第三章 黒き刃 薄明の希望 1

 目が覚めた時、フォルテの視界に入ったのは、木々の枝葉の隙間から零れる光だった。

 耳に届くのは微かな葉擦れの音と、緩やかな川の水音。そして――すぐそばで歌う、柔らかな歌声。

 声のする方に、ことりと首を傾ける。と、仰向けに倒れ臥す自分の隣にシャーリーが座っていて、目を伏せ、穏やかな表情で、歌を歌っていた。

 ――だから、これは夢なのではないかと思った。

 まだ頭が朦朧としているが、意識が戻る前に何があったのかは思い出せる。あんな目にあった後で、シャーリーがこんなに優しい顔で、歌など歌っているはずがない。

 それでも歌っているとしたら――一体何の、誰のためだというのだ。

 胸に迫り上がる痛みのまま、フォルテはシャーリーに手を伸ばそうとする。

 が、腕に力が入らないどころか、指の一本も動かせない。しかし全身を覆う怠さは嫌なものではなく、何か暖かなものに体の痛みや疲れが解かれ、地面に溶けていくような心地よさがあった。――まるで、シャーリーの歌を子守歌にして、眠りに落ちていくように。

 とても大きなものに抱かれるような安心感に身を委ね、フォルテはそっと睫を伏せる。

 ――今は、眠ろう。

 再び目が覚め、歩き出さねばならなくなった時に、シャーリーを守るために。


「……お前、死にかけていたんだぞ」

 そうして再度――さっきのが夢でなければ――目覚めたフォルテが相対したのは、シャーリーの泣き出しそうな顰め面だった。

「私を川から陸に押し上げた後、そのまま流れていきそうになって。必死に引き上げて、なんとか体力を戻したが……。全く、本当にっ……あんな無茶、するから…………」

 言いながら声を詰まらせ、シャーリーは川辺の草地に座り込んだまま、顔を俯ける。

 確かに、そんなことになった覚えはある。水に沈みかけた辺りから後の記憶は曖昧だが、どうやら本当にまずい状況だったらしい。

「ごめん……。あの、でもさ。「体力を戻した」ってのは……?」

「ああ……。簡単に言うと、所謂『霊場(パワースポット)』を即席で作ったんだ」

 シャーリーは軽く目尻に触れてから、そっと顔を上げてフォルテに向き直る。

「こういう人の手が入っていない自然の場所は、土地の生命力が強い。その流れをここに集めて、留まるだけで体力が回復するような場所を作った。……気付いていないだろうが、私たちは一晩の間、ここで過ごしたんだ」

「えっ!?」

 まさか、こんな屋外の何もない草地で、無防備に眠ってしまったというのか。

 思わず青ざめるが、シャーリーは全く動じずに淡々と続ける。

「大丈夫だ。土地の力に守られていたから。とはいえ、即興の霊場は一晩が限界だ。あまり長時間放っておくと、土地がおかしくなってしまう。……もう、体は大丈夫か?」

「あ、ああ……」

 フォルテの返事を待ち、シャーリーは地面に手を触れる。

 そして数節の旋律をそっと歌いあげてから、静かに離した。その直後から、辺りの気配の流れが変わった――ような気がする。

「お前には……話さねばならないことが、沢山あるんだろうな」

 呆然と辺りを見回すフォルテに、シャーリーは俯き、呟くように言う。

「だが、まずはここを出よう。安全な場所に行って……その時まで待って欲しい」

「分かった……」

 訊きたいこと、言いたいことは色々あるが、それが優先だろう。

 フォルテが頷いたのを合図に、二人は重い動きで、自分たちの装備を確かめ始めた。

 服装が野外活動向きの軽装なのは幸いしたが、シャーリーの服は襟周りが引き裂け、鎖骨の辺りまでが露わになっている。

 冷静な頭でそれを認識し、痛々しさに顔を顰めたフォルテだったが、そこで改めて首飾りの不在と『あること』を意識し、目を見張った。

「シャル……? それ、あの首飾りの? 痛くないのか?」

「何が?」

 シャーリーは意味が分からないといった顔で、気遣う表情のフォルテに瞬きする。

 それでフォルテは、シャーリーが全くそれに気づいていないことを悟り、暫く言葉に詰まった後、躊躇いがちに事実を告げた。

「首……痣ができてる。首飾りの形に」

「えっ……?」

 シャーリーは固い表情で首に触れ――指先に得ただろう感触に顔色を失う。

 それを見た直後、フォルテは弾かれたように身を乗り出し、言い補った。

「あ、でもほら! 服着ちまえば目立たない場所だし!」

 だが本当は、その痣跡は決して軽く流せる低度のものではなかった。白い肌にはっきりと、首に巻き付いて黄褐色に浮き上がるそれは、肌の引き攣りも伴い、あまりに痛々しい。

 何か隠すものは、とフォルテは焦るが、シャーリーはそんな姿を見ると、表情の固さを消し、軽い吐息で笑って、フォルテ、と落ち着いた声色で呼びかけた。

「分かった。後でどうにか隠そう。痛みはないし、触れる限り傷もない。大丈夫だ」

「……ごめん……」

「どうしてお前が謝る?」

 逆に気遣われてしまい、自分の不甲斐なさに後悔が巻き起こる。

 だがそんな思いに浸っている時ではない。フォルテは気を取り直し、身繕いを再開した。

 別邸を出た時持ち出した装備品の鞄は、運良くベルトに括ったまま残っていた。濡れたであろう中身を確認しようと、フォルテは腰に手を回し――、

 そこで最大の異常に気付き、凍り付いた。

「……フォルテ?」

 シャーリーが怪訝に問う。が、彼もまた、フォルテの触れた場所を見て硬直した。

 ――それは、鞄と同じくベルトに括られた、剣の鞘。

 そこにあった剣は、リンとの戦いで失われたはずだった。――それが。

「ちょっと待て……なんで、ここに剣があるんだ……?」

 愕然としたシャーリーの言葉は、そのままフォルテの気持ちを代弁していた。

 ……腰の鞘に、いつの間にか剣が戻っている。

 自分の目と頭を疑いながら、フォルテは鞘をベルトから外し、剣を抜いてみる。それは確かに、滑らかな黒い刀身の長剣。あまりに当たり前に収まっていたから、二人とも意識できなかったのだ。

 どういうことか。まさか泳いでいる間に、剣が勝手に鞘に戻ったとでもいうのか。

 そんなことがあるとすれば――それこそ魔法じゃないか。

 呆然としたまま、フォルテは剣を握り直す。数度刀身を翻して眺めてみるが、結局剣自体に目に見える異常はなく、諦めて鞘に戻した。

「大丈夫か……? それ、持っていくのか?」

「まあ……他に武器もないし。それに、戻ってきた理由は分からないけど、多分あの時の剣には違いないと思うし……」

「えっ……? どうして?」

「この剣、何か不思議な感じがするんだ。俺が持っているのが自然っていうか……。ただの勘みたいなものだけど。……あっ、いや。でも大丈夫だよ、多分」

 かなり不安げな様子のシャーリーに気付き、フォルテは慌てて明るい顔を作った。

「うちから持ってきたものには違いないんだし。それにこれ、剣としてはすごくいいものだ。重さも重心も丁度いいし、何かあっても十分戦えそうだよ」

「そうか。……じゃあ、ここから出るまで、それで守って貰おうかな」

 そっと笑って告げられた言葉に、フォルテは返事に詰まった。

 ――ここから出たら、その後は守ってはいけないのかと。


 そうして二人は、林を抜けるために歩き出した。

 ろくな準備もなく、ままならないことも多かったが、かなり下流に流されていたことも幸いし、日が落ちる前には麓の開けた土地に出ることができた。

 そこにはシャーリーの持つ『魔法』としか言いようのない力が果たした役割も大きい。

 彼が時々口ずさむ歌には、方向を察知したり、いるか分からないが猛獣の類の接近を防いだりと、不思議な意味が籠もっていたらしい。

 だからフォルテは特に剣を振るう機会もなく、シャーリーと歩いていただけだったのだが、歩く間の空気は決して心地良いものではなかった。二人の間の空気は重く、ちょっとした道の相談以外、ほとんど会話が続かない。

 本当は話すべきことはたくさんあった。だがシャーリーの言葉を、思いを聞くことが怖くて、今はその時ではないと――そんな逃避めいた判断に逃げ、口を開くことができない。

 だから道程の末に林の外が見え始めた時、フォルテは安堵すると同時に、一歩毎に深まる暗澹とした思いに、足取りを重くしていた。

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