもう出てるんだよな」
「……ああ。そうだな」
穏やかなフォルテの言葉に、シャーリーはそっと頷く。
「いっそお前と二人、本当に世界の果てまで行くことができれば素晴らしいが……それは叶わぬ夢だ。今の私たちは、偶然と幸運に頼らねば、ここまで辿り着くことすらできなかった、弱い存在に過ぎない。生きていくなら、地に足を着けた決断が必要だ」
「……怖く、ないか?」
「怖い。だがお前も私も……本当はもう分かっている。ただ、信じる勇気を持てなかった」
「……うん」
「ダレン市長は信頼に足る人だと、私は思う」
布団の上の手を握り、シャーリーは言った。
「彼とロラン市の保護を受けよう。万一これで騙されていたというなら……その時は、もう諦めよう。あんな人まで嘘をついていたなんてことになったら、私にはもう、何が本当か見極めることなど、絶対に無理だと思う。……それでいいか、フォルテ」
「ああ。それでいい」
まっすぐなシャーリーの視線を受け止め、フォルテは微笑んで頷く。
「けど、一応言っておく。俺も、シャルと同じ考えだ。だからこれは二人で決めたことで、もしもの時もお前一人のせいじゃない。それだけは付け加えさせてくれ」
「……ありがとう」
フォルテの言葉に安堵した様子で、シャーリーはようやく柔らかな笑顔を見せた。
その表情に誘われ、フォルテはベッドに身を寄せると、布団の上に重ねられていたシャーリーの手にそっと触れる。
「……いつか、世界の果てにも行けるといいな」
「ん?」
「いつかお前と、どこにでも行けるくらい――俺は強くなる」
「……ああ」
シャーリーは不意を突かれたふうで瞬きしてから、優しくはにかみ、頷く。
「まあ……だがそのためには、せめて地図は読めるようにならないとな」
「っ……あ、あのなシャル、それ今の話の流れで言うことじゃないぞ」
「何を言う、一番大事だろう。どこでも行けるつもりでいて、いつまで経っても地図だけは兄上様に頼る弟、では仕方ないぞ?」
顔を引き攣らせるフォルテに、シャーリーは揶揄めいた抑揚で言い、くすくす笑う。
「一緒に行くんだから、別にお前が地図を読んでくれたっていいじゃないか……」
ぼやきながらシャーリーの肩口に軽く頭を当て、フォルテは身を寄せる。
追い払われる素振りもなかったので、彼の柔らかな夜着の下の体温を感じながら、身を預け、藍色に沈んでいく夕焼けの光の中、そっと目を閉じた。
世界の果てのささやかな幻想を胸に抱き――いずれそれすら冒していくであろう軍靴の音を、今この時だけ、心の中から閉め出して。
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