第六章 太陽の街で 1

 ロランの街を渡る風は、今日も潮の香りを運んでくる。

 朝食後、フォルテは資料を読むというシャーリーと別れ、庁舎上階の、談話や休息の場として解放されているバルコニーで外を眺めていた。

 石造りの手摺りに凭れ、眺める先には、緩やかに下る地形に開かれた街並みと、青い空と海が広がっている。

 ラングとは景色も匂いも、空気や光も、何もかもが違う。その事実がこんなに胸に迫るのは――やはり、朝方のシャーリーとの会話のせいだろう。

 海でも山でもない、平地に開かれた大都市であるエリスには、あまり自然の匂いはない。それでも見慣れた貴族の邸宅や、建物が密集する市井の光景の記憶は、心身に切り離しがたく染みついている。

 ――今後は、感じることもなくなるのだろうか。自分を形作ったラングという土地を。

「なんだか、なあ……」

 弱気な考えに、同時に情けなさを覚えつつ、小さく俯いて溜息をつく。

 勿論ラングを離れることの意味を、全く考えていなかったわけじゃない。だが改めてその事実を突きつけられると、急に胸の中に置き場のない感情が生まれてしまった。

 だからといって、それでシャルと別れる、なんて選択はあり得ないのだが――。

「……待たせたか」

 悶々としていると、後ろから声がした。

 すっと顔を振り向ける。そこにはエディスがいつも通りの淡然とした表情で立っていた。

 軽い緊張を感じつつ、フォルテは体ごと彼に向き直る。

「ううん。急に声かけたのは俺だし。……仕事、もういいのか?」

「市長の護衛なら、必要なことは他の者に引き継いできた。それに市長にも、お前たちの世話を優先しろと言われている」

「……なんか、悪いな」

「お前が気にすることではないし、俺も気にしてはいない。……それで、話とは」

「あ、うん……」

 ――朝方、シャーリーと話した少し後、エディスが食事の声がけに訪れた。

 連れられて食堂で朝食を済ませた後、フォルテは彼を呼び止め、話があると誘った。

 冷静になってみると、どうして彼だったのか、という気まずさも感じる。だが現在シャーリー以外で一番接する人間なのは確かだし――それに、彼にだからこそ訊いてみたいこともあった。

「……相棒の言うことは、間違ってはいないだろう」

 手摺りから外を眺めつつ、一通りの吐露を終えると、隣に立つエディスが言った。

「大きな決断になる以上、自分の意志で選んだという自覚は必要だ。後で問題が起きた時、責任を他者に求めたくなるようでは駄目だろう」

「それはわかるんだけど」

 フォルテは少し苛立ちつつ息を吐く。周囲には他にも人がいて、寛ぎ、また公私の会話をしているので、感情的な態度は慎まねばならない。

「けど俺は俺なりに、シャルを守りたい、って自分の意志で決めたつもりだ。それが理由じゃいけないのかよ」

「いけない、ということはない」

 エディスは静かに、だがきっぱりと言い放つ。

「誰かのためというのも、突き詰めればそうしたい自分のためだ。立派な理由になり得ると俺は思う。ただ……それは受け入れる側にも、相応の覚悟がいる。お前の覚悟を、受け入れるための覚悟が」

「受け入れるための、覚悟……?」

「ああ。恐らく、お前の相棒はまだそこに至れていない。だから恐ろしいのだろう。……まあ、相棒が悩む間に、お前も今一度自分の覚悟を顧みろ。誰かに剣を捧げる生き方というのは、決して楽なものではない」

「……あのさ。あんたは……どうして捧げる気になったんだ」

 エディスの言葉を胸に落とし込んでから、フォルテは意を決し、エディスと対話を望んだ最大の理由――その問いを口にする。

「リコから見ててさ、あんたやっぱり、あの市長に思い入れあるよな。あの人に剣を捧げたなら……どうしてその生き方を選んだんだ」

「……あの人の理想の先にある、その世界を見てみたいと思った」

 エディスは少し沈黙してから、遠くの街並みに視線を置き、言う。

「かつてこの街も、東の戦乱の影響で荒れたことがあった。……まだ俺がお前ほどの歳にもない頃だ。俺は最初、あの人とは、敵対する側の人間として出会った」

「えっ……?」

「世の中には己の意志に関わらず、闇の中で生きることを強制される人間もいる」

 エディスはどこか遠くの光景――或いは時間を見たまま、静かに口にする。

「俺が生まれたのは、ここより南方の国の集落。作物もろくに育たない乾いた土地だ。そこでは口減らしと、生きる糧を得るために子供を売るのは珍しくなく、俺も幼い頃に人買いに売られ――最終的に、金持ちや外国に兵士を売って外貨を稼ぐ連中のもとで、暗殺者として育てられ、商品にされた」

 想像もつかない世界の話に呆然とするフォルテに「今の体格では考えられんがな」と淡泊に付け足し、エディスはさらに続ける。

「そうしてある時、俺はこの街の豪商に身柄を買われた。貧しい国と商業都市では金の価値が違うから、連中が喜んで俺を手放すだけの金額も、そいつにとってははした金だったらしい。命じられたのはその当時の市長の殺害で、失敗した時は口を割られる前に死ねと言われていた。……だが時代が時代だ、要人は今以上に厳重に守られ、任務は失敗したのだが……その時俺を救ったのが、当時は市長の秘書の一人だった、あの人だ。「何も心配しなくていい、雇い主はこちらで勝手に突き止める」――そう言ってな。……昔から、子供には甘い人だった」

 淡々とした言葉の中、最後は溜息のように呟く。

 ――だからエディスも、行き場のない自分たちを見て、放っておかなかったのだろうか。

「その後ロランは、時間こそかかったが、今のような平和を取り戻した。……俺はあの人の働きと、決して信念を折ることのなかった姿を見て、拾われた命を、そのまま捧げることに決めた。受け入れられるまでに、大分時間は必要だったが」

「市長の……理想を叶えるためか」

「それも勿論だが……やはり俺は、あの人のことが好きなのだろうな」

 ふと、遠くを見るエディスの横顔から力が抜け、幼い少年のような空気を纏う。

 だが彼はすぐに「余計なことを言った」とばかりに苦い顔をすると、小さく息を吐いた。

「話し過ぎた。お前の参考にはならんだろう」

「いや……ありがとう」

 フォルテはまっすぐエディスを見上げ、礼を告げる。

 境遇は違えど、同じように誰かの剣となる道を選んだ彼の話には心強さを貰ったし、何より日頃あれだけ反発している自分に、真剣に話をしてくれたことには、純粋に感謝の念を抱いた。

「何にせよ、俺も市長も、お前たちを急かすことはしない。ゆっくり気持ちを整理すればいい」

「なんか、悪いな。色々と」

「いや。ああ、それと……忘れないうちに伝えておくが。明日辺りに件の魔法具屋に行く時間が取れそうだ。後でまたお前たちの部屋に行く」

「あ……分かった」

 急な宣告に、フォルテははっとして頷く。

 ――そう、そもそもの目的はそれだ。街に出て、剣の鑑定をして貰わねば。


 翌日、フォルテたちは朝食の後、エディスと共にロランの街へ出た。

 街は海側へなだらかな傾斜が向いている構造で、市庁舎は大波への備えでやや高台にある。魔法具屋は海辺寄りだが、そこまでは番地で区切られた幾つかの地区を通るらしい。

 朝から随分と暑い日だった。夏が終わろうとしているにも関わらず、ロランはラングに比べて気温が高く、湿気も強い。今日は日差しも強いが、エディスに言わせるとこれでも大したことはないらしい。

「それとも、侯爵家の御曹司には到底耐えられないか?」

「……なんてことねえよっ」

 エディスの珍しい軽口に、熱気に呻きながら歩いていたフォルテは仏頂面で答える。

「っていうか、シャルは大丈夫か? 辛くなったらすぐ言うんだぞっ」

「あのな。自分の体裁の悪さを、私に転嫁して誤魔化すのはやめてくれないか」

 ……見抜かれていた。

 そんなシャーリーも今日は容姿を隠すための厚着はせず、首の痣にスカーフだけ巻いていたのだが、下手な格好をしていたら、この気候ではのぼせて倒れていただろう。

「海辺に出れば風も通る。そうだな、商店街に出たら帽子でも買ってやろうか」

 エディスにそんなことを言われつつ、三人は大小の路地を通る。

 フォルテたちは元々街に出る機会の少ない暮らしをしていたが、それでもロランがラングと違う明るさを持っているのは感じていた。それは夏の陽光のためか、或いは洗練された街並みのせいか――と判然としなかったが、大通りに出た時、その疑問の答えは鮮烈に二人の前に突きつけられた。

「わあっ……!」

 ――そこは笑顔と喧噪に満ちた、華やかな空間だった。

 通りというより広場、といえるほどに幅広い道には露店が溢れ、多くの建物が軒先を商店として開いている。

 当然、ラングにも商店の通りはある。だが人々の活気が違うのだ。道を歩く人の数が多く、あちこちで取り引きが行われている。商人も客も表情豊かに喜怒哀楽を表し、熱気には気後れもするが、同時に、中に誘われてしまいそうな心地よい高揚感も感じる。

「十二番地区、海妖姫セイレーン通りだ。生活な必要なものは大体ここで揃う。覚えておけ」

 慣れた足取りのエディスに続き、フォルテたちは通りを進んだ。好奇心のまま、ついあちこちの店先に視線を遣っては、呼び込みに目敏く捕まえられかける。

 そのうちにエディスは一件の帽子屋に目を留め、二人を中へと誘った。

 狭い店内には所狭しと帽子が飾られていた。エディスは店主らしい老女に声をかけると、二人に好きなものを選ぶよう告げる。先程の申し出通り、帽子を買ってくれるらしい。

「軽いのがいいだろうね。ついてるお守りは海の神様だよ。航海の安全を守ってくれる」

 人の良さそうな老女に説明されながら、二人は帽子を選び、交代で鏡の前に立った。

 シャーリーが帽子を試すのを見守る中、ふとフォルテは通行人が時々こちらを見て、何かを囁いているのに気がついた。

 最初は少し警戒したが、耳を欹てると、それは店内に銀髪の綺麗な子がいるだとか、試している帽子が可愛い、欲しい、といった程度の内容で、敵意や害意は全くなかった。

 歩いている間もそうだった。シャーリーを振り返る者はいても、明らかに優れた容姿に見惚れているだけの表情で、悪意はない。それは本人も気付いていたようで、庁舎を出る時は姿を隠さないことを幾分不安そうにしていたが、今は大分安心し、落ち着いている様子だった。

「フォルテ……どうかな」

 そんなことを思い出していると、後ろから声をかけられ、我に返って振り返る。

 そこには、透かし模様の入った麦藁帽子を被るシャーリーがいた。

「うん、いいんじゃないか。似合ってる」

「私は、フォルテと同じで良かったのだけど」

 シャーリーはフォルテの頭を見る。フォルテは早々に被り心地重視で、模様のないシンプルな麦藁帽子を選び出していた。

「それが似合うんだからいいじゃないか。こんな地味なの、逆にお前には似合わないだろ」

「そうかな……」

 当人は首を傾げていたが、実際、涼しげな透かし模様はシャーリーの華やかな風貌によく似合っていた。エディスに支払いを任せ、二人は先に店の外に出る。

「外で帽子を選ぶなんて、初めてだな」

 囁くような声に振り返ると、シャーリーは帽子を目深にして照れくさそうに笑っていた。

「……楽しかったか?」

 シャーリーの笑顔に嬉しさと、何となく寂しさが滲み、フォルテは優しい声で尋ねる。

「ああ。この帽子はもう手放せないな。大切にしないと」

「そうだな。俺も大切にするよ。……お前と一緒に、初めて買った帽子だ」

「買って貰った、だけどな」

 言葉と視線を交わし、二人は笑い合う。

 辛い経験も背負った全ても、どうやっても拭い去ることはできないのは分かっているのに――今この瞬間、輝きに満ちた時間が、全てを忘れてしまえるほどに嬉しい。

 そうするうちに、店内から会計を終えたエディスが姿を見せた。

「存外時間を取ってしまったな。この調子では日が暮れかねん。少し急ぐぞ」


 目的の魔法具屋は、海に近い地区の大通りを逸れ、路地を降りた半地下にあった。

 入り口の古びた敲き金を鳴らし、戸を潜る。店内は薄暗く雑然としていたが、嗅ぎ慣れない香の匂いが薄く漂い、独特の神妙な雰囲気があった。店主はやや明るめの褐色の肌をした、エディスと同年代か少し上ほどの女性で、生まれた土地も近いのだろう、似た雰囲気を持っていた。

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