第三章 黒き刃 薄明の希望 3

 幸いにしてと言うべきか、ベッドに入ったシャーリーは心身の疲れには勝てなかったらしく、すぐに細い寝息をたて始めた。

 フォルテはというと、そもそも起きているという宣言自体がベッドを譲る口実だったので、シャーリーが寝るまでの間、女将に借りた地図を眺めて時間を潰した後は、灯りを消し、部屋の片隅の古いソファに横になる。

 薄い上掛けを被り、暗い天井を見上げていると、煩悶が湧き上がって全身を包む。

 それを振り払おうと、フォルテは唇を噛み、意識的に気を張った。……これでは駄目だ。自分まで参ってしまったら、一体誰が状況に対処し、シャーリーを支えるというのか。

(とにかく明日だ。明日早起きして、それから考えよう)

 問題は山積みだが、体力が回復すれば、シャーリーにしろ自分にしろ、少しは考え方もましになっているはずだ。

 塞いだ気持ちを追い払うため、フォルテは首を横に向け、シャーリーを視界に入れる。

(そういえば……あの不思議な歌のことも、訊きたかったな)

 ふと思う。とてもそんな雰囲気でなかったといえ、かなり重要な話ではあるはずだ。

 これまで隠していたのだろうか。だが――思い起こすと、驚いていたのは自分だけで、兄はシャーリーが魔法を使えること『自体』には全く動揺していなかった。

(もしかして、俺だけ教えて貰えなかったのか……?)

 複雑な気持ちになると同時に、兄のことを思い出して、また気持ちが塞ぎかかる。

 首を振り、意識的に考えを霧散させると、フォルテは上掛けを頭まで被って目を閉じた。

 ――もう、あいつのことは考えない。

 そもそもさっき、考え事は明日にしようと決めたばかりじゃないか。

 強く自省し、ただ『シャーリーを守る』という決意だけを心に念じて、フォルテは今度こそきっぱりと煩悶を停止する。

 そうするうちに、抱えていた疲労が全身を這い上り、ことりと眠りに落ちて――、


 ――そして、突然響き渡った大きな音で目が覚めた。


「……えっ!?」

 弾かれるように跳ね起き、フォルテは声をあげる。

 そこは寝入った時と同じ、宿のソファの上だった。まだ真っ暗で、時間もあまり経っていないように思える。

 辺りは夜の静寂に沈んだままで――それが妙だった。今、確かに自分は全身を打ち据えるほどの大きな音を聞いた。眠っていて何の音だったかはよく分からないのだが、あれだけの音に、他の人間が誰も反応しないということがあるだろうか。

 寝ぼけた可能性も疑いつつ、落ち着かない思いで周囲を見回して、ベッドを見た時。

 フォルテは視界に入った――いや、入るべきものが入らなかったことに凍り付いた。

「シャル……!?」

 ベッドの上に、シャーリーがいない。

 慌ててベッドに近寄る。敷布にはまだ温かさと、寝汗の僅かな湿り気がある。

 まさか、という思いに総毛立つ。部屋の雨戸は内鍵が閉まっており、フォルテは入り口の扉に走った。廊下に出て見回し、そこに探し人の姿を見つけ、息が止まる。

 シャーリーは廊下の先に、崩れ落ちるように倒れていた。

「シャル……シャル!」

 急いで駆け寄り、ぐったりしたシャーリーを抱き起こすと、フォルテは夜中ということも忘れて大声で呼びかけ、頬を軽く叩いた。視界の端に部屋にあった水差しが引っ掛かり、どうやら水を入れに出ただけか、とも思ったが、なら何故こんな所で倒れている――?

「う……っ」

 必死に呼びかけるうち、シャーリーは僅かに呻いた。だがそれ以上は応えない。具合が悪いのかと額や頬に触れるが、熱もなければ、冷たすぎることもない。

 誰か宿の人間を、と思うと同時に、これだけ騒いでも誰も出てこないことに違和感を覚えた。ここは特別に開けて貰った宿の住人の居住域で、あの女将や家族の部屋も遠くない。

 そもそも、最初にフォルテが聞いた大きな音の時点で――この異常事態では、あれが夢だとはもう思えなかった――騒ぎになっていてもおかしくないのではないか。

 気味の悪さに慄然とした時、さらに肝を潰す出来事が起きた。

「――ッ!」

 フォルテは顔を上げる。全身を再び打ち震わせたのは、響き渡る『歌』。

 勿論それが、シャーリーが発したものでないことは分かっていた。今の声は建物の外の全方位から、辺りの空気全てを震わせて聞こえた。しかも幾度も聞いたシャーリーの玲瓏と響く歌声よりあまりに禍々しく――大勢なのだ。

 シャーリーを抱き上げて立ち上がり、フォルテはともかく急いで部屋へ戻る。

 細い呼吸を繰り返す彼を手近だったソファに横たえ、傍らに置いた自分の道具一式から剣を取ると、鞘から抜き払って携え、窓に飛びついて、雨戸を開け放って外を見た。

 ……そして、そのまま絶句した。

 そこにあるのは、夜の村の光景。

 その向こう、土塀のさらに外側が、橙色に燃えている。

 開いている門の外側に見えるのは、人の手の高さほどに揺らめく、いくつもの炎の光。恐らく松明を持った何者かが村を包囲し――禍々しい旋律の『歌』を歌っているのだ。

「なっ……なんだ、これ……」

 怖気の走る光景に、フォルテは後退りして呻く。

 何が起きているのか理解できない。だが、外の連中がどう見ても友好的でない以上、自分たちの身を守ることを考えねばならない。とはいえシャーリーはまだ意識を失っている。逃げるなら抱えて運ぶことになるが、それで何かあった時に対処できるのか。

 混乱に陥りかけた時、入り口の扉の辺りで何かが動く気配があった。

 フォルテは咄嗟に振り返り、剣の切っ先をそちらに向ける。

「……待て」

 戸口に立っていたのは、一人の長身の男だった。

 彼は剣を向けられ僅かに眉を動かしたが、それ以上は表情を変えず、両手を軽く上げて落ち着いた声を発した。

「お前がこの事態に警戒しているなら、俺は敵ではない。……そちらの連れは『祈歌』の影響を受けたか」

「あんた……何者だ」

 剣を構えたまま、フォルテは男を睨む。

 もっとも、姿自体は広間と部屋を行き来する際何度か見かけている。普通の旅人にしては鍛えられた体と、見たことのない褐色の肌が目を惹き、印象に残っていた。

「外の連中と敵対する者だ。だからお前があいつらと無関係なら、警戒の必要はない」

「あんな連中知らねえよ! そもそも、一体何が起きてるんだ。妙な歌は聞こえてるし……って、おい! シャルに近付くな……!」

 男がソファに近付こうとしたのを見て、フォルテは咄嗟に間に割って入る。

 すると男は足を止め、腰に括った小さな布袋を外してフォルテに放った。咄嗟に空いた手で受け止めてしまうと、何か軽く小さな粒が沢山入っているような感触が返ってくる。

「これを使え。五粒ほどでいい。噛み砕いて飲ませろ」

「えっ……?」

「怪しむようなものは入っていない。それとも、できないなら俺がやってやろうか」

「なっ……! や、やるよ、自分で!」

 売り言葉に買い言葉で怒鳴り返し、フォルテは袋の中身を掌に開けてみる。

 が、その正体を見て、すぐにそれ自体は全く警戒に値するものでないことが分かった。

 寧ろ拍子抜けするほどだったが、これを『噛み砕いて飲ませる』ということは……。

 少し逡巡しつつ、フォルテはソファに向かう。

 そしてシャーリーのそばに屈み、袋の中身を五粒、口の中に放り込んで噛み潰す。

「うぐ……っ」

 想像以上の味に思わず顔を顰めるが、自分で味わっても仕方ないので、手早く唾液を絡めて舌先に乗せると、シャーリーの顔に自分の顔を近付け、唇を軽く開かせた上で重ね、舌を入れて口の中身を送り込んだ。

 ……そして、数拍。

「…………っ……、……むぐ――――!」

 シャーリーの喉奥から悲鳴に似た声が上がり、フォルテは慌てて舌を引く。

 だが直後思いきり両手で突き飛ばされ、床に転がる羽目になった。

「ぐっ、……が、げほっ……! ……な、何だ、……辛っ、からいっ……!」

 激しく咳き込んでから、シャーリーは這うように身を起こして辺りを見回し、テーブルの位置を見定めると、フォルテの肩を蹴り飛ばしてよろけながらそちらに走る。そして水差しがないのに気付いた時、褐色の男が携帯する水入れを外し、シャーリーに投げた。

 フォルテは痛む肩を擦りつつ、それでも舌に噛み付かれることは回避できた――などと無理矢理自分を慰め、何とか身を起こす。

「無事か?」

 声に顔を上げると、淡泊な表情で見下ろす褐色の男の姿があった。

 フォルテは半ば八つ当たりで、顔めがけて袋を投げ返す。男はそれを顔色一つ変えずに受け止め、服の隠しに片付けた。

 ――袋の中身は、大粒の胡椒だった。それも相当品が良く、味の濃い。

「気を抜いている暇はない。今、お前たちを襲ったのは、外の連中の幻惑魔法だ」

「幻惑……?」

「ああ。人の体内の魔力と呼応し、催眠や幻覚を引き起こさせる。……しかし、何があったかも分かっていない割に、全くの無事とは……。大した精神力を持っているようだな」

 男は感情の読みづらい顔で、フォルテを品定めするように見据える。

「あの、話が全然分からないんだけど……」

 警戒心を抱きつつ、フォルテはとにかく剣を手に立ち上がると、テーブルのそばに座り込むシャーリーに近付き、屈んでその顔を覗き込んだ。

「シャル……大丈夫か?」

「頭痛い……。フォルテ、何が起きてる……」

「村が……変な連中に囲まれてる。多分、お前みたいな魔法が使える連中に」

 苦しげなシャーリーの肩口をそっと撫でてから、フォルテは褐色の男を見上げた。

「あんたは、村の人を助けて回ってるのか?」

「いや。寧ろ戦えない者には、眠って貰っていた方が安全だ。お前の相棒はアレニア人のようだが……その様子では何もできないな」

「……シャルをどうしようってんだ」

「どうもしない」

 フォルテの敵意を込めた視線を、男は受け流す。

「動けるようなら手伝って欲しかったが、お前だけでいい。外の連中を追い払うのに手を貸せ。どのみち放っておけば奴らは村を襲う。そうなれば戦わざるを得まい。……それに」

 そこで言葉を切ると、男はフォルテの剣に視線を向け、顎で示した。

「それだけの魔法剣を持ちながら、逃げの一手ということもあるまい」

「……えっ?」

 男の言う意味が分からず、フォルテは目を丸くして男と剣を交互に見る。

 その様子に、今度は男の方が眉を顰めた。

「なんだ……その魔法剣はお前のものだろう。どんな力があるか知らないが、それだけ強力な魔法具を持っていて、知らぬ顔はできるものではないぞ」

「魔法剣? ……これが?」

「……まさかお前、その剣が何だか分かっていないのか」

 言い、男がさらに怪訝な顔をした直後――外でわっと大声があがった。

「……そろそろ、か」

 驚くフォルテをよそに、男は冷静に言い放つと、窓に向かい、そこで一度二人を振り返る。

「もしその剣が飾りでなく、多少なりとも振るえるならば、来い。……早く敵を退けられれば、それだけ相棒の身の安全も保証される」

 鋭く早口で言うと、男は窓枠に足をかけ、外へと身を躍らせた。

 呆然と彼の去った方を見ていると、フォルテ、と傍らのシャーリーが頼りない声で呼ぶ。

「私は大丈夫だ。……何が起きているのか見てくれ。状況が把握できた方が安全に繋がる」

「シャル……。分かった。けど、気をつけろ」

「ああ……」

 シャーリーは頷くと、水入れにそっと口をつけ、中身を舐める。

 辛そうな様子がまだ心配だったが、フォルテは意を決して立ち上がると、早足で窓へ向かい、褐色の男と同じように外へ飛び出した。

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