第三章 黒き刃 薄明の希望 2

「……どこだろうな、ここ」

 林の外、丘陵を下りきったところで周囲を一望し、フォルテは深い溜息と共に言った。

 辺りに広がるのは、夕焼けの光に染まる草原だった。ゆったりと煽る暖かな風が草を揺らし、少し行った先には道の始まりと、畑らしい土地もある。

「これなら休めるところも……いやでも、下手に人里に入ったら危険だよな……?」

「……それは、大丈夫だと思う」

 何かを確かめるように辺りを見ていたシャーリーは、腑に落ちた顔で静かに言った。

「地形を見てみろ。私たちは今山脈を背にして、正面に夕日を見ている。ミルザは西から北に低い山脈の続く土地だから、この条件なら夕日は背中か、右手側に来るはずだろう?」

「あ、ああ……。で?」

 手振りを交えて説明するシャーリーに、フォルテはまだ飲み込みきれない顔をする。

「ここは西の山脈の反対側。つまり……私たちは国境を越えてしまったんだ」

「国境を……越えた?」

 結論を聞いてようやく事態を把握し、フォルテは目を見開いた。

「恐らく。ここはラングの西、カロキア王国の端だ。……フォルテ。あの人に、山脈を越えた先の、しかも隣国の地主と懇意だった、などという話はあったか?」

「いや……聞いたことはない」

「なら大丈夫だ。この土地にあの人の影響力はない。ならばすぐ捕えられる心配もしなくていいだろう。それでも目立たないに越したことはないが……。とにかく、まずはどこか休む場所を見つけよう。一度落ち着いて……それから、今後の話をしよう」

「…………」

「……こんな所に突っ立っていても仕方ないぞ、フォルテ」

 感情の揺れが顔に出てしまったらしく、シャーリーはフォルテを困ったような、寂しげな笑顔で見る。

「歩くしかないんだ。……その先が、どこに繋がっていたとしても」

「うん……」

 目の前で言葉を交わしているのに、どこか上滑りするような――お互いの心が通じ合わない、触れようとしながら拒絶し合っている、そんな感覚。

 どうしようもない歯痒さを抱えながら、フォルテはシャーリーと共に橙に染まる草原の中を、風が荒涼と吹き鳴らす草の音だけを聞き、言葉もなく歩いて行った。


 夕暮れの畑には人の姿はなく、やがて日が暮れる頃、二人は一つの集落に辿り着いた。

 周囲を獣避けの木杭と土塀で囲まれたそこは鄙びた農村だったが、旅人の行き交いがあるようで、入ってすぐの大きな建物には宿を示す看板が下がっていた。二人は少し話し合い、その扉を叩くことにする。幸いフォルテが道具袋の隠しに硬貨を縫い入れており、信頼性の高いラングの貨幣は周辺国でも通用するため、宿代は工面できそうだった。

 木戸を開けると、そこは酒場兼食堂といった小広間になっていた。戸についた鐘が鳴る音で、テーブルの客たちが、中には胡乱そうな視線を向ける者も含めてこちらを見たが、すぐに朗らかな「いらっしゃい」の声と共に、恰幅の良い女性が大股でやってくる。

「おや、随分可愛い旅人さんだこと――って、あらあらあら、随分汚れちゃってまあまあ。どこの穴蔵通ってきたんだい?」

「あっあの……二人、泊めてくれませんか? お金ならあります」

 フォルテはつい緊張し、小さな子供のお遣いのような言葉を発してしまう。……正直なところ、自分での買い物はあまりしたことがない。

 だがそれが却って殊勝な少年の姿と受けとられたらしく、女性は人の好い笑顔で何度も頷くと、二人を中へ招き入れた。

「ああいいよ。生憎部屋は全部一杯なんだけど、こんな可愛いお客さん放り出せないもんねえ。特別に爺ちゃんの部屋を開けてあげるから、一緒に使いな? 代金は大部屋と一緒にしてあげるから」

「あの、部屋が一杯って?」

 シャーリーが緊張を走らせ、女将に問う。

「ああ……ちょっとお客さんがね、沢山来てるの。今日は」

「沢山……?」

 女将が少し考えるような間を置いたのに気付き、二人は警戒の視線を交わす。

 だがそれを察すると、女将は気遣い混じりに明るく笑った。

「ああいや、別に変なお客さんじゃないよ。西のロランからね、旅人さんが沢山来てるの。ここ、こんな田舎だけど街道に近いからね」

「ロラン?」

「西の商業都市……だな。私も地図でしか知らないが」

 シャーリーがフォルテにそっと囁く。……それなら、自分たちとは関係なさそうか。

「だからさ、今日はちょっと賑やかなの。ここも遅くまで開けるけど気にしないで寝ちゃって。ご飯も部屋まで持ってってあげるし――って、そっちの坊や? それ変わった襟なんじゃなくて服破けちゃってるんじゃない! 怪我までして可哀想に、何か着替えと薬とか持ってきてあげるわ。確か弟どもの昔の服があったし。……ほら! 突っ立ってないで、裏の洗い場洗い場! 泥落とさなきゃ!」

「えっ、あっ……」

 女将に追い立てられ、二人は慌ただしく再度入り口から外に追い出された。


「……エディスさん、今の銀髪」

 扉の揺れと鐘の音が収まった後、テーブルにつく集団の一つの若い男が、同じ卓の者にだけ聞こえるほどの、低く小さな声で言った。

「あれはアレニア人ですよね。まさか連中、旅人に見せかけた尖兵送ってきたんじゃ……」

「それは考えがたいな」

 卓の男らが剣呑な気配を増していく中、中心に座する一人の男――エディスと呼ばれた青年が、落ちついた態度のまま、静かに言う。

 鋭い眼光に、隙のない風貌。戦士然とした旅装束の上からでも分かる、鍛えられた長身。適度に短くした黒髪はラングやカロキアでも珍しくないが――異彩を放つのは、その褐色の肌色であった。

「こう堂々と潜入させて何になる? それに、ラング人と連れ立っているのも妙だろう」

「確かに……不自然過ぎますね」

 エディスの言葉は無愛想なほどの簡素さだったが、座の男たちは慣れているのか、特に気分を害することもなく、同意の空気を示す。

 が、そこに最初とは別の男が心配顔でさらに食い下がった。

「でも、あんな子供二人で旅ってのは妙じゃないですか? そもそも旅人にしても、妙な取り合わせには違いないですし」

「あのくらいなら、旅のできない歳でもない。それに取り合わせのことをいうなら、こちらも十分おかしな集団ということになる」

「あっ……」

 男は短く声をあげ、一同を見回す。

 卓の男たちは、流石に誰もがエディスほどの個性はないにせよ、髪や瞳の色はまちまち、彫りの深い顔に平坦な顔、色々混ざっていそうな顔――と、集団の由来を特定するのが不可能なほどに、特徴がばらばらだった。

 失念していたとばかりに男が呆然としていると、別の男が笑いながらその背を叩いた。

「ま、見た目のことを言うのは『ロラン流じゃない』ってこったな!」

「あ、なんかすいません、馬鹿みたいなこと言って……」

 おろおろする青年を中心に、場が笑いに包まれる中、エディスがまた口を開く。

「まあ、イルベスの言うことも一理ある。少しは気に留めておくべきだろう。それに万一『今夜であるなら』、別の意味で放っておくわけにはいかなくなるのだからな」

「そうっすね」

「分かりました」

 男たちは返事と共に気を引き締めつつも、場の空気を宿に相応しいものに戻していく。

「しっかし、女将さんも人が好すぎるよなあ。いきなり来た子供ほいほい泊めちゃって」

「そこが母ちゃん、って感じでいいんだけどな」

「料理も美味いしな」

 雑談が始まり、やがて誰も例の少年たちのことを口にしなくなった頃、エディスは二人が出て行った扉へ視線を向け、数拍思案する様子を見せるが、それに気付く者はなかった。


 女将に言われるまま体を濯ぎ、譲られた服で夕食を終えた頃には、もう夜も更けていた。

 フォルテが二人分の食器を返しに食堂に出ると、テーブルの客も数が減り、酒を飲みながらの雑談や、何かの打ち合わせをしている。

 心配し過ぎかとも思ったが、一応宿の外を見回してから、自分たちの部屋へと戻った。

 女将からそれとなく引き出した話によると、ここはシャーリーの推測通りカロキアの辺境で、リコという村らしい。

 カロキアは、嘗てラングが今以上に領土拡大に野心を燃やしていた時代、当時の王の立ち回りによって独立を保った、ラング周辺地域では数少ない国のひとつだ。だが現在は政治が弱体化し、友好国という建前の下で、実質属国のような扱いを受けている。

 国土は南北に縦長で、ここは北側にあたる。女将が言うには、ラングへ行くには街道に出て南下し、東の山脈を迂回するのが普通とのことだった。当然ミルザとの交流はなく、およそ安心かと思ったが、用心に越したことはない。

 食事の間、シャーリーとは結局まともな会話はできなかった。それでも落ち着いた様子だから大丈夫だろう――と、何が大丈夫なのか、その根拠すら曖昧なまま思い込もうとしていたフォルテは、部屋に戻り扉を開けた瞬間、その甘えを悔いることとなる。

「シャル……!? 何やってんだ!」

 テーブルの上のランプが仄かに照らす部屋の中の様子を見た瞬間、フォルテは弾かれたように中へ駆け込んだ。そしてベッドに座るシャーリーに飛びつき、手からナイフを奪う。

 魂が抜けたような彼を揺さぶり、顔をこちらに向けた時、もう一方の手に握られていた長く美しい銀の髪が、ばさり、と呆気なく落下し、先に床に散らばるそれの上に重なった。

「……もう……要らないから」

 虚ろな青い瞳をフォルテに重ね、シャーリーは消え入る声で言う。

「私……リンがこの髪、綺麗だって言って、だから……でも、もう…………」

「シャル! しっかりしろ! ……俺がいる! 俺がここにいるから! シャル……!」

 ――一人に、するんじゃなかった。

 浅い呼吸を繰り返し、静かな錯乱に唇を震わせるシャーリーを、フォルテは掻き抱く。

 背に回した手に、腰まで届いた髪の感触はもうなかった。興奮で暴れないかと心配したがその気配はなく、シャーリーは暫くの間苦しげに呼吸を喘がせから、自らそれを落ち着け、深く息を吐く。

「……済まない。もう……大丈夫」

 俯きながらゆっくり身を起こすシャーリーを、フォルテは両腕で支える。

 美しかった髪は肩の上で不揃いに、あまりに無惨に切り取られていた。シャーリーはフォルテから体を離すと、床に散った髪を無造作に踏みつけながら、危うい足取りでテーブルまで進む。

 そして水差しの水をカップに移して飲み、力なく椅子に身を預けて、深く息を吐いた。

「……フォルテ。無事林を抜けたら……話をしようと約束したな」

「ああ……」

 来た――と、フォルテは全身を緊張させた。

「私は……知っての通り、アレニアがラングに講和の証として派遣した人質……だった」

 シャーリーは疲労の色が濃い表情で、僅かな首の動きと視線でフォルテを見る。

「だが……それが先日、必要なくなったらしい。あの人の話によると、アレニアはここ最近、ラングの辺境で挑発や戦闘活動を行っているらしい。理由は分からない。だが結果として講和は無効……私も、処分されることになったそうだ」

 諦観めいて告げられた言葉に、全身の血がゆっくりと凍る。

 確か兄もそんなことを言っていた。だが『処分』の対象そのものであるシャーリーの口から出る説明は、あまりに重く、痛ましい。

 露骨に感情を顔を出してしまったフォルテに、シャーリーは寂しげに睫を伏せ、続ける。

「フォルテ。だから私には、もう帰るところはない。だがお前は違う。……兄上の元に戻れ。お前は実の弟なのだし、ちゃんと話をすれば、きっと分かってくれる。……もし」

 そこで最後の気丈を保っていた声色が揺らぎ――次に発された言葉は、半ば捨て鉢な気配を帯びていた。

「……必要なら。私の首でも取って持ち帰り、赦しを求めれば――」

「なっ――……!」

 体中の血が一気に沸騰した。フォルテはシャーリーに詰め寄り、両肩を鷲掴みにする。

「ばっ……何言ってんだ! あんな馬鹿野郎に求める赦しなんかあるか!」

「お前がそう思ったとしても……あの人は間違ったことはしていない。帝国の軍人として、国を守ることこそが、一番の……」

「じゃあ、じゃあお前の……家族のことは守らなくていいっていうのか!」

 叩きつけた言葉に、シャーリーの表情がはっきりと悲しげに震えた。

 零れ出た彼の本心にフォルテは耐えられず、指に力を篭め、さらに言葉を重ねる。

「シャル……悲しいこと言うな。自分を諦めるな。……生きよう。生きて何か、方法を探そう。お前と俺が一緒に生きられる道が、絶対あるはずだから」

「フォルテ……」

「俺が絶対、お前を守るから……シャル」

 堪らない思いのまま、フォルテはシャーリーの体を引き寄せ、抱きしめようとする。

 だがその腕の中に囲われようとする直前、シャーリーは両手をフォルテの肩口に置き、そっと、だが確かな強さを篭めて、それを押し止めた。焦れた思いで見ると、シャーリーはフォルテから視線を外して俯き、頑なに思い詰めた表情で首を左右に振る。

 それが酷く悲しく、フォルテは強引に言い募ることができなくなって小さく呻くと、湧き上がる感情を抑え、かぶりを振って、ぎりぎりのところで冷静さを保ち、言った。

「……今日は、休もう。お互い疲れてる。よく眠って……明日になってから考えよう」

「…………」

 シャーリーはフォルテを見ずに小さく頷き、そっと立ち上がって背を向ける。

 その後ろ姿に、フォルテは低く重い声で、きっぱりと言葉を投げつけた。

「夜のうちに妙な気起こすなよ。お前に万一があったら――俺も生きてないからな」

 ――酷いとは思ったが、このくらい言わなければ、多分この頑固者は聞かない。

 シャーリーはぴくりと身じろぎした後、振り返り、力のない瞳をフォルテに向けた。

 そしてのろのろとテーブルのカップを手に取り、水を飲み干して、深い溜息を吐く。

「……どちらが、ベッドを使う」

「お前でいい。俺、もう少し地図でも見てる」

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