第一章 晩餐の夜 少年たちの憂鬱 1

 正直な話、なぜ貴族の会食は毎度こうも時間がかかるのかと、フォルテは常々疑問に思っている。


 ラング帝国の首都、エリス。

 公称五万といわれる人口を擁する大都市の、豪奢な邸宅の並ぶ、貴族階級の居住区。

 その中でも皇帝の住まう宮殿に近い一等地に、フォルツァート侯爵家の本邸は存在した。

 諸王国時代から軍の要職を担ってきた一門。その本家が住まう邸宅は、並の上流貴族の屋敷を数軒並べてもまだ余り有る広大な敷地に、背負う権勢を象徴するような重厚な石組みの威容を誇って聳え、見る者を圧倒する。

 だがその大きさに反し、現在、フォルツァート本家の血筋の人間としてここに住まうのは、いまだ独り身の現侯爵と、その弟の二人だけであった。


 そして、その大邸宅の中にある、晩餐の間。

 過度の贅沢を嫌う家人の生活空間に比べ、派手な調度品と装飾の目立つ、迎賓用の一室。

 清潔な白のテーブルクロスを彩るのは、夏の鮮やかな花々と、季節の食材を使った料理。

 その最奥、即ち賓客を迎えるべき席で――、

 今、赤い服の狸が、人の言葉を喋りながら、フォークとナイフを動かしている。

「――そう、あの晩餐会は素晴らしかった。君の父上も流石に感嘆していたね――」

 ……いや。

 つい現実逃避にそんなことを考えたくなってしまうが、あれは一応人間だ。だが贅肉で膨らんだ腹と垂れ下がった頬は、どう見ても絵本に出てくる狸だと、フォルテは幼い頃から思っている。強いていうなら、目に見えない何かと戦い、年々戦線を後退させている禿頭は、本物の狸にはない特徴だろうか。

 とはいえ、この禿狸こそがこの国の宰相で、権勢においては武門の雄たるフォルツァートを凌ぐ文官一族、赤の紋章を掲げるクラレット公爵家の当主、ヘクター・クラレットその人である――というのだから、何だか色々と納得いかない気持ちにさせられる。

 しかもこの狸爺がどうでもいいことを長々と喋るせいで、会食は異様に長引いていた。末席であるフォルテより上座にあたる正面には、フォルテと似たような黒の礼服を纏う兄、リン・フォルツァート侯爵の姿がある。何となく救いを求めて視線を送ると、彼はそれを気付いた上で露骨に黙殺し、如才なく宰相の話に相槌など打ち始めた。

 この晩餐会の参加者は以上。……言うまでもない。明らかにフォルテは浮いている。

 そもそもこの接待すべき宰相とて、来訪時フォルテに「ああ十五歳か大きくなったなあ」などと愛想良く言ったきり、一度もフォルテと目すら合わせていないのだ。

(くそっ……)

 その事実を改めて自覚し、フォルテは頬を引き攣らせた。兄からは愛想良くしろと言い含められてはいたが、どうせそうするべき相手は自分を見ていない。

 そもそも、フォルテが進まない会食にこうも焦れるのには、ちゃんとした理由がある。

 兄の付属品として社交の席に招かれるのは、この歳になればそう希でもない。結局はその場に全く必要とされないことも少なくないが、そこは曲がりなりにも貴族の子弟。それはそれで、時間を潰して過ごすだけの割り切りは身につけている。

 だが今日のように、その『理由』が完璧に引っ掛かる状況の場合、フォルテのそんな心構えは、全く機能しなくなってしまうのだ。

 どんなご馳走や出し物があろうと、全く魅力を感じない。そのうち我慢できなくなり、兄に本気で「退出させろ」と訴え――先程視線を逸らされた時同様、完璧に無視される。これは地味に心の折れる反応でもあった。

 とはいえ、どんな物事にも終わりはある。フォルテの忍耐がいい加減擦り切れそうになった頃、ついに食事はデザートまで進んだ。ケーキに乗った木の実を宰相が銀食器でつついて弄ぶのを見ながら、フォルテは「いいから早く食え」とひたすら念を送る。

 しかしそんなフォルテの思いをよそに、宰相は手の動き自体を止め、リンを見た。

「そういえば侯爵。君の大将軍就任の件、陛下のご賛同も無事得ることができた。これでいよいよ本格的に事を進められるな」

(えっ?)

 全く初耳の内容に、フォルテは思わず苛立ちを一瞬忘れ、場の大人を見回す。

 大将軍といえば帝国軍部の最高職で、常備軍設立以前の昔より、代々フォルツァートの当主が務めていた。

 が、五年前に兄弟の父、アーサー・フォルツァートが急死した後は、兄が若いことを理由に皇帝の預かりという体裁になり、そのまま戦争もなかったため、棚上げのまま空席になっていた。……というか、その皇帝は政変の末に誕生した幼帝で政務も執れず、外戚筋にあたるこの宰相が権力を掌握しているので、実質彼の手の中に等しい状況なのだが。

 その辺りの複雑な空気は、いまいち蚊帳の外ながらも、何となく感じないではない。

 兄の顔を見ると、特に驚く様子もなく、涼やかな笑みで宰相の言葉を受け止めていた。……つまり、彼にとっては知らない話でなかったということか。

「そうですか。しかし、本来なら私のような若輩者にはいまだ身に余ること。その名に恥じることのないよう、一層気を引き締めねばなりませんね。この度のことは、宰相殿にも過分のお引き立てをいただき、痛み入るばかりです」

「なに。由緒ある大貴族たるフォルツァートが代々担っていたものを、また返すだけのこと。おかしなことはあるまい? アーサーのことは実に残念だったが、君が引き継ぐのであれば、奴も安心するであろう」

 宰相が上機嫌で言うと、リンは微笑のまま沈黙で応じる。

 兄の性格を知るフォルテからすれば、それがただの恭順の意とはとても思えなかったが、宰相はそうでもなかったらしく、満足そうな笑顔で若き侯爵を眺め、何度も頷いた。

「就任式は盛大に執り行わねばな。なに、我々クラレットが全面的に後援するのだから、何の心配もない。全く、我が子たちにも見習わせたいものだ。私に万が一があったとして、果たして君のようにやっていけるかどうか」

「何を仰います。そもそも宰相殿とてそのご健勝ぶり、当分引退なさる気はありますまい」

「分かっているではないか、フォルツァート侯爵よ」

 老宰相は声をあげて笑うと、とうとうケーキの最後の一切れを口に放り込む。

 その瞬間、結局大人たちの話などどうでも良かったと言わんばかりに「終わった!」と心中で両手を挙げ快哉を叫んだ少年がいたことは、彼は恐らく知る由もなかった。


 会食が終わると、フォルテは兄の許可を得て場を辞した。

 大将軍位のことも気にならないではなかったが、それは後でいい。今はとにかく、ずっと心に引っ掛かっていた『理由』を解決するのが先だ。

 大人たちに先んじて晩餐の間を出て、前の廊下を足音を殺して歩ききった後、もういいだろうと一気に走り出す。階段を駆け上がり、上階の廊下も走り抜けて、家人の生活区域に至り、ある部屋の前で足を止めると、フォルテは扉を勢いよく押し開き、大声をあげた。

「シャル! 悪い、遅くなった!」

 そこはフォルテにとっても馴染み深い、上品な調度品の並ぶ部屋。

 その中の比較的入り口に近い位置にあるテーブルに、侍女の給仕を受けながら食事をする同世代の少年の姿を見つけると、フォルテは彼が浮かべる呆れ気味の渋面の意味は深く考えずに大股でテーブルに近付き、対面の椅子を引いてどっかと腰を下ろす。

 その振動をやり過ごすタイミングで、少年に卓上のティーカップを高く掲げられたことには、特に気がつかない。

「……別に、約束をしていたわけでもなし、遅いも何もないと思うが」

 対面の少年は呟くように言うと、掲げたカップを口に運び、紅茶で口を湿らせる。

 眉を顰めて尚、それが憂いめいた色香に映る端正な顔立ち。清澄な冬空の瞳。艶のある銀の髪は、今は腰まで伸ばして後頭部の中程で緩く結い、身に纏うのは詰襟の白の貴族服。

 それこそが、この屋敷に住まうもうひとり――フォルツァート本家の血筋でない人間。

 かつて敗戦の人質として帝国へ引き渡された、北の王国アレニアの王子シャーリーの、フォルツァート侯爵家に身を置き五年を経た、現在の姿だった。

「あと、廊下は走るな。部屋に入る時はノックをしろ。何度言えば分かる?」

「もうあの狸爺、ほんっと話長くてさあ!」

「人の話を聞け……」

 シャーリーは苦い顔で呟く。

「なあシャル、もう飯終わっちまってた?」

「え? ん、ああ。まあほとんど終わっていた……かな」

 曖昧な返事。見ればテーブルの上には、食べ途中のデザートを乗せた皿がある。

「今デザート?」

「……三つ目」

「えっ?」

 ぼそりと呟かれた言葉にフォルテが反応したのと同時に、シャーリーは皿の上の、クリームが絡んだスポンジ片をひとつフォークで取り、口に放り込んで澄ました顔をする。

「って……え? それずるくないか? 俺ひとつしか出なかったんだけど」

「会食の場なら当然だろう。こんなのは一人だからこその特権だ」

「あのさ、俺にもひと口」

「断る」

 フォルテは話すそばからフォークを奪い取ろうとするが、シャーリーはその手を難なく躱し、そのまま最後のケーキ片を掬い取ると、さっさと口に入れてしまった。

 わざとらしい美味そうな笑顔を恨めしく見ていると、給仕の侍女が微笑ましげな笑いを堪えながらそつなく紅茶を用意し、カップをフォルテの前に置く。それを仏頂面でちびちび啜っていると、シャーリーも口直しの一口を舐め、溜息をついた。

「全く……いつまでも子供だなお前は。で、今日はちゃんとリンの同伴は果たせたのか? そんな立派な衣装を誂えるだけ誂えて、恥をかかせたりはしていないだろうな」

「えっ。……ああ、まあ、うん。ほら。当たり前、だろ? ちゃんと、やってきたよっ」

「……はぁ……」

「な、なんだよその溜息は! 大体さあ! 俺がついてったって全然意味ないんだよ! あの狸、俺のこと完全に無視してたし!」

「狸? ああ、あの宰相……だったな。今日の客は」

 シャーリーは眉を顰める。

 フォルテはすかさずそこに乗り、そうそう、と言葉を重ねた。

「だからさ、俺の知らない政治の話とかばっかりで、出る幕なんかないって。本当、どうせならあっちの家でやって欲しかったよ。それなら俺も行かない理由捻り出せるし」

「フォルテお前、それは侯爵の弟として問題――」

「だってそれなら、シャルに一人で飯食わせずに済むだろ?」

「えっ……」

 不意打ちを受けた素の顔で、シャーリーは目を丸くする。

 しばらく無言になった後、彼はそっと視線を落とし、僅かな紅茶の残るカップを、かたり、とソーサーの上に置いた。

「別に、私は気にしないから。それに、たまの一人の食事くらい、どうということはない」

「でも……」

 冷静に、薄い微笑まで湛えるシャーリーに、フォルテは口惜しい思いで唇を引き結ぶ。

 そう――これこそが、社交の場でフォルテから集中力を奪い去る、唯一絶対の理由。

 シャーリーは、公の場に姿を現すことができないのだ。

 五年前、リンは彼を預かるにあたり、安全のためという名目で、帝国の重鎮らと『居場所を公にしない』という取り決めをしていた。だから彼がここにいることは秘され、決定に関わった者以外では、フォルツァート分家筋の有力者など、ごく一部しか知らない。

 それでも閉じ込められての暮らしでは気の毒だと、リンは自らの裁量でシャーリーにできる限りの自由を与えていた。使用人は信頼できる者を厳選し、自邸の敷地内では庭も含めて好きに過ごさせ、時には風貌を隠せる服を纏わせて、外に連れ出すことさえある。

 だが不自由を強いていることには違いなく、特に今日のように来客で自室に閉じ込めたり、侯爵兄弟揃っての外出で一人にしてしまう時などは、フォルテはいつも歯痒かった。

 今もそんな気持ちを隠せず、だが言うべき言葉も見つけられずに、フォルテが無言でシャーリーを見つめていると、彼は不意に、少し困ったような優しい笑みを見せる。

 そしてフォルテの顔にそっと手を伸ばし、端正な指先で頬に触れて――フォルテが油断して表情を緩めた直後、頬を乱暴に摘み、ぐいと引っ張った。

「いっ――痛でっ!」

「何を腐った顔をしている」

 整った微笑を意地悪く歪め、シャーリーは悲鳴をあげるフォルテの頬をさらに捻った。

「それでもお前は帝国軍部の頂点を極めた一門、黒の紋章を掲げるフォルツァート侯爵家の末裔か。そしてリンの弟か。人の食事の心配をする暇があったら、社交の席でリンの役に立つ方法のひとつも身につけてみろ。どうせ今日もろくに接待もできずにリンの足を引っ張ってたんだろう? ん?」

「だ、だってさあ! あの爺完全に俺のこと無視してたし!」

「それはさっきも聞いた。お前が会話するに値しないと判断されたからだろうが」

「けどそもそも話に入れないよ! 政治のこととかばっかりだし!」

「お前だって勉強してないわけじゃないだろう、要は度胸と応用力だ。大体、お前の歳頃にはリンはちゃんと大人の話についていけていたんだぞ? ……多分」

「多分で説教するな! ていうかお前絶対見たことないくせに見てきたように言うな!」

 そんな調子でひとしきり言い合った後、シャーリーはやっとフォルテの頬を解放した。

 赤くなった部分を擦りつつ、フォルテはむくれ面をシャーリーに向ける。

 それを見たシャーリーが――浮上したか――と、一瞬だけ安堵の気配を笑みに過ぎらせたのには気がつかなかった。ただ涼しい顔で紅茶を飲み干す彼を、恨みがましく見据える。

「ったく……今に見てろよ。いつかあいつなんか目じゃないくらいの男になって、俺にそんな口きけなくしてやるから」

「あのな。何度も言うが、自分の兄上に向かって『あいつ』と言うな。それに『いつか』などと言っているうちは、永遠にその日は来ないものだぞ?」

「分かった。じゃあ明日。明日から実践する」

「そうか。それは楽しみだ。お前があの人ほどの男になってくれるというなら、私も兄分として肩の荷が下りる」

「って、ちょっと待て。いつからシャルが俺の兄分になったんだよ」

「ん? ……私ではお前の弟分になりようもないのは、とうに理解しだだろう?」

「いやでもさ、俺が弟ってのはやっぱ納得できない。だって俺はお前を……」

「面倒な男だな……」

 フォルテの言葉を最後まで聞かず、シャーリーは溜息をついてから、ふと、思いついたようにぽんと手を打った。

「よし、じゃあ分かった。お前がリンくらい立派な男になれたら、兄分と認めてやる。兄上でも兄様でも望むように呼んでやるし、当初の希望通り存分に守られてやろう」

「シャル……お前さ、その態度。絶対俺には無理だと思ってるだろ」

「なに、お前があれだけの人間になってくれるなら、守られるのもやぶさかではない。……まあ残念ながら、今のところは全く想像がつかないんだが」

「つまり無理だと思ってんじゃないか! ああもう……見てろよ! 俺だってフォルツァートの端くれ、武門の男らしく立派になってやるんだからな! ほら、名前くれた大叔父上みたいに!」

「お前があまりに虚弱に生まれたから、ご健勝ぶりで知られた大叔父上の名をつけたと、リンから聞いた気がするが」

「うっ……」

 フォルテは言葉を詰まらせる。

 そもそも、フォルツァート家で『フォルテ』といえば、アレニアとの戦争が最も激しかった時期に活躍した、当時の大将軍でもあった当主の弟将軍の名だ。敵味方双方、また外国にまで勇名を轟かせた武人であり、フォルテはその名を貰ったのだが、経緯は残念ながらシャーリーの言う通りである。

「……まあ、せいぜい頑張れ。お前が立派になってくれるなら、私も嬉しいから」

 流石に言い負かしすぎたと思ったのか、シャーリーは勝ち気な笑みを少し和らげる。

「ああ! こうなったらもう、絶っっっ対なってやるからな。俺たちが兄上くらいの歳になる頃には、俺だって……。シャル?」

 膨れ面でシャーリーを見据えていたフォルテは、一瞬、自分の言葉の途中で彼の顔から笑いの気配が消えたのを、今度は見逃さなかった。

 怪訝な思いで呼ぶと、シャーリーはぴくりと肩を震わせ、取り繕うように笑みを深める。

「あ……いや、何でもない。もう遅いし、疲れたみたいだ。湯浴みもあるし、そろそろ出て行ってくれるか。フォルテ」

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