第五章 都市国家ロラン 1
その後、一行はカロキア北西の森林を抜け、宿場を越えながら、街道を西へ進んだ。
「フォルテ、空気の匂いが違わないか?」
シャーリーが突然そんなことを言い出したのは、最後の宿場を出た後の昼下がりだった。
「匂い?」
言葉に、フォルテも注意深く匂いを嗅ぐ。確かに、言われてみれば空気に普段と違う匂いが混ざっていた。それが何かは上手く説明できないのだが――。
「中々、いい鼻を持っているらしいな」
二人の会話に、近くに座っていたエディスが振り返った。
「育ちは内陸か。なら知らないだろうな。……これは、海の香りだ」
「海? 海って、こんな匂いなのか?」
「今日は風向きもこちら側らしい。珍しい経験ができて、運が良かったな」
顔を見合わせるフォルテたちを前に、エディスは珍しく、表情に薄い微笑を滲ませる。
「そうだな、折角だ。お前たちにロランという街を見せてやろう。……ケヴィン、そろそろラナの丘か? 少し止めてくれ」
エディスは幌の向こうの御者台に呼びかけ、馬車を止めさせる。
そして仲間たちがどこか楽しげに見守る中、フォルテとシャーリーを促し、外に出た。
そこは低い丘陵を通る街道で、明るい日差しの中、強い風が辺りに生い茂る背の高い草を鳴らしていた。エディスはその中に脚を踏み入れ、二人を伴い丘の上へと進んでいく。
「なあ……何だよ、どこ連れてくんだ?」
フォルテは文句を言いつつも、シャーリーを気遣いながら草を掻き分けついていく。
やがて三人は、小高い丘の上へと出た。
そこでエディスは来た方を振り返り、二人に彼方を指し示す。
「あれが、ロランだ」
「えっ――……」
示されるまま振り返り――二人は、それきり草の音の中で言葉を失った。
丘の下、草原の先に、巨大な街が広がっている。
大きさはラングの首都全域、いやそれ以上。豆粒より小さな家が整然と建つ町並みには、幾度か防壁を建て増し、街を拡張した形跡すら見られる。
だがそれと同じくらい、いやそれ以上に二人を驚かせたのは、都市が巨大な水瓶――対岸すら見えない広大な水面に面していることだった。大きく弧を描く水辺は複雑な形の入り江となっていて、陽光に燦めく水上には、出航、或いは帰港した舟が沢山浮かんでいる。
「……海だ」
ゆったりと強く煽る風の中、エディスが二人の目線を追い、静かに、力強く言う。
「あれがロランの人間の力の源。古来より漁業、そして大規模な海運を可能にし、この地を海洋都市として発展させた。――これが、自由都市ロランの姿だ」
確かな誇りを宿す声を聞きながら、二人は眼前の全てに圧倒され、立ち尽くしていた。
そこからの道程は、あまり時間はかからなかった。
馬車は丘を下り、さらに暫く行ってから不意に停車した。御者台で何か遣り取りをしているようで、エディスがそちらに向かい話に参加すると、馬車の後方から人が覗き、確かめるように視線を巡らせ、立ち去っていく。
「検問だ。市長の印書を貰っているから、形式だけで済んだが。最近は外も物騒だから、以前より出入りが厳しくなっている」
「やはり……アレニアの襲撃の件、ですか?」
「それ以外にもだ。どこかで何かが起きている時は、大抵世の中全体が騒がしい」
「……あのさ。これからどこに行くんだ?」
話題を変えようと、フォルテは横から口を挟む。
「当然、市庁舎に帰る。お前たちにも共に来て貰うことになるが……」
「我々は……市長にお会いすることになるのでしょうか」
「強制はしない。だが俺の客として滞在する以上は、それが望ましいと思う」
言葉に、フォルテとシャーリーは視線を交わし、当惑の表情で押し黙る。
それを見たエディスは「俺の主観に過ぎないが」と前置きした上で続けた。
「市長はお前たちが事情を話したくないというなら、そこにロランにとって余程重大な意味でもない限り、無理な介入はしないはずだ。滞在中のことは俺に一任してくれるだろう」
「寧ろ、後ろめたいことがないなら、却ってご挨拶はするべき……ですよね」
シャーリーはゆっくり呟いてから、フォルテを窺う。
フォルテも異存はなかった。流石に素性は隠すとしても、こういう時は堂々としていた方がいいだろう。そう結論づけてエディスに頷くと、彼はそれを受けてから、幌の前方を覗き、外を窺い見る。
「もうすぐ市庁舎だな。荷物を降ろすから、手伝え」
ほどなく馬車は停車し、一行は外へ降りた。
そこは大きな車庫の前の馬車止めだった。荷馬車二台が並んでもまだ余裕のある広さで、搬入口といった趣もある。
荷下ろしを終え、おおよその荷物が建物の中に運び込まれた後、取り残されかけたフォルテたちをエディスが捕まえた。
「面会の前に、着替えと湯を用意させる。俺の報告の後にでも時間を作って頂くから、客室で休むといい」
それからエディスに連れられ、フォルテたちは同じ敷地内にある市庁舎に向かった。
建物の外観はラングの多くの建築よりすっきりした様式で、単純ながら瀟洒な装飾が特徴的だった。内部も華美さはないが、清潔感のある明るい雰囲気で纏められている。
擦れ違う人間とエディスが挨拶を交わすのを数度見た後、二人は別棟の客室に通された。
そこにはベッドやテーブルなどの宿泊施設が一通り揃い、白い陶器のバスタブを備える浴場スペースもある。
エディスが去ってほどなく湯と着替え、それに飲み物や軽食が運び込まれ、二人は交代で湯を使うと、身なりを整え、時が来るまで一息つくことにした。
「……スカーフ、曲がってるぞ。フォルテ」
大きなソファに隣り合わせに座り、シャーリーはフォルテを見て笑う。
用意された着替えは随分垢抜けた服で、装飾こそ少ないものの、縫製の工夫やすっきりしたシルエットが上品さを醸し出していた。二人揃いのスカーフも用意されていて、恐らくエディスがシャーリーのストールの理由を察し、気を回したのだろう。
「見せてみろ。私が直してやるから」
シャーリーは言うそばから身を寄せ、フォルテの襟元に触れてスカーフを整え始める。
彼自身のそれは完璧に結われ、下の痣は見えなくなっていた。それでもついフォルテはその位置に視線を向けてしまい、痛ましさを感じると同時に――疑問を抱く。
――そういえば。そもそもどうして、首飾りを隠していたんだろう。
「……ほら、できたぞ。自分でできないんだから取るなよ」
声に我に返り、顔を上げる。
シャーリーは久々にフォルテの世話が焼けたのが嬉しいのか、兄分ぶった勝ち気な笑顔を見せていた。
「あ……うん」
家にいた頃は悔しくもあった態度に胸が詰まり、ずっとそうしていてくれたら――などと思っていると、不意に扉がノックされ、きっちりした身なりの女性が姿を現した。
「お待たせしました。市長室までご案内しますので、どうぞ」
市長室は、庁舎の上階にあるようだった。
緊張しながら女性についていくと、やがて大きな両開きの扉の前に出た。彼女は一歩前に出て、落ち着いた調子で扉を叩く。
「失礼します。お客人をお連れしました」
「ああ、どうぞ」
扉越しに、男性の明るい声が聞こえた。身構えるフォルテたちの前で、扉が開かれる。
部屋の中は、広い執務室兼応接室といった趣だった。内装は庁舎の他の部屋とあまり変わらない。正面の壁には大きな窓が取られ、明るい光が部屋を満たしている。
部屋中央にはソファとテーブルがあった。テーブルの傍らにはエディスが立って控え――ソファには、見知らぬ男性が座っていた。
その姿を見て、フォルテは意外な思いで目を丸くする。
状況からして、彼がロラン市長だと推測できる。だがそれは想像以上に若い人物だった。
髪と瞳はカロキア以西に多い栗色。洗練された意匠の服を纏い、エディスの長身と比較するとやや小柄。眼鏡をかけた下の顔は言ってしまえば童顔で、極力高く見積もっても四十に届くかどうか。下手をするとリンより年下と言われても納得できてしまう雰囲気だ。
「やあ。待たせてしまって悪かったね」
男はソファの背から鷹揚に身を起こすと、フォルテたちに笑顔を向ける。
「どうにも仕事が押してしまって。ああ、でも君たちのことはちゃんと聞いているから安心して。えーと、フォルテ君と……シャル君。……逆じゃないよね?」
「合っています。市長」
手で示して確認した後、真顔で囁いてきた市長に、エディスは無表情で答える。
「あ、良かった。逆だったらびっくりだもんね。まあとりあえず、こっちに来て座って。紅茶と……ねえリタ。一昨日十五区で買ってきて貰ったお菓子、出してあげてくれる?」
「あれは仕事の合間に、市長がご飯代わりに全て召し上がってしまったでしょう」
「えっ嘘。うーん、じゃあ仕方ない。何か美味しそうなものをよろしく」
市長は終始屈託ない様子で話し、リタが退室したところで呼吸を置くと、対面のソファに腰を下ろしたフォルテたちを見て、さて、と前置きをしてから始めた。
「申し遅れた。僕は、ダレン・クロフォード。自由都市ロランの十七代目市長を務めている。この度は僕らの手助けをしてくれたこと、市長として礼を言わせて貰うよ」
「あっ……フォルテ――と、こちらがシャルです」
フォルテは咄嗟に名前だけで自己紹介をする。姓を持たない者も世の中には少なくないので、おかしくはないはずだった。
「市長へ直々のお目通りが叶い、光栄です。ですが……実際手助けと言えるほどのことはできていませんので、なんというか恐縮です」
「いやいや、エディスからは立派に戦ってくれたと聞いているよ?」
ダレンは手をひらひら振りながら笑う。
「それで、お礼ということで、ロランまで同乗して貰ったそうだけど」
「はい。その……旅の途中なんです」
「若いのに大変だねえ。まあ、東から来たならこういう街は珍しいだろうし、是非色々吸収して欲しい。何なら後でエディスに案内して貰えばいいし」
「ありがとうございます……」
人好きする笑顔のダレンに、フォルテは神妙に頭を下げ、シャーリーも倣う。
どうやら市長は見る限り悪人ではなさそうで、想定した最悪の状況――すぐに逃げ出さねばならないような事態は避けられたかと、フォルテはまず胸を撫で下ろす。
とはいえ安心しきれるわけでもない、早めに場を辞す言い訳はないかと考え始めた直後、不意に市長は、フォルテだけに視線を向けた。
「ときに、フォルテ君」
「えっ、はい」
何事かと、フォルテは改めて姿勢をを正す。
が、笑顔で投げつけられた言葉は、想像の範囲を完全に超えていた。
「君のその素敵な名前は、やっぱり名将と名高い大叔父上から?」
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