第二章 夏の日の流転 4

 辺りの空気を遍く震わせ、硬質な金属音が響き渡る。

 その直前。不意に耳に飛び込んできた地を蹴り駆ける音と、全身に響いた強烈な気配に顔を上げたシャーリーは、そこに全く予期せぬ闖入者の姿を見ていた。

 ――それは、迸る激情に顔を歪めきった、フォルテの姿。

 彼は一気に間合いを詰めると、兄と相似の黒い刃を持つ剣を振るい、リンに襲いかかる。

 だが弟の絶叫を聞いたリンはほんの僅かな動きで身を翻すと、その剣で軽く背後からの一撃を受け流し――それが、たった今響いた金属音の正体だった。

「全く、我が弟ながら驚愕だな。一体どれだけの間迷子になっていた?」

「うるせぇ――ッ!」

 涼やかな兄の言葉に、フォルテは剣で打ち掛かりながら激昂の叫びをあげる。

「シャルに何した……何があったんだ!」

「それが分からないほどの馬鹿でなくて安心したよ」

 数度刃を打ち合い、リンは呟きを挟んだ直後、刃の角度と加える力の質を変え、フォルテの攻撃を捌くと同時に体勢を崩させる。危ういところでフォルテが踏み止まると、リンは弟に爪先を向け、いつでも剣を振るえる体勢のまま、淡泊な視線を投げた。

「あんた、シャルに何した……」

 フォルテは顔に怒りと、同じくらいの当惑を滲ませ、リンを睨み付ける。

「湖に行ってんじゃなかったのかよ。何でシャルは……こんな所で泣いてんだよ!」

「見て分からないか。私は、シャーリーを殺そうとしていた」

「なっ……なんだよ、それ!」

 淡泊な言葉に、フォルテと、再度その傷口を突かれたシャーリーが同時に顔色を変える。

「もう少し早く来れば説明が聞けたんだぞ?」

 只事でなく顔を強張らせるフォルテと対照的に、リンは小さく肩を竦めた。

「帝国の指令だ。アレニアが裏切り、人質が必要なくなった。それで十分か?」

「は!? う、嘘だろ……!」

「嘘や冗談でこんなことをすると思うか?」

「け……けど兄上! もしそうだとして、だからってあんたがシャルを殺すなんて……!」

「私は帝国の軍人。おかしくはないだろう」

「おかしいよ! シャルはうちの家族だろ!? あんただってシャルを守るって……!」

「残念だが家族じゃない。ただの預り物。……ああ、昨日そんな話をしなかったか?」

「ッ――!」

 軽く言い放たれた言葉に、フォルテは顔を激しい嫌悪に歪ませる。

 次の瞬間、彼は強く地を蹴りリンへ向かって飛び出していた。

 リンはその姿をまっすぐ見据えてから、軽く剣を擡げ、間合いから打ち掛かったフォルテの剣を――文字通り打ち返す。

 衝撃をなんとか踏み堪え、再度剣を振るうフォルテの顔には焦りがあった。

 その理由は、一瞬の攻防を見ていたシャーリーにも理解できた。――リンの一撃が、それまでとは比べようもないほど重くなっているのだ。

フォルテは必死に攻めるが、リンは弟の斬撃の全てを払い、薙ぎ、冷徹な表情のまま捌いていく。フォルテの動き自体は、これまでシャーリーが見てきたどの瞬間より良い。だがリンとの間には、それでも埋まらない差があった。

 大きく仕掛けた一撃を叩いて払われ、フォルテが再度バランスを崩しかけた時、リンはそこから攻撃に転じた。

 弟たちでは追いつかない速さで剣を翻し――フォルテの胴体を狙い、一撃を薙ぐ。

「えっ……!?」

 シャーリーは目を疑い、短い悲鳴をあげる。

 辛うじて攻撃を受け止めたフォルテも、動揺に目を剥いていた。

 ――当たったら、ただでは済まない攻撃だった。

 まさかリンは、フォルテまで死なせるつもりなのか――!?

 総毛立つシャーリーをよそに、リンはフォルテの剣に刃を滑らせ振り翳すと、さらに斬撃を加える。容赦ない攻撃を辛うじてフォルテは捌き続けたが、反撃の機会を見出せないまま、後退だけを強いられていた。

「フォル――……」

 シャーリーは咄嗟に名を呼ぼうとして――声を引き攣らせる。

 嗚咽に枯れた喉が、まともな声を発せなくなっていた。喉の痛みに手を首に触れて――その瞬間、彼はこの時初めて、ある事実を明確に意識して息を飲んだ。

 ――首輪が、ない。

「ぐっ――!」

 直後、とうとうフォルテはリンに剣を弾かれ、バランスを崩して地面に転がった。

「フォルテ……!」

 喉の痛みを忘れ、シャーリーは叫ぶ。フォルテが倒れ臥すのはそう遠くない場所だった。必死の思いで這い行き、手の届く距離まで来た時、突然目の前に刃が突き立てられる。

 弾かれたように見上げると、そこにはこちらを見下ろすリンの冷たい顔。

 彼は利き手にも剣を持ち、つまり突き立てた剣はフォルテが落としたものなのだろう。愕然とするシャーリーの前で、リンは利き手の剣を、蹲り喘ぐフォルテに突きつける。

 ――まさか、本当に殺すのか。

 そんな馬鹿な、フォルテは関係ない。だが幾らそう思っても、事実目の前のリンは弟に剣先を向けている。

 混乱に絡め取られるシャーリーの前で、フォルテが喘ぎつつ、苦しげに顔を上げた。

 彼はシャーリーを一瞥すると、兄を睨み上げ、傍らに突き立てられた剣の柄を掴む。

 しかし、引き抜くことが叶わない。余程深く刺さっているのか、それ以上にフォルテの消耗が激しいのか。彼が幾度力を篭めても、剣はその手に応えない。

 その姿を冷淡に見届けると、リンは目を眇め、黒い剣の切っ先をシャーリーに見せつけるかのように、フォルテの前で軽く翻した。

 ――駄目だ。

 このままではフォルテが殺される。……もう、それを誰がしようとしているとか、どんな理由があったとか、それすら考えられない。ただ彼が殺されかかっているという事実――それだけがシャーリーの心を支配し、掻き乱す。

 そしてその衝動は、シャーリーを、今だからこそ叶うたった一つの行動に走らせた。

 迷う暇も、そんな感情を抱く心の余裕も、ない。

 シャーリーは裸の首に泥だらけの指を添え、鋭く息を吸い、止めて――、

 そうして、その力を解き放った。


「えっ……!?」

 万事休す。そう思いかけていたフォルテは、この時の『異常』に文字通り目を剥いた。

 ――朗、と響き渡った『声』が、鼓膜を、そして全身を打つ。

 発生源はすぐに分かった。フォルテは傍らのシャーリーを見る。シャーリーは地に跪き、先程までの自分と同様、食らいつくようにリンを見上げていた。

 その一瞬の直後、今度はフォルテの目の前で、シャーリーはまた口を開く。

 朗々と、辺りの全てを震わせ淀みなく紡ぎ出されるのは、馴染みのない言葉。

 いや、言葉というよりは――『歌』。語り言葉より遥かに豊かな音節に彩られ、編み上げられていくそれは、歌と表現するのが最も相応しい。

 だがそれは、決してただの歌ではなかった。

 シャーリーの唇が動き、一音、一音節が発される度に、大地が鳴動する。

 それはまるで、世界が巨大な鼓の音に共鳴しているかのように。大気が震え、林が鳴る。

 ――全ては、シャーリーの『声』に呼応して。

「わっ!」

 発声に同調し、一際大きな地響きが起いて、地面に突き刺さっていた剣が引き抜けた。

 剣を握って尻餅を突いたフォルテの視界の端に、黒い刃が閃く。まずい――そう思いながら刃の軌道を振り仰いだ直後、さらに目を疑う出来事が起こった。

 また朗とした声が響き、視界の中に、下から土砂が噴き上がる。

「くっ……!」

 短い呻きはリンのものだった。土砂は彼の刃を襲い、軌道を完全に狂わせた。

 それでも彼は勢いを振り流し、返す刃で再度襲いかかるが、シャーリーの声を合図に再び地面から噴き上がった土砂が、それを阻む。

 状況に頭が追いつかず、混乱しかけた時、横からシャーリーが叫んだ。

「フォルテ! 立て!」

 彼の声は先程までの玲瓏と響く歌声と違い、喉を痛めたように枯れている。

 だがフォルテは、とにかくその言葉で我に返った。体勢を立て直し、リンが牽制の斬撃をシャーリーに土砂で防がせ、その合間から攻撃を仕掛けようとした隙を狙って、空いた手で足元に溜まった土塊を掴み、リンの顔めがけて投げつけた。

 剣の軌道がぶれ、彼の気を散らすことには成功したが、それで優勢に立てる相手でないことはフォルテが一番よく分かっている。

 しかしとにかく稼げたその一瞬に、フォルテはシャーリーの腕を掴んで立ち上がった。

 そして刃の間合いから離れ、走る。

 シャーリーは立ち上がった直後こそ足を縺れさせたが、走れないような怪我をしているわけではなさそうだった。寧ろフォルテは彼が自分の手に逆らわなかったことの方に、駆け出してから思い至って安堵する。

 走りながら、追い詰められた頭で、とにかく次の行動を考える。とはいえ何がなんだか分からない上に、あの兄を自分の実力でどうにかできるはずがない。なら今は逃げるしかない。幸い彼の武器は長剣一本。距離さえ稼げば攻撃されることは――、

「フォルテ、止まれ!」

 だがそんな思考は、悲鳴のようなシャーリーの大声で中断させられた。

 ――そして、それ以上続ける必要もなかった。

「えっ、うわっ……!」

 命じられるまま反射的に足を止めたフォルテは、背後から押し倒されて地面に転がった。 その直後、頭の上を強烈な突風が吹き去るのを感じる。

 それからすぐに顔を正面に向け、フォルテは目の前のあり得ない光景に愕然とした。

 ――前の小径の、左右の木立が崩れ落ちてくる。

 めきめきと枝の割れる音と共に、高い位置から大振りの枝が――いや、木々の上半分が折れ曲がり、落下してくる。

 肌が粟立つ。二人は後ろに飛び退き崩落に巻き込まれることは免れたが、目の前の道は落下した枝葉で完全に塞がれた。後ろを振り返ると、丁度兄が剣を振り抜いた体勢から再度薙ぎ、手元に戻したところだったが……。

「おい……何だよ、あの剣……」

 フォルテは色のない声で呟く。兄の、そしてどういうわけか自分の剣が漆黒であるのは、先程の打ち合いで理解していたが――今兄の剣はそれだけでなく、刀身に黒い煙や水流に似た渦を纏わせている。

「あれじゃ、まるで魔法……――あっ!」

 口にした直後、その言葉に絡む最近の記憶が繋がり、全身に震えが走った。

 脳裏に浮かんだのは昨夜の光景。机の上に転がる石と、それを触れていた、一本の剣。

 他に考えられない。兄が振るうのは昨日の剣。彼はそこから溜めた魔力とやらを放ち、魔法で自分たちの行く手を塞いだのだ。

 つまり今、兄の攻撃の間合いは恐ろしく広い。

 勿論魔法だって万能ではないだろう。だが、それと全く無縁の暮らしを送ってきたフォルテには、兄の剣にどれだけの力があるのか、どう対処していいのか、想像もつかない。

 頭が真っ白になりかけた時、シャーリーがフォルテの横から、一歩前に踏み出した。

「フォルテ、左に獣道がある。そちらに逃げ込め」

「えっ……」

 険しいシャーリーの横顔から視線を移すと、確かに木立の間に細い道があった。見える限りでは、近くで行き止まってはいない。

「私が牽制する間に行け。すぐに追うから」

「けど……!」

「必ず行く! 私は、絶対にお前を死なせない!」

 凜とした叫びに気圧され、フォルテは言い返す言葉を失う。

 こんな時まで、俺は頼りない弟のままなのか――。

 だがそんな感傷に浸る余裕はなかった。次の瞬間、フォルテは地を蹴って獣道に飛び込み、シャーリーは再度『歌』を放つ。訓練を経て研ぎ澄まされた感覚は、理屈を超えたところで二人の身体を動かすに至った。その直後彼らのいた場所はリンの攻撃――剣撃による風の刃に襲われ、シャーリーが身を庇うために盛り上げた土壁は、彼一人の身体を隠し守るのに精一杯の幅しか間に合わなかった。

 シャーリーはそれだけで自分の手番を終わらせず、刃の衝突で削られる土壁の後ろで、複数の言葉からなる一節を滑らかに歌いあげると、最後の単語と共に両手で地を打つ。

 すると左右の地面の土塊が盛り上がり、幾つもの槍となって正面へ撃ち出された。

 その射撃の結果を見ないまま、シャーリーは土壁が完全に崩れ去る直前に獣道へ飛び込む。すぐ近くで待っていたフォルテは彼の姿を認めると、手を掴んで走り出した。

 シャーリーの表情が引き裂かれるような苦渋で満ちていたことも、その理由も、勿論分かっていた。だから振り返らずに走る。……恐らく一撃もまともに狙えなかったであろうシャーリーの攻撃を捌き、すぐに追ってくるであろう兄から逃げるために。

 獣道は暫く続いたが、やがて前方に出口らしい開けた土地が見えてきた。

 突き出した枝を避け、木の根を跳び越え、ようやくそこへと辿り着いた二人は――、

 ただ、絶句した。

「嘘……だろ……」

 そこは、切り立った崖の先。

 向こう岸は見えるが到底跳んで渡れる距離でなく、来た方以外に道はない。確かに、走りながら登っていく感覚はあったが、まさかこんなところに出てしまうとは。

 それでも周囲に別の獣道でもないかと思い至るが――そこで時間切れだった。

「あ……あぁ…………!」

 先に後ろを振り向いたシャーリーが、絶望の声をあげる。

 ……もう、確かめるまでもない。フォルテは抜き身の剣を握り直し、息を止める。

 枝葉を踏む音、そして空気の流れを読み、一瞬の後――振り返りざまに剣を振り薙ぎ、襲いかかった剣撃を受け止めた。

 そのまま刃を払い、続けて幾度も打ち合う。

 翻り舞う剣の向こう、見上げた先の顔は全く涼しいままで、もう全てが悪い冗談にしか思えなかった。身を躱し、足を捌きながら、フォルテは徐々に崖側に追い詰められていく。

「まっ……たく、やってられ……ねえよな、この野郎っ――……!」

 鍔迫り合いとなった格好から、フォルテは力を篭め、リンの刃を押し退ける。

 それが存外簡単に叶って虚を突かれた直後、リンの黒剣の刀身に、消えていた黒い靄が再度渦を巻いた。

 思わず顔が引き攣る。魔法の知識が全くない身では、それは未知の恐怖以外の何でもなかった。――だが、どうしてもここで怯むわけにはいかない。

 自分の傍らには、守らねばならない相手がいる。

「っ……く……ぁああぁああああぁあああ!!」

 咆吼と共に、フォルテは一旦離した刃を、再びリンの刃へ叩きつける。

 それはリンにとっても意外だったようで、鍔迫り合いに持ち込む直前に、黒い刃は霧散していた。だが彼は冷静に目を眇め、刃の角度を変え、また弟の剣を払い退けようとする。

 しかしフォルテも負けられなかった。続く力の駆け引きを経て生まれた隙をつき、一気に主導権を奪い取る。そのままリンの剣を絡め取ろうとするが――兄もまた、そこで弟の意図に甘んじる程度の使い手ではなかった。彼は同じ方向に自分の力も乗せ、フォルテの思惑以上に加速させてしまい――結果、二人の剣は宙を舞った。

「あっ……!」

 フォルテは思わず叫び、剣の跳ね上がった方を見る。

 一瞬逆光に目が眩むものの、二本の剣は陽光を浴びて黒い影となり、一つが崖下へ飛び出していく。そして、その瞬間の動揺が、直後の結果を分けてしまった。

 フォルテがつい落下した剣を目で追ってしまい、はっと振り返った時には、既にリンは地に刺さった残りの剣に手をかけ、造作なく引き抜いた後だった。

 ――この場にはもう、武器はそれしかなかった。

 凍り付くフォルテを見据え、崖に追い詰めながら、リンは一歩ずつ歩み出す。

 何もできず後退りしかけた時、不意に、フォルテの前に人影が割って入った。

 毅然とリンを見上げるそれは――当然、シャーリーでしかなかった。

「リン。私の命を、貴方にあげます」

「シャル!?」

「だから、フォルテを貴方の元に帰らせてください。……彼は貴方の弟。貴方が刃を向けるべき相手ではない。これからのフォルツァートにとっても、彼は必要な人間のはずです」

「お前、何言って……!」

「いいから!」

 叫びかけたフォルテに、シャーリーは振り返らずに声を叩き付ける。

 そうしてからそっと振り向けた顔は、酷く寂しげな、今にも崩れ落ちそうな微笑だった。

「最初から……これ以外になかったんだよ。フォルテ」

「え……」

「迷惑をかけて済まない。そして、庇ってくれてありがとう。……リンを恨むな。お前の兄上はラングの軍人として、何一つ間違ったことはしていないんだ」

「そん……な、違う……絶対違う……!」

 ――間違っていないはずがない。

 唇を震わせるフォルテに、しかしシャーリーは緩く顔を横に振る。

「そんな顔をするな。全てが元に……私がいなかった頃に戻るだけだ。だから忘れろ。……ごめんな、フォルテ。私に出会わなければ……。お前は何も知らず、関係のないまま……。幸せでいられたのにな」

「なっ……!」

 囁くような、全てを諦めたシャーリーの言葉は、フォルテの心を完璧に打ち据えた。

 顔を歪ませるフォルテを、シャーリーはもう視界にすら入れず、言葉を告げた後はただ黙って前へと向き直る。

 余韻を残し、揺れる銀髪。その後ろ姿を前にフォルテの中に湧き上がったのは、全身を覆う失望すら飲み込む、煮え滾る怒りだった。

 ――幸せな……わけがない。

 関係ないはずがない。そうしてお前は兄貴面して、俺を置いていくのか。

 俺を『何も知らない弟』のままにして――一人で死ぬつもりか。

 一度手詰まりと硬直させた頭を内側から殴りつけ、フォルテは激情のまま思考を疾走させる。答えはすぐに見つかった。シャーリーを救い、そして自分も助かるための方策。さっき見たもの、そして自分の知ることを合わせれば――それが唯一の可能性。

 フォルテは再び眼前に意識を戻す。思案の時間は、実際はほんの一瞬だった。

 シャーリーの髪がいまだ所作の余韻に揺れているうちに、フォルテはその腕を掴み、強引に自分のそばへと引き寄せる。

「シャル。まだ終わりじゃない」

 驚き、振り返って目を丸くするシャーリーをまっすぐ見据え、フォルテは鋭く囁く。

「俺は……絶対にお前を死なせない!」

 そしてその体を抱き寄せると、半ば無理矢理引き摺るようにして、ほんの数歩後ろに駆け、地を蹴って――、

 崖の下へと、共に身を躍らせた。


 休暇の前、シャーリーに揶揄されたのが悔しくて、地図は何度も見直していた。

 高台にあるフォルツァートの別邸から、さらに登った先には崖になっている箇所があり、その下には麓の土地の水源となる、深く広い川が流れている。

 地図に弱いフォルテは、方角や正確な距離までは把握できず「そんなものがある」という程度にしか認識できなかったのだが、一方で「いつかここで泳がされたら嫌だ」という感想を持ったことで、その存在だけはしっかり頭に残った。

 だからフォルテは、落ちた剣を追って崖下を覗いた時に見た、鬱蒼とした岸壁の木々の下に流れる急流こそが、地図で見た川だと思い出すことができたのだ。

 それでも、この行動は賭けだった。天候次第で変わるだろう川の深さが人の飛び込みに足るものでなければ命はないし、急流を泳ぎ切れなければ結局溺れ死ぬ。

 数秒もないはずの着水までの時間が、恐ろしく長く感じられた。フォルテは腕の中で身を強張らせるシャーリーを、強く庇い抱く。――せめて、自分の身体が先に着水すれば、衝撃が和らぐだろう。そうすればシャーリーが助かる可能性は、きっと上がる。

『絶対にシャーリーを守る』。それはフォルテにとって譲れない意地であり、決意でもあり――また祈りでもあった。

 その思いを握り締めたまま、フォルテは掻き抱いたシャーリーと共に、水面へ吸い込まれる。

 着水の痕跡は急流の飛沫に紛れ、一瞬もなく消え去った。

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