第一章 晩餐の夜 少年たちの憂鬱 2

 結局そのまま部屋を追い出され、フォルテは廊下を所在なく歩いていた。

 妙に急だった気もするが、話自体がただの雑談だったので、文句を言う余地もない。実際、自分もそろそろ窮屈な礼服を脱ぎ、湯でも使ってさっぱりしたい気分だった。

 また宰相の接待に呼ばれる可能性を考えると、そう簡単にもいかなかったが。

(湯浴みといえば……シャルの奴、随分髪伸びたよな。洗う時大変じゃないのか)

 面倒ごとから逃避したい気持ちのまま、フォルテはどうでもいいことを考え始める。

 物心ついてから短髪で通したフォルテには、髪の長い生活というのがどうにも想像がつかない。というか、来たばかりの頃は寧ろ切りたがっていた時期もあった気がするが、結局どうして伸ばし続けたんだったか、あれは。

 髪から連想していくうちに、フォルテの思考は、シャーリーの首元でふと止まる。

(そういや、あの首飾り)

 そこにあるのは、シャーリーがこの家に来た時から身につけていた、白い首飾り。

 いつしか彼が襟の高い服を好んで着るようになり、あまり意識しなくなったが、さっき向かい合って話した時も、時折襟の隙間から覗いていたもの。

 幼い頃、何度か一緒に風呂に入れられた時、シャーリーはそれを身につけたままだった。

 一度思わず「外さないのか」と訊いてしまったが、確か当時のフォルテの感覚ではいまいち曖昧で難しいことを言われ、結局何だったのかよく覚えていない。

 だが、恐らく今でも、シャーリーはあれを湯浴みの間も付けたままなのだろう。

(邪魔じゃないのか。それに、多分あの頃から変えてないんだよな?)

 記憶を辿るに、首飾りの装飾が昔と変わらないので、多分そうだと思う。

 シャーリーだって体は成長している。なら、そろそろ苦しくなっていないだろうか。

 それとも、流石に何か考えてはいるのだろうか。シャーリー自身か――あるいは兄が。

(って、しまった……)

 そこでついシャーリーの隣に兄の姿を連想したことで、フォルテは苦い顔になる。

 実は、シャーリーを巡って自分と兄にはとても深刻な――と思っているのはフォルテだけかも知れないが、とにかく、面倒な事情が存在する。

 五年前、シャーリーを家に迎えた時、フォルテは彼の兄となり、今となってはこの例えは壁に頭を貫通するまで打ち付けたいほど恥ずかしいだけだが「リンがしてくれたように」守ってあげるのだ、と思っていた。

 だが、シャーリーはちっともフォルテを兄として見てくれないどころか、リンばかりを慕うようになる。

 この家の家長は兄なので、彼を保護者として慕う気持ち自体は分からないではない。

 でもそれはそれで、フォルテのことも兄として見てくれれば、と言いたいところだが、実はその願望を粉々にする事実が、シャーリーが家に来た次の日の昼には発覚していた。

 シャーリーは、フォルテよりきっかり半年前に生まれていた。

 加えて、彼の母国での立場はアレニア国王の庶長子――すなわち、そもそも彼は『兄』という生き物であったのだ。

 そんな事実も手伝い、シャーリーは実際年下であり、精神的にも幼いフォルテに弟扱いされることを、頑として拒否した。フォルテは諦めきれずに食い下がったが、丁度この頃がらりと変わったリンの教育方針が、さらなる壁として立ちはだかった。

 それまで兄は、母の忘れ形見であり、体もあまり丈夫でなかったフォルテを、一流の教育こそ与えてはいたが、良く言えば優しく、悪く言えばどこか『甘やかして』扱っていた。

 だが、シャーリーを迎え入れた直後から、兄は変わった。

 彼は二人に増えた弟を、揃って断崖に突き落とす方向で教育し始めたのだ。

 家庭教師には信頼できる一流の人間を招き、兄自身も執務の合間に自ら教鞭を執って、あの爽やかな人好きする笑顔のまま、徹底的に二人を指導する。

 それを涙目で潜り抜けた結果、フォルテは嘘のように丈夫になったが、その横でシャーリーもすっかりあのように負けん気の強い、気丈な少年に育ち上がってしまった。

 こうなるとフォルテの野望は、最早あの宰相の頭髪と同じに、僅かな矜持で最後の敗走を認めていないだけの壊滅状態に等しい。シャーリーにとってはフォルテは弟分で、リンは鑑とすべき二人の兄。恐らく彼の中ではそういう構図なのだ。

 もっとも、兄弟の序列にさえ拘りさえしなければ、五年間でシャーリーとの間には家族同然の絆は育めていると思う。だが気になるのはリンへの態度で、今や全幅の信頼を置き、何かにつけて引き合いにも出す。悪気はないのだろうが、これは流石に堪えた。

(はあ……)

 ――フォルテも別に、兄が嫌いなわけではない。

 だがこの歳になると流石に自我も育ち、兄への感情もただの憧憬を卒業し、一言では言い表せない複雑さに変化している。しかもそれが誰もが認める完璧な男、となれば尚更だ。

(……いや、だめだだめだ)

 何やら流れに任せて思考に浸るうち、考えがどんどん情けない方へと進んでしまった。

 フォルテは首を横に振り、鬱屈した思いを振り払う。気付けば足も止まり、廊下の途中に突っ立っているとしか見えない有様だった。

 これではいけない、さっきシャーリーに叱られたばかりじゃないか――と思い直し、少し考えた末、兄の執務室に向かうことにした。そこで次の用事を申しつけられるならそれはそれ。そうでないか、或いは不在であったら多分宰相の接待中だから、それこそさっさと自室に戻り、礼服を脱いで湯浴みでもしてしまおう。

「できれば後者が有り難い」という気持ちを抱えつつ、フォルテは廊下を早足で歩き、目的の場所へ向かう。結局そこに兄の姿はなく、多少後ろめたい気持ちもあったが、その後フォルテは自室に下がり、就寝までをゆっくり過ごすことが叶った。


 シャーリーの私室の奥、浴場として整えられた一角。

 白く滑らかな浴槽に凭れ、シャーリーは温まった湯の中、ぼんやり天井を見上げていた。

 微睡むように口ずさむのは、遠い日に諳んじた故郷の古歌。甘く郷愁を誘う旋律を紡ぎながら、指先を湯に遊ばせ、解いた髪から肩口、鎖骨、首筋へと滑らせて――首飾りの固い質感に触れて、ぴくりと動きを止める。

 表情を失い、やがて寂しさと諦観を滲ませた顔でしばらく沈黙してから、彼は小さな溜息を落とし、そっと湯を上がった。

 衝立の向こうに控える使用人には手伝わせず、肌を滑る水滴を拭い、夜着を羽織って、フォルテとの話以後、尚消えない心の蟠りに、今度は長い溜息をつく。……湯浴みをすれば、少しは気分が変わるかと思ったのだが。

 あんな態度を取ったが、実際のところ、フォルテの成長は楽しみに思っていた。

 帝国貴族の子弟としては、そろそろ士官学校に入っていい年頃である。彼の家柄なら、卒業後数年で軍部の要職が与えられ、その先には輝かしい人生が待っていることだろう。

 今はまだ頼りない少年の、そんな未知数の未来を、シャーリーは時々想像する。

 幼い頃から変わらない彼の素直さは、十分な美点だ。だからこそ大人になって世界が広がれば、きっと多くの人に好かれるに違いない。

 その時彼は、一体どんな姿をしているのだろう。直情的な性格はそのままに、武人らしい逞しさを得ているのか。あるいは、少しはリンのような落ち着きを学び、貴人らしくなっているのだろうか。

 そんな想像は、シャーリーの心を暖かくしたが――、

 必ず最後には、ある虚ろで、どうしようもなく絶望的な思いの中に突き落とした。

 夜着の胸元を掴み、肌と肉の下で渦巻きひりつく感情を堪え、シャーリーは呻く。

 それは、できることなら直視したくない、永遠に先送りしていたい――残酷な問い。

 ――では、自分は。

 フォルテが大人になったとき、果たして自分は、今日のようにそばで生きていられるのだろうか――と。


「……いや、それにしてもいい食事だったよ。フォルツァート卿」

 屋敷の上階。客との談話向けに設えられた、庭園を臨むバルコニー。

 宰相ヘクターは満天の星空を背に、赤いワインの注がれたグラスを揺らしながら、微酔いの悠然とした笑みで振り返った。

 賞賛に、宰相に向き合い建物側に立つリンは、神妙な笑顔で応じる。

「身に余るお言葉です、宰相殿」

「帝国の武門の雄は、君という希代の当主を得て、益々勢いを増したようだな。それにしても……そんな君がいまだ伴侶を得ないことが、私は不思議で仕方ないのだが」

 酔いに紛れ、宰相の瞳が揶揄の気配を含んで細められた。

「君の立場であれば、妻どころか妾を数人囲っても、まだ釣りがきそうなものだがな。眼鏡にかなう女がいないというなら、私が世話をしてやってもいいのだぞ? クラレットにも縁談を探す年頃の娘はいるし、年増や童女の趣味があるというなら、それはそれで――」

「宰相殿。少々酔いが過ぎるようですよ」

 リンは笑い、話を曖昧に、それでいてきっぱりと散らそうとするが、宰相は止めない。

「いやいや。大貴族の家長たる者が、いまだ跡取りの一人も持たぬのは問題だろう」

「いざとなれば弟がおります。それに、戦後の復興活動に軍部が忙しく、腰を据えて考える暇がなかっただけですから。身辺に余裕ができれば、いずれ――」

「模範解答だな。正直に本当のことを言えば良かろうが」

 宰相は鼻で笑うと、グラスをリンに突きつけ、傲岸な笑みを見せた。

「『あの子』の養育にかまけ、外部の女を家に入れることなど、考えもしなかったと」

 リンは表情に動揺こそ浮かべなかったが、瞬間、返す言葉を確かに詰まらせた。

 それを意に介しているのかいないのか、宰相はわざとらしく嘲笑し、さらに続ける。

「糞真面目のアーサーの息子らしいな。まさか本当に、ここまで秘して預かろうとは。……確か、君の弟と同じ年頃か。さぞ美しく育ったのだろうなあ。会食の場にくらい、同席させても良かったろうに。君が躾けたなら、あの頃よりは多少は従順になっただろう?」

「……『アレニアの魔法使い』は、不吉。そう納得されたはずでしょう」

 リンは淡々と、落ち着いた声で答える。

「そもそも、あの子と外部との接触を断つことは、寧ろ私の方があの子を預かる時、皆様がたに再三申し渡されたことです」

「姿を見るくらい構わんだろう。それに……なあ。もう今さら、どう扱ったところで構わんのだ。この際一度我々に披露し、祖国の罪科を購わせるというのも――」

「……ヘクター様」

 笑いに下卑た揶揄を滲ませた宰相の言葉を、リンは静かに、重い声で遮る。

 その気迫にヘクターは僅かに目を剥くと、苛立ち、投げ捨てるような溜息を吐いて、表情をがらりと酷薄なものに変えた。

「フォルツァート。貴様があの王子にどれだけ入れ込もうが知ったことではない。全てはもう決まったことだ。それを、貴様がいつまでも引き延ばしているのだぞ」

「……それは、承知しております」

「そもそも、先に戦端を開いたのはあちらではないか」

 言い放ち、老宰相は侮蔑の瞳を若い侯爵に――或いはそれを通し、遠い地へと向ける。

「北の辺境での異変は、最早挑発行動の域を超えている。警備部隊との衝突も繰り返されているそうではないか。……未だ情報を公にしていないといえ、貴様も軍の最高幹部、率先してあちらを糾弾すべき立場であろう。見て見ぬふり、では部下も報われまい?」

 嫌みを含んだ声で言うと、宰相は短く鼻で笑い、厳然たる事実を突きつける。

「五年だ。たった五年で、アレニアは我らラングとの講和を放棄したのだ。……正式な講和破棄の通達は未だ届かぬが、同じ事。ならば、当然あちらが寄越した人質になどもう用はない。我々の意志を示す意味でも、迅速な処置が必要だ」

 言うと、老宰相は月光を背に、リンを正面から見据え――、

 その言葉を、処刑人が鎌を振り下ろすように、ぞっとするほど無機質な声で言い放った。

「殺せ。アレニアの王子を、速やかに処分しろ」

「宰相殿、それは――」

「貴様も武門であれば、国のために剣を振るうが役目であろう。もう三月待った。これ以上は我らも待てぬと心得よ。まあ……そうまで貴様があの王子に情を移しているというなら、我らで処刑を替わってやっても構わぬ。もっとも、その場合貴様の――それに家名そのものにも泥を塗ることは免れぬがな」

「……お伺いします。どうしても、殺さねばなりませんか」

 あらゆる感情の揺らぎを封じた表情で、リンは言う。

 そこから何を見出したか、ヘクターは侮蔑を表情に滲ませ、笑った。

「何度目だ? ……まあ、貴様の言うことも分からぬではない。五年も暮らせば情が移るのは道理だからな。だが、これはただの見せしめではない。あれが彼の国の人間――『アレニアの魔法使い』である以上、生かしておけば今後何があるか分からぬ」

「…………」

「次に同じ言葉を繰り返させるなら、いくら大侯爵一門といえ、貴様らの帝国での立場はないと思え。……貴様がアーサーの跡目を継いだ時、父親と違い、最低限の処世を弁えた若者だと私は判断した。だからこそ五年前、多少の我儘は許す気になったのだが――その見立てが誤りでなかったことを祈っているよ」

 冷然と言い、ヘクターはワイングラスに口をつける。

 そして幾分温まったその味に不快げに顔を顰め、グラスごと石畳に放り捨てると、破片と赤い飛沫が飛ぶのも意に介さず、応接間の入り口に向かって歩き出す。

「……弟の将来も考え、賢明な判断をすることだな。フォルツァートの若造」

 リンの横を通る刹那、ヘクターは低い声で囁くと、垂れた顔の肉を歪ませ慈悲なく笑う。

 その靴音が去った後、後には夜の静寂と、月明かりの下に佇むリンの姿だけが残された。

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