第六章 太陽の街で 4

「そうですか。やはり……完全には消えませんか」

 告げられた結論を自ら繰り返し、シャーリーは落胆を隠せずに視線を落とす。

 彼はベッドに腰かけ、ブラウスの釦を外して肩口までをはだけさせていた。その対面では椅子に一人の若い女性が座り、労りの表情を浮かべている。

 ビーチェと名乗った彼女は、今朝方到着した、ダレンに呼んで貰った医師だった。後方のソファには仲介したダレンその人も座り、真剣な面持ちで様子を見守っていた。

「経年で多少は薄くなるでしょうが、摩擦で皮膚が変質してしまっていますから……」

「……やっと解放されたと思ったのですが。上手くいかないものですね」

 シャーリーは自嘲めいた笑みで、首に巻き付いた痣に触れる。それはフォルテに指摘された時から変わらず、肌は引き攣れ、異質なものになったままだった。

「生きている限り、私は帝国の奴隷だと……そう言いたいのでしょうね。彼らは」

「シャル君。ここはロランだ。もう帝国じゃない。君を奴隷になんて、させないから」

「……すいません」

 強く告げる市長に、無様が過ぎたと、シャーリーは顔を横に背ける。

「膏薬を出します。攣れが多少は和らぐかも知れないので、続けてみてください」

「ありがとうございます」

 触診を終えたビーチェは、傍らの診療鞄を探り出す。シャーリーは少し体の力を抜き、溜息をついた。――結果には落胆せざるを得なかったが、とにかく、一つは結論がついた。

「魔力の循環に、違和感はありませんか?」

 ビーチェは薬瓶から膏薬を指に乗せ、身を乗り出しシャーリーの首に滑らせる。

「はい、封印が解けてからは以前のように。何度か祈歌も行使しましたが、まだ制御の感覚を思い出せない以外は問題ありません」

「それはおいおい取り戻せるでしょう。日頃から練習するようにして……。何なら市長にお願いして、外の訓練場を使わせて貰えばいいですよ」

「まあ、あそこは有事以外は解放してるから、管理担当に一言言えば大丈夫だけど。……しかし、魔力の封印に、首輪とは。辛い思いをしたね」

「彼らに……私を人間として扱う気はありませんでした」

 膏薬を塗り終えたビーチェが身を退けると、シャーリーは痛ましげな表情のダレンに、そっと服の釦を留めながら、呟くように言う。

「首輪はかつて、戦で得たアレニアの奴隷の魔力を封じるのに使ったものだそうです。特に装飾の施されたものは、愛玩用として作られたのだと……あの宰相は言っていました。……あれは、ただの敵国の人質に向ける視線じゃなかった。容姿が全く違うことで、帝国の重鎮たちは私を……愛玩動物や、それ以下の何かとしか見做さなかったんです」

 ――悍しい記憶は、今も思い出すだけで絶望に崩れ落ちそうになる。

 それでも、直視しなければいけない。それこそが自分の犯した罪の原因――全ての根本にある、始まりの出来事なのだから。

「私は……魔力を封じられ、宮殿の一室に監禁されました。アレニア人は、生まれた時から身に宿した魔力で、常に天地と繋がっている存在です。それを断たれるというのは、四肢をそっくり奪われるに等しい。……絶望しました。いっそ死にたいと願い、実際あのままいたら、錯乱の末に死んでいたでしょう。でも……そこから私を救ってくれたのが、フォルツァート侯爵でした」

 今でも慕わしいその名を口にした時、胸の奥が痛み、暖かいものが零れるような感覚があった。語る姿が余程危うく見えたのか、ビーチェが隣に座り身を支えようとする。それを手で制し、シャーリーは続けた。

「あの方は私を救い出し、全てを受け入れた上で、人として……家族として家に迎えてくれました。……あの頃は本当に幸福でした。辛い記憶も、時には全て忘れられたくらいに」


 フォルテは呆然と、扉の前に立ち尽くしていた。

 立ち聞きするつもりはなかった。だがこの入室のタイミングを失った状況で、他にどうすることができたというのか。

(なんだ、それ……)

 頭から血の気が引いていく。

 ずっと、あの首輪はただの装飾品だと思っていた。だが実際はもっと恐ろしいもので――それなのに、自分は五年も一緒に暮らして、何も知らなかった。

『……フォルツァート侯爵は、本当に優しい方だったんだね』

 愕然とするフォルテの存在など知る由もなく、部屋の中では会話が続けられる。

『はい。他の帝国重鎮、ましてや宰相に逆らうなど、下手をすれば身の破滅を招きかねません。しかもいくら大貴族といえ、あの人は爵位を継いだばかりでまだ若かった。……それでもあの人は、私を助けてくれたのです』


 ――だけど、そのせいで。

 産み捨てられた郭公の雛が鶯の卵を殺すように、私は一人の人生を狂わせてしまった。


「……大丈夫ですか?」

 喉まで迫り上がった言葉で胸を詰まらせ、顔を覆い沈黙したシャーリーの肩を、ビーチェが支える。

「お辛いなら横になってください。顔色も悪いわ」

「大丈夫……です」

「いや、休んだ方がいい。思えばこれまで、気の休まる暇もなかったろう。気付かずに連れ回して済まなかったよ」

 ダレンはソファから立ち上がり、そっとシャーリーの隣に座って、顔を覗き込む。

「何なら二、三日休養しなさい。フォルテ君には僕から言っておくから」

「まあ、それではきっと、その子は市長が連れ回したせいだと怒るかも知れませんね」

「あっ。そうかあー……。まあそこは甘んじて怒られておくよ……」

 気を遣ってくれているのか素なのか、軽口混じりの会話をする大人二人。

「あの、本当に大丈夫ですから……」

「いいから甘えなさい。僕はそろそろ仕事に戻らないとならないけど……ビーチェは今日はいられるんでしょう? 少しシャル君についていてあげてくれるかな」

「分かりました。シャルさん、よろしければ美味しい香草茶がありますから、頂きましょう? 気持ちも落ち着きますわ」

「はい……」

 二人の優しさに、シャーリーはそれ以上逆らう言葉を口にできなくなる。

 それを認めると、ダレンは笑って頷き、ベッドを立ち上がった。

「じゃ、僕はそろそろ。何かあったら市長室にね」


(あっ……まずい!)

 室内の会話に心を奪われていたフォルテは、その言葉で我に返った。

 ――市長が、こちらに来る。

 話の内容に動揺し、判断が遅れてしまった。自分の部屋に逃げ込もうにも、気が動転している上、扉まで距離も時間も足りない。

 それでもと爪先を自室へ向けかけた時――その偶然は重なった。

「あっ……」

 建物の隅にあるフォルテの部屋の先、廊下の突き当たりには、裏口の扉がある。

 それが突然開き、小雨に濡れた一人の人物が入ってきた。彼女は妙に急いた表情で軽く水滴を拭ってから、目の前のフォルテに気付き、驚いた顔を見せる。

「あら。フォルテ……君?」

 彼女――リタを前に、フォルテは狼狽して後退る。

 混乱し、自分がどう体を動かしたのかも把握できなかった。突然、手に強い痛みが走る。見ると、どうやら扉の取っ手に強く手をぶつけてしまったらしい。

 しまった――と全身の毛が逆立った直後、扉が破裂したような勢いで開かれた。

「ぐっ――!」

 厚い木の板に肩口を突き飛ばされ、フォルテは顔を歪める。

 だが、その痛みに意識を取られている余裕はなかった。

 すぐ目の前、開かれた扉の内側にはシャーリーが立っていて、絶望と怯えに凍り付いた顔で、フォルテを愕然と見上げていた。

 恐らくフォルテも、同じくらい酷い顔をしてしまっていて――それでシャーリーも、フォルテが全てを聞いてしまったことを悟ったのだろう。彼は血の気のない唇を震わせ、泣き出しそうに顔を歪めると、フォルテを押し退け、裏口と逆の廊下へ走り去っていった。

「シャル君!」

 部屋の中から、ダレンの鋭い声がする。

 それから、知らない女性とリタが、慌てた様子で呼び合う声も。

 呆然とした頭には全てが遠く、フォルテは数秒立ち尽くした後――瞬時に我に返り、内心で自らへの憤りに吠えながら、シャーリーの去った方へ駆け出した。

(馬鹿野郎、だからここで俺が呆けてどうする――!)

 一度見失った背中を探し、必死に寮内を走る。――この状況で、あんな状態でどこかに行ったって、シャーリーは傷ついたままひとりぼっちで泣くしかない。

 なら捕まえる、謝る、それ以外に何がある――!

「シャル……シャル!」

 廊下を駆け、名を呼びながら、気配の残滓と勘を頼りにシャーリーを追う。

 寮の玄関を飛び出し、小雨の降る庭へ出る。辺りを見回しながら数歩踏み出し――そこでフォルテはとうとう、植え込みの隅に雨を避けて小さく蹲る、銀髪の頭を見つけた。

 姿を見た瞬間、罪悪感と怯みに足が止まる。だがそれでも、フォルテは重みを増した体を引き摺り、シャーリーに近付いた。

「……シャル」

「来るな……」

 そっと名を呼んで、返ってきたのは拒絶に凍り付いた声。

「私に……お前に合わせる顔なんて、ない」

「何言ってんだよ……」

 フォルテは雨に降られるまま、シャーリーの傍らに寄り、膝を突く。

「ごめん。あんな話、聞かれたくなかったよな……。俺、お前がそんな辛い目に遭わされてたなんて、本当に知らなくて、お前のこと分かったようなつもりで、実は全然――」

「……違う」

 フォルテの言葉を遮って言い放ち、シャーリーは顔を伏せたまま、首を左右に振る。

「私が悪いんだ。お前は何も悪くない。私のせいで……お前の人生は狂ってしまった」

「え……?」

「お前が何も知らないのは……私のせいだ。私のために、リンはお前に全てを伏せた」

 シャーリーは重く顔を上げ、酷く疲れた表情でフォルテを見た。

 そうして力のない声で、ぽつりぽつりと話し出す。

「……フォルツァートの家に引き取られた時、何も知らないお前は、私の救いだった。私の過去も、受けた屈辱も知らず、純粋に慕ってくれる。……初めてだったんだ。何のしがらみも束縛もなく、ただ好意だけで一緒にいられる……そんな相手は」

「…………」

「だが同時に私は怖かった。もしお前に全てを知られたら、そんな関係はきっと終わってしまうに違いないと。……考えてみろ。目の前の私が人質を口実に祖国に捨てられ、挙句奴隷の辱めまで受けた人間だと知って、お前は見る目を変えずにいられるか? リンだって……私を慈しんでくれたが、そこに憐れみや同情があることくらい、顔を見ていれば分かる」

 声を震わせ、最後に敬愛する相手への諦観を口にして、シャーリーは嗚咽めいた溜息を零す。痛ましさにフォルテは思わず指を擡げるが、届く前に再びシャーリーの唇が動いた。

「私はお前を失いたくなかった。だから……一度だけお前に首輪のことを訊かれた時、リンに相談した。……きっとリンも悩んだと思う。だが結局、リンは私自身のことやあの首輪、そして魔法のことを、当面お前に伏せると私に告げた。私が話せるか、お前が受け入れられる年頃になるまでは保留にしようと。結局……その時が来る前に、こんなことになってしまったが」

 思い出す。――確かに、フォルテはシャーリーに首輪について尋ねたことがあった。

 兄の稽古で泥だらけになり、湯が間に合わず纏めて風呂に入った日。脱衣を終えても首輪だけは外さないシャーリーに、何の悪気もなく、それは外さないのか――と訊いた。

 フォルテにとっては、その答えすら覚えていないほどの、ただの日常の一幕。

 だがシャーリーには、やっと手に入れた居場所を失いかねない大事件だった。

「お前に話さねばならなかったのは、そういうことだ。……待たせて悪かったな。ただ全てを話すとなると、思い出したくないことまで含まれるし、何より……お前に見限られても、耐えられるだけの心構えが欲しかったんだ。それも結局、私の我儘だがな」

 シャーリーは深く息を吐くと、笑顔を作ろうとして――ただ悲しく歪んだ表情を見せる。

「話は以上だ。……これが私の罪だ。こんな重大なことを、お前にだけ除け者のように隠し続けたこと。お前からフォルツァートの侯弟として、相応の知識を得る機会を奪ったこと。そして何より、お前に正体も知らぬまま私を受け入れさせて……兄上と反目させた挙句、こんな場所まで来させてしまったこと。……お前の人生を狂わせたのは、私だ」

 最後は視線を落とし、濡れた地面へ顔を向け、シャーリーは声を支えきれず震わせる。

「本当に……済まなかった。どんな責めでも罰でも受ける。……気の済むようにしてくれ」

 雨の空気に濡れ、惨めに俯くシャーリーを、フォルテはただ言葉もなく見ていた。

 ――こんな風に、あまりに沢山のことが襲った時、どんな顔をするのが正解なのだろう。

 気にしないなどと笑えなかった。話して欲しかったという感情的な、我儘な思いも勿論ある。だが、それをシャーリーにぶつけることは絶対に違うと分かっていた。そんなことをしたら――きっと二度と、シャーリーは笑えなくなる。

 それは自分にとって、最も望まない結末だ。

(そうだよ……)

 頽れるシャーリーを前に、茫洋と乱れた心は、やがてひとつの答えに帰着する。

 ――幼い日、初めてその美しい、だがいまにも壊れそうな少年を見た時の思い。

 いやそれ以前に、兄に家族が増えると教えられた時から、ずっと心に決めていた誓い。

 そして――年月を重ね成長し、兄と決別して出奔した後にも、決して折れなかった決意。

(そんなの……決まってるじゃないか……)

「……シャル」

 自分でも驚くほどに静かな、穏やかな声で、フォルテはシャーリーを呼んでいた。

 シャーリーはびくりと震えるような所作で顔を上げ、強張った表情でフォルテを見る。

 その顔、その姿の中に、フォルテはこれまで彼と重ねた五年の歳月を見て――ふと、どこかにあったかも知れない、彼と出会わず生きた、別の自分の可能性を幻視する。

 何も知らず、故郷で誉れのもと幸福に育った、もうひとりの黒の侯弟――。

 だが、そんなものに未練はない。

 その結果、どれだけ道が困難な、滅茶苦茶なものに変わったのだとしても――自分は。

「シャル。俺は、お前が好きだ」

 凝然と見つめるシャーリーの、くすんだ空色の瞳を捉え、フォルテは告げる。

「今の俺が、お前と出会ったことで形作られたっていうなら、俺はそれで構わない。……なあシャル。お前がいてくれてさ、俺、ずっとすごく楽しかったんだぜ? 一緒にいて幸せだったの、お前だけじゃないよ」

「フォル……テ……」

「俺のこと、本当に好いてくれたんだな。失くさないためにって、隠し事までして」

「……うん……。大好き……だった。大切な弟で……絶対失くしたくなくて……」

「そっか。なら、俺はそれで十分だよ。……辛かったの、気付いてやれなくてごめんな」

 穏やかに囁くと、フォルテはいよいよ泣き出しそうに肩を震わせるシャーリーを引き寄せ、その全てを守るように、優しく、強く抱き締めた。

 シャーリーは一瞬体を強張らせるが、堰を切った感情は止められず、フォルテの肩に顔を押し当て、大声をあげて泣き始める。

 それは、出会いから今に至るまで心を鎧い続けてきた少年が、一度もフォルテに見せたことのなかった、本当に裸の心そのままの、慟哭であった。


 街を襲った不意の激しい通り雨は、いつしか降り止もうとしていた。

 庇の下から庭の二人の少年の姿を見守り、やがて微笑し安堵の溜息を落としたダレンは、そばに控えた側近の声で市長の顔を取り戻す。

「宜しいですか、市長」

「うん。待たせたね、リタ。――で、何があったのか、報告を聞こうか」

「リコに残した部隊が帰還しました。詳しい報告は後ほど上げさせますが、取り急ぎ。まず、リコはその後平穏が続いています。カロキアとの交渉は首尾良く運び、辺境の警備は強化される模様。ただ、カロキア中枢の動きについては引き続き内偵が必要です」

「妥当な線かな。問題は周りの官僚が王をどう転がすか、か」

「……それから、ラングに派遣した密偵から、火急の報告が」

 リタの声が鋭く引き締まる。本題はここだと、ダレンはすぐに理解した。

「ラング帝国は、正式にアレニア王国との講和破棄を決定。――今頃は宣戦布告の準備、或いは今この時にでも、既に為されているかも知れません」

 ダレンは黙したまま、変わらず庭の光景を見つめていた。

 その視線の先にあるものはリタも理解しており――だがそれでも彼女は自らの役目として、その明白な結論をはっきりと口にする。

「ラングとアレニアは、再び戦争になります」

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