第二章 夏の日の流転 3

「……へ?」

 館中を歩き回った後、フォルテは人の気配のない大広間で、一人間の抜けた声をあげた。

 ……誰も、いない。

 目が覚めた時、ベッドにシャーリーがいなかった。先に厨房に入ったのかと思って向かうが、そこにも姿がない。しかも兄の姿までもが揃って館から消えている。

 呆然と視線を巡らせ、ふとフォルテは、壁に据えられた大時計に目を留めた。

「あ……え? ちょ、……こんな時間かよ!」

 思わず大声が出た。時計は毎朝起きる時間の、丁度二時間後を指している。

 確かに起きた時、窓から差す日の光がいつもと違うと思っていたが……。

(まさか、本当に置いていかれた!?)

 混乱する頭に、昨夜の兄との会話が蘇り、衝撃が走る。

(いや、いくらなんでも普通起こすだろ。それに俺が道に迷うの二人とも知ってるくせに、置いていくわけが……。あっ)

 ――違う。だからこそだ。

(あいつ……俺が一人で着けるか、試そうっていうのか!? シャルもあいつに言われれば、絶対協力する!)

「くっそ、嘘だろっ……!」

 苛立ちのまま叫び、フォルテは寝室に駆け戻ると、服を直して身支度を始めた。そしてテーブルの装備一式を、もう再確認する暇も惜しんで、手癖に任せて身につける。

 最後に鞘に入った長剣を腰に括り、厨房に向かって汲んであった水で顔を洗うと、ご丁寧に食間に用意してあった軽食を腹を立てつつ口に突っ込み、水差しの水を飲み干して、フォルテは早足で館の入り口から外に出た。

 湖には毎年行っているし、散々地図も見た。確か魚取りの網を仕掛けた川を上流に向かって辿り、暫く行った先のはずだ。林の小径に飛び込み、フォルテは走る。

 焦って支度をしたせいか、括った剣の収まりが普段より悪い。微妙なベルトの噛み合わせの悪さを手で押さえて黙らせつつも、川までは迷わず出られた。随分大きな魚が罠にかかっているのが見えたが、今はそのままにしておくしかない。

 湖はこの先だが、確か川沿いの道は、やがて藪に入り途切れてしまう。だが多少川を離れても道なりに行けば、それで着けたはずだ。方向感覚はシャーリーの方が優れるからと、つい任せがちにしていたのが悔やまれる。

 周囲に意識を集中し、方向を見定めると、フォルテは意を決して再度走り出した。


「どうしました? リン」

 隣を歩くリンの頬がぴくりと不自然に動いたのに気付き、シャーリーは尋ねた。

 その横顔は僅かに緊張して見えたが、彼はすぐいつもの笑顔で振り返り、応じる。

「……いや、別に何もないよ?」

「そうですか……」

 ほんの少しといえ妙だったが、リンは特に何も言わず、腰の剣の鍔など指で撫でている。

 だからシャーリーもそれ以上は追求せずに、痒みでも感じたのだろうと結論づけて、改めて前の景色へと向き直った。

 青々とした葉をつけた木々の並ぶ、夏の林。空気は涼やかで心地良く、出発した時より大分高くなった日の光は、木立の間から柔らかく降り注ぎ、辺りを照らしている。

「確か、湖まではもう少しでしたね」

「ああ、よく覚えているじゃないか」

「まあその……フォルテと一緒の時は、私が地図を見る係ですから」

「あいつはどうも方角に弱いからなあ……。それだけが心配だ」

 リンは軽い溜息を落とし、呟く。シャーリーは軽く苦笑し、首を横に振った。

「でも、彼には彼の得意分野があります。私も色々と助けられますし……。弟殿は立派に育っておりますよ。フォルツァート卿」

「庇ってくれてありがとう。シャーリー王子殿下」

 冗談めかしたシャーリーの言葉に、リンも軽く笑って答える。

「君がいてくれたことで、あいつも随分成長したよ。君に負けたくないという一心で、勉強も武術も一生懸命やってくれた。……知ってるかい? フォルテの奴、今でも昔と同じように君を守りたいってさ」

「……まあ、知ってます」

 戸惑い混じりに言葉を濁しつつ、シャーリーは視線を泳がせる。

「昔ほどうるさく言わなくなりましたが。でも、まだ私に対し兄分ではいたいようですね」

「弟ができる、って喜んでいたからなあ。だがまあ……今思うと、きっと私が最初に「うちに弟を増やしたいんだけどいい?」とあいつに言ったせいだと思う」

「あ……」

 ――今、長年の疑問が氷解した。

 幼いフォルテは、それで新しい家族は自分にとっても『弟』だと思い込んでしまったのだ。思わず微笑ましい気分になり、シャーリーは表情が綻ぶ。

「でも、実際君の方が大人だからなあ。兄分っていうのは無理があると思うんだけど」

「ええ。だから言ってあげましたよ。せめて貴方くらい立派になってからにしてくれ、と」

「……それは買い被り過ぎだよ、シャル」

「そうでしょうか。ああ、少し空気の匂いが変わりましたね。そろそろ湖が近いのかも……。……リン?」

 数歩行きかけたシャーリーは、立ち止まり、後ろを振り返る。

 ――リンが、その場に足を止めていた。

「どうか……しましたか?」

「……シャル。久々に沢山話せて嬉しかった」

「えっ……?」

 数歩向こうで微笑むリンを前に、シャーリーの胸が奇妙にざわつく。

 そこにあるのはいつも通り穏やかな、自分たちの理想の兄であり、敬愛する人の笑顔。

 なのに――何かそこに、決定的な違和感がある。

 直感的な不安の根拠を探り当てることができずに戸惑うシャーリーの前で、リンは腰の長剣に手をかけ、すらりと抜き払う。

 そして滑らかに光る銀色の切っ先を、まっすぐシャーリーの喉元に向けた。

「……えっ」

 ――頭が、理解を拒む。

「最後に、良い思い出になった」

 甘く、慈しみに満ちた声。だが酷く厳然とした声で言うと――、

 リンは次の瞬間、剣先を鋭く翻した。


「うわっ!」

 とうとう剣の留め具がベルトから外れ、フォルテは慌てて剣を押さえて足を止めた。

 苛立ちに短く息を吐き、乱暴に合わせの部分を掴む。実は、長年使っているこのベルトにはフォルテだけが把握する金具の歪みがあり、噛ませるのにちょっとした要領がいる。だが逆に、しっかり噛ませてしまえば簡単には外れないはずだった。

 昨日ちゃんと噛ませたと思ったが、眠気で間違えたか――と、重なる不運に腹を立てながら留め具を直そうとしたフォルテは、そこで掌に伝わる違和感に動きを止めた。

「……あれ、この剣、俺のじゃない……」

 握った剣を改めて見直し、フォルテは愕然と呟く。

 慌てていて気付かなかった、などと言ったら確実に笑われるような間違い。

 だが自分は、その間違いを冒してしまったらしい。剣は大まかな外観や家の紋章を組み込んだ鞘の意匠こそ似ていたが、柄や鍔の細部は全く違う別物だった。昨夜用意したそのままで置いてあったから、当然自分のものだと思って持ってきてしまったのだが――、

(いや、それはそうなんだけど……)

 フォルテは首を捻る。不思議なことに、はっきりと目でそう認識したというのに、フォルテにはまだその剣が間違いなく自分のものだと感じられて仕方がなかった。

 そもそも日頃剣を使う人間の端くれ、縁もゆかりもない剣なら、流石に重さや感触で分かる。だがこの剣を持ち出したとき、確かに自分はこれを『自分の剣』だと思ったのだ。

 理屈を越えたところにある、感覚や勘としか言いようのないもので。

 怪訝な思いで柄に指を滑らせると、不意に、どくん、と全身に脈動めいた感覚が走る。

 それはフォルテの中に、ある一つの方角を示す、強い引力を呼び覚ました。

「なんだこれ……。湖の方、なのか……?」

 そちらを見てフォルテは呟く。間違いなくそれは、自分の向かう方と一致している。

 わけが分からない。――だが、違和感は不安となり、急き立てるように胸を叩き始める。

 焦燥に駆られつつ、フォルテは向かうべき方向を見定め、再び地を蹴った。


「……あ……」

 喉の奥から、掠れた声が零れる。

 襲った切っ先を間一髪で躱したシャーリーは、膝の力を失い、そのまま地面に頽れた。

 息を乱し、凝然と見上げた先には、無慈悲にこちらを見下ろす一人の男。

「あまり抵抗しない方がいい。余計な怪我をさせてしまう」

 リンは剣を片手に提げたまま、些細な困り事でも得たような顔で、眉を顰めた。

「リン……どうして、……どうして……!!」

 震える喉から声を絞り出し、シャーリーは必死に質す。

 訓練の一環、などと楽天的に考えるには、リンの瞳はあまりに冷めきっていた。

 深い黒曜の瞳は酷薄な光を宿し、無機質にシャーリーを見据えている。

 始末するべき――ただの獲物として。

 混乱と怯えに身を委ねる暇もなく、次の攻撃が襲いかかった。

 横薙ぎに振るわれた切っ先の軌道を、シャーリーは流れに沿って間一髪で逃れる。剣先が掠ったのか、服の肩口が僅かに裂けた。

 考えるより先に、ただ命を繋ぎたい生き物の本能が働き、這うように身を退ける。

 リンに促されるまま連れてこられたため、武器はない。だがあったとして、彼に刃を向けられただろうか。――あまりに慕わしい、世界で一番敬愛する相手に。

「教えてくださいリン、一体どういうことなんです……!」

 シャーリーはリンを見上げ、悲鳴めいた叫びで問う。

 だがリンは何も答えず、代わりに剣を軽く擡げ、両手で柄を強く握り直した。

 ――次の瞬間。リンの持つ剣の刀身が、一瞬で禍々しいほどの漆黒に染め抜かれる。

 それだけでなく、刃からは黒い渦が巻き起こり、竜巻のように刀身に絡み付き始めた。

「えっ……!?」

 思わぬ光景に、シャーリーは愕然と目を見開く。

 だが彼が我に返るのを待たず、リンは一気に間合いを詰め、シャーリーの前で黒い刃を翻し――、

 直後、硬質な音が辺りの空気を震わせた。


 白く滑らかな破片と装飾の宝石が、日の光の中で宙を舞い、叢に落ちる。

 今度こそシャーリーは、頽れたまま声をあげることすらできなかった。

 リンが振るった切っ先は正確にシャーリーの首を捕え――横薙ぎに直撃。

 だがその時、首と胴体を切断から守ったのは、あの白い首輪だった。襟の下のそれが丁度剣の軌道上にあり、刃を受け止めたのだ。

 シャーリーは呆然と、自分の首に触れる。

 そこにはもう首輪はない。刃と触れ合った直後、喉が焼き切れる程の熱を発し、砕け散ってしまった。服の襟元がずたずたに裂けているのは、黒い剣の斬撃のせいなのか、或いは首輪が最後に発した熱のためか。

 ――だがそんなことは、もうシャーリーにとってはどうでも良かった。

「……リ……ン…………」

 乾いた唇から、感情も色も失った、枯れた声が零れ落ちる。

 彼は。……目の前の優しかった人は、本当に自分の首を刎ねようとしたのだ。

 リンは自らの斬撃の結果を認め、表情に何らかの緊張を走らせたように見えたが、決してこうなる以前の優しい顔に戻ることはなかった。彼は渦の消えた漆黒の剣を片手に持ち、確かめるように握り直すと、ただ冷淡な視線をシャーリーに向ける。

「……帝国が、君の処分を決定した」

「――っ!」

 淡然と告げられた内容に、シャーリーは総毛立った。

「三月ほど前だ。ラングの最北の国境付近で、警備隊への挑発行為や、村や砦が襲われる事件が発生した。軍の調査の結果、土地からアレニアの『祈歌(いのりうた)』が使用された痕跡が発見されている。今も引き続き警戒を続けているが……被害の規模からして、小さな反乱組織の犯行ではなく、組織立った計画的なものだと、帝国上層部は考えている。……下手をすれば、アレニア政府すら絡んでいるのではと」

「な……っ」

「勿論慎重論も出た。だがアレニアへの打診にいまだ返事はなく、事態はとうとう辺境警備隊との小競り合いにまで発展している。……ここまで言えば、頭のいい君なら分かるだろう?」

 リンは剣先をシャーリーの顎へと向ける。

「講和は破棄されることになり――君はもう、必要ないと判断された」

「っ……」

「そして、その処分を任されたのが私だ。帝国の人間にとって『アレニアの魔法使い』は脅威。だから必ず殺せと、それが上層部の命令だ。……そうだな、何か質問は?」

「私は……。私はもう、必要ないんですか……?」

 惨めなまでに震えたぼろぼろの声を絞り出し、シャーリーはリンを見上げる。

「……それは今言った通りだ」

「そうじゃなくて……。私は……私はもう、貴方にも……必要ないんですか……?」

 それを口に出した瞬間、シャーリーの心を支えていた全てが崩れ去り、その残骸のような大粒の涙が瞳から溢れ出した。

 吐き気混じりの嗚咽が湧き上がり、耐えきれずに顔を俯ける。

「そばに置いて……頂くことは、……もう叶わない……と…………」

「……それは、困った質問だな」

 視界の外で、リンが小さく呟く。

 その声色には僅かに血が通っていたが――却ってそれは、今のリンが全くの正気で自分を処分しようとしていることを、心底理解させただけだった。

 返答などいらない。こうして剣を向けられ、殺されそうになっていることが全て。

 リンには、自分は必要がない――。

「っ……うぅっ…………」

 俯いたまま、シャーリーは肩を震わせ、嗚咽を繰り返す。

 深い絶望はリンの顔を見上げる勇気どころか、指の一本を動かす力さえも奪った。

 狭い視界の中にあるのは、砕けた首輪の小さな残骸と――僅かに動いた、リンの影。そして直後、彼が小さく溜息をついたような音と、剣を擡げたらしい気配の動きを感じる。

 ――とうとう、殺される。

 そう察し、シャーリーは絶望のまま目を閉じ、身を固くして――、

 だが剣が振るわれたのは、その体にではなかった。


「兄上、――あんた――……ッ!!」

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