第二章 夏の日の流転 2

「あれ……?」

 ――閉めたはずの部屋の扉が、半開きになっている。

 古い館といえ、そこまで建付けが悪かったろうか。怪訝に思いながら、ベッドで寝息をたてるシャーリーを刺激しないよう気遣いつつ、扉に歩み寄る。

 だが閉めようとして、またフォルテの意識は別のことに奪われた。

 扉の隙間から見える先、誰も使っていないはずの部屋から、灯りが漏れている。

 そこは確か、家長の書斎だ。だが寝所の機能はなく、兄も自分の寝室を拠点にしているため、手つかずの部屋――のはずなのだが、その扉が不自然に開いているのだ。

 妙に気になってしまい、フォルテはそっと部屋を抜け出し、書斎の前へ向かった。

 扉の隙間を広げ、中を窺う。室内はフォルテが幼い頃に父が使っていた時と全く同じ佇まいで、調度品も変わらない。懐かしい感覚に捕われてから――中央奥の古びた執務机に座る兄を見た瞬間、不意に亡き父の面影が重なり胸を突かれる。

 どうやら兄は、フォルテが覗いていることに気付いていないようだった。机の上には小型のランタンと、何か色とりどりの宝石のような石が、十かそれ以上、無造作に置かれている。兄はその中の一つを摘み上げると、もう一方の手を机の影にやり、黒い刃の長剣を擡げて、刀身に、こつり、と石を触れた。

 ――と、摘んだ石が淡く輝き、その光が刀身に吸収されていく。

 光景にフォルテは目を見張った。そして動揺のまま、つい扉に強く手をかけ、古い蝶番に音をたてさせてしまう。

「あっ――」

 慌てたのと同時、リンがふっと顔を上げ、こちらを見て穏やかに笑った。その頃には摘んだ石から光は消え、彼はそれを軽く机に放り出す。

「何だ、まだ寝ていなかったのか、フォルテ」

「兄上、それって……」

「ああ。ちょっとした魔法だな。ラングでは珍しいから、驚いただろう」

 リンはフォルテを手招きした。少し気まずくなりつつも、フォルテは机の前まで進む。

「ほら。この石は魔晶石といって、内側に魔法の力を溜めているんだ。で、それをこの剣に移していた。お前もやってみるか?」

「俺にもできるんですか?」

「ああ。この石と剣が勝手にやっていることだ。だから誰でもできる。私でも、お前でも」

 呆気にとられるフォルテを前に、リンは笑い、別の石を摘んで剣に当てる。石はまた光り、その輝きを剣に移していった。

 ――『魔法』というのは、フォルテの知る限り、ラング地方ではあまり一般的ではない。

 ラングは土地の魔力自体が薄いため、魔法に頼らない技術を発展させてきた歴史がある。人々はそれを自負すると共に、魔法に対するやっかみめいた忌避感も抱いていた。

 だから研究する者は少なく、国の一部の機関と、市井の闇の中に存在するのみ――というのが、かつて兄から受けた説明であった。

 二つ目の石も輝きを失い、リンは石と剣を机の上に置くと、そっと立ち上がる。

「温かいものでも飲むか。この辺りは、夏でも夜が涼しい」

「いえ、俺は……」

 机上の見慣れない剣に気を取られていたフォルテが、我に返って遠慮するより先に、リンはテーブルセットの上のポットを手に取り、木のカップに湯気の立つ液体を注いでいた。

「まあ飲め。ミルザの農村に伝わる香草茶だ。よく眠れる」

「ありがとう、ございます……」

 カップを押しつけられ、フォルテは躊躇いつつも口をつける。飲み慣れないが不快ではない、香りの良い液体が喉から胸を温めていった。

 ゆっくり味わってから心地良い溜息を落とし、フォルテはカップをテーブルに置く。

「今日は見事だったな。フォルテ」

「えっ?」

「手合わせだ。最近はあまりしてやれなかったが、随分上達していたな」

「でも……結局兄上には及びませんでした」

「それはそうだ。簡単に及んで貰ったら困る」

「はあ……」

 軽い笑いでさらりと言われ、フォルテは微妙に頬を引き攣らせる。

「だが、お前の年頃にしては大したものだぞ。こう言っては何だが……もうシャルでは相手にならなくなってきただろう。まああの子の場合、お前とは腕力どころか体格からして全然違う。遅かれ早かれ、対等な手合わせなどできなくなっていただろうが」

「それは……」

 ――正直、薄々感じていた。

 アレニア人の特性なのか、シャーリーは運動量の割に体が大きくならず、いまだラング人の少し背が高い女性程度の体格しかない。腕力や体力にしても、既にフォルテとの間に大きな差があった。

 それでも彼は力の不足を戦術で補い、気丈に打ち込んでくるため、稽古ではフォルテが負けることもある。だが絶対的な実力の上ではもう岐路にあると、そんな気はしていた。

 何も言えずにいるフォルテを、リンはしばらくの間静かに見て、再び口を開く。

「フォルテ。お前にひとつ、確かめたいことがある」

「えっ……?」

「お前は、今でも五年前と同じ気持ちか。あの頃と同じに、シャルを守りたいと……そう思っているのか?」

 突然の問いに、フォルテは瞠目し――同時に、兄の真剣な瞳に気付く。

 驚きに胸を突かれるも、それは自分を教え諭す弟ではなく、一人の武人、また人間として見ている瞳だと、すぐに理解した。

 だからフォルテもまた、躊躇う必要もなくきっぱりと答える。

「はい。俺はシャルを守ります。大事な家族として、何があっても」

「人一人守るというのは並大抵ではないぞ? しかもあの子は、実際は血の繋がった家族ではない。他国からの預り物などという事情まで抱えている。それでも尚、お前はあの子を守り抜けると誓えるか?」

「誓えます」

 厳然たる事実を突きつける問いに、フォルテはさらに強く言葉を返した。

「血の繋がりなんて関係ない。あいつは俺にとって、もう絶対に失えない相手なんです。それが奪われるなら、俺は武人として、家族として。シャルを守るために戦います」

 ――五年という年月は、長くも、また短くもあるのだろう。

 それでもこの歳月は、シャーリーをフォルテの大切な存在にするには十分過ぎる程濃密なものだった。家族――或いは、共に過ごした時を分かち合う、対の存在として。

 緊張しながら兄を見上げていると、彼は少し沈黙した後、ふっと慈しむように微笑んだ。

「そうか。……ならいい。その言葉が聞きたかった」

「えっ?」

 フォルテは怪訝な声をあげる。だがリンは肩の力を抜き、息を漏らして笑った。

「いや、お前最近、昔ほどそれを言わなくなっただろう? まあ私が聞いていないだけかも知れないが。だからちょっと吹っ掛けてみただけなんだが……。安心したよ。我が弟は今だ少年の純粋な心で、初志を貫徹しようとしているのだな。いやあ感心感心」

「なっ! え、ちょっ……! あ、兄上、あんたっ……!」

 態とらしい笑顔で頷く兄に、フォルテは顔を一気に赤くする。

「からかったんですかっ! ひ、人が真面目に答えたって言うのに、あんた最初から俺のこと馬鹿にするつもりで……!」

「いや、からかってないよ。馬鹿にもしてない。ただ、本当に確かめたかったんだって」

 何を言い返していいか分からず酷い顔で震えるフォルテの肩を、リンは兄貴面の笑顔でぽんぽんと叩いた。

「って、そんな顔をするなよ面白いから。寧ろな? お前がそのつもりなら、その感情はずっと大切にして欲しいと私は思うんだ。何事も最初の時点に抱いた思いを貫くというのは、案外大変なものだから」

「言われなくても、……そのつもりですっ……!」

 大声をあげかけ、シャーリーが寝室で眠っているのを思い出した。フォルテは慌てて声を抑え、だがきっぱりと兄に言い放つ。

 そして苛立ちの勢いでテーブルのカップを再度掲げ、残っていた中身を一気に飲み干すと、香草の効能か何となく体に火照りを覚えつつも、身を翻して扉へと向かった。

「もう寝ます。今の話、シャルには絶対しないでくださいよ」

「それこそ、『言われなくてもそのつもり』だよ」

「……おやすみなさい」

「おやすみ、フォルテ。……明日はちゃんと起きろよ。寝坊したら置いていくからな」

 笑いながら投げられた言葉に、フォルテはもう返事もせず、仏頂面で部屋から退出した。


 ――それを見送り、遠ざかる足音を聞いてから。

 リンはふっと懐かしげに笑い、弟の退出ですっかり静かになった部屋の薄闇に呟いた。

「そうだな。……今日お前に、それを言わせてやれて良かったよ。フォルテ」


 爽やかな風に乗り、小鳥の囀りが聞こえる。

 シャーリーが体を揺すられて目を覚ました時、視界に入ったのは部屋を満たす朝の清らかな光と――目の前にあるリンの顔だった。

「ん……ぅ……。――――!?」

 驚き、一瞬で頭を覚醒させたシャーリーの前で、リンは自分の唇に指を当てる。

「騒がない。フォルテが起きる」

「えっ……?」

 そっと上体を起こし、ベッドの横の椅子に座るリンの向こうを見ると、フォルテはまだ自分のベッドで眠っていた。よほど熟睡しているのか、身じろぐ様子すらない。

 だが、何故自分だけが起こされたのか。少し怪訝な思いでいると、リンは改めて悪戯な少年めいた、だがシャーリーを安堵させて余り有るだけの優しい笑顔を見せる。

「大丈夫。別にお説教があるわけじゃないよ。……久々に、君とゆっくり話がしたくてね」

「え……」

 穏やかに告げられた言葉に、シャーリーの胸がある種の緊張に弾む。

「先に二人で、湖まで行かないか? 朝食は私が用意したし、フォルテも行き先は分かっているから、目が覚めたら追ってくるだろう」

 シャーリーはリンの顔を、それから布団に包まるフォルテを見る。

 急な提案ではあるが、拒む理由はない。それにリンが敢えてフォルテを交えずにしたい話というのも気になるし――いや、違う。認める。単純に、リンと一緒に湖へ行きたい。

「分かりました。では、支度をするので少し待っていただけますか?」

「ああ。だがなるべく早めに。フォルテが起きてしまってはいけないし、遅くなればそれだけ過ごせる時間も短くなるから」

「迅速に支度します」

 言うそばからシャーリーはベッドを跳ね起き、昨夜のうちに用意した着替えを広げ出す。

 リンはその様子にそっと微笑み、静かに部屋の外へと出て行った。

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