黒の侯弟 白銀の祈り手

tototo

序章 初雪の少年

 その子と家族になった夜のことは、今でもはっきりと覚えている。


 それは、まだフォルテが十歳だった、ある冬の日の夜。

 とても寒かったが、だからこそ明日にも初雪が降るのではと楽しみにしていた、そんな晩でもあった。この日もフォルテはいつも通り、兄に言いつけられた時間には子供部屋のベッドに入っていたが、普段ならとうに夢の中にいる時間を越えても、どうしても目が冴えて眠れなかった。

 帝国の大侯爵であった父が急逝し、今や唯一の家族である兄が跡を継いだのは、ほんの半年前。

 以来すっかり忙しくなった彼の帰りを待たずに眠ることは多く、時には心細さに寝付きが悪くなることもあったが、この日、フォルテの胸を占めていたのは寂しさではなかった。寧ろ、眠ってしまえば大変な楽しみを逃してしまう、という思いで気が浮き立っている。

(大丈夫。子供っぽいおもちゃは全部片付けた。嫌いな野菜だって、ほとんど食べられるようになったし……)

 落ち着かない頭の中では、この日のために重ねた準備と心構えがぐるぐると回り、小さな胸はどきどきと弾むばかりだった。

 その時がきたのは、壁の可愛い仕掛け時計の針がてっぺんを回り、少しした頃だった。

 窓の外の、それまでしんと静まりかえっていた夜闇に馬車の着く音が微かに聞こえ、フォルテは跳ね起きた。そして寝間着の上に室内用の上着を羽織り、廊下へ飛び出す。

 広い邸内を走り、息を弾ませながら外の馬車止めまで出ると、ちょうどそこに見慣れた自邸の馬車が停まり、一人の青年が降りてくるところだった。纏う黒の外套、そして何よりよく知る端正な顔を見て、フォルテはぱっと表情を輝かせ、彼のそばへと走り寄る。

「兄上……兄上! おかえりなさい!」

「何だフォルテ、遅くなるから寝ていなさいと言ったのに。……ただいま」

 兄――リン・フォルツァート侯爵は、飛びついたフォルテの小さな体を受け止め、苦笑しながらも頭をくしゃりと優しく撫でてくれた。

 若干二十歳ながら、その才は代々帝国軍部の幹部を務める武官一門の当主に恥じぬもの。

 文武両道、人柄にも優れた、将来を嘱望される若き侯爵――それが周囲の兄への評価である。それはとても誇らしいことだったが、フォルテはそれ以上に、兄が家で自分に見せてくれる、こんな穏やかな表情が大好きだった。

 生前の父は帝国の重鎮として多忙を極め、母は生まれてすぐに亡くしている。そんなフォルテが寂しさに心を潰さずにいられたのは、兄が誰より慈しんでくれたからに他ならないのだから。

「だって、こんな日なのに眠れないですよ。ねえ、言ってた子は? あの中ですか?」

「まずは落ち着きなさい、フォルテ」

 頬を赤くして矢継ぎ早に問うフォルテの背を、リンはぽんぽんと優しく叩く。

「確かに、例の子は中にいる。……だがあまり興奮するな。怖がらせてしまうだろう?」

「あ……ごめんなさい」

フォルテはしゅんとして腕の力を弱める。と、リンはそんな弟の頭をまたそっと撫でた。

「まあ、だからといって、そう固くならなくてもいい。だが何にせよ、先に話した通り、この国のことにはまだ不慣れな子だ。言葉は大体理解できるが、まだ暮らしの上では何かと戸惑うこともあると思う。ちゃんと助けて、優しくしてあげなさい」

「はいっ!」

「うん、いい返事だ。……では、今紹介してしまおうか。シャーリー、おいで」

 笑って頷くと、リンは馬車を振り返り、昇降口から中を覗き込む。

 穏やかな口調で、時折フォルテには耳慣れない言葉も交え、中にいる相手といくつかのやりとりをすると、彼は身を乗り出し中に手を差し伸べて――そうしてフォルテの前に、暗色の外套を纏った子供を連れて戻ってきた。

 それは、フォルテよりやや小柄な子だった。

 フードを目深に被り、俯いていて顔はよく見えないが、頼りない立ち姿からは、強い不安や心細さを感じているのが伝わってくる。それでも兄の手をしっかり握って身を寄せている辺り、どうやら彼には心を許しているらしい――と、フォルテは少し安心した。

「シャーリー。こちらが、話していた弟のフォルテだ」

 リンは軽く身を屈めると、穏やかな笑顔でフードの子に囁いた。

「優しい子だから何でも頼りなさい。フォルテ、こちらがシャーリー。今日から我々家族の一員になる子だ。……シャーリー、フォルテに顔を見せてあげてくれるかい?」

 優しい問いかけに、フードの子、シャーリーはおずおずと小さく頷く。

 それを待ってから、リンはシャーリーのフードに手を添え、そっと外した。


 その姿を見た時、今年最初の雪が人の姿になって訪れたのだと――そう思った。

「えっ……」

 フォルテは呆気にとられ、シャーリーを見たまま立ち尽くす。

 この時フォルテは、生まれて初めて魔法というものを見たと――そう思った。

 フードが外れ、ふわりと肩に零れ落ちたシャーリーの髪は、夜闇の中ですら柔らかに艶めく白銀色で――清く降り敷き、天上の光を受けて輝く、雪そのものの色。

「ほらシャーリー。絶対に綺麗だから、フォルテはびっくりするって言っただろう?」

 リンはくすくす笑いながら、緊張に固くなっているシャーリーの髪に触れ、すっと指を通して優しく梳いていく。

 フォルテの住むここ、ラング帝国では、ほとんどの人間が黒の髪と瞳を持つ。勿論移民や旅人なども存在するため、全員がそうというわけではないが、それにしても銀の髪は珍しい。

 またそれは同時に、シャーリーの素性が事前に兄の話した通りであることの、何よりの証でもあったのだが――そんなことよりフォルテは、ただ目の前の異国の子の容貌に、完璧に心を奪われていた。

 不思議な髪色と、あるいはそれ以上に、希有なまでの美しい顔立ちに。

 帝国の人間とは全く違う、繊細で華やかな、事前に『男の子』と聞いていなければ完全に少女と見紛う可憐な風貌。

 肌は透き通るように白く、瞳は冬空の蒼。心細そうに立つ姿は儚げで、「実は雪の妖精を連れてきたんだよ」とでも兄に言われていたら、多分信じてしまっていただろう。

 そんな綺麗な少年を、フォルテと同じ現実に繋ぎ止める数少ない手掛かりは、纏っている服だった。

 実はそれらは、兄がフォルテの了承を取って持ち出した、ここ一、二年で着られなくなったお下がりの古着である。見慣れた外套やズボン、ブーツといった一揃いを、初対面の、しかもこんな綺麗な子が着ているというのも妙な感じだったが――ふとフォルテは、その中に全く見覚えのないものを見出した。

 それは、外套の襟元から覗く、装飾の施された白い首飾り。

 太さは大人の指二本ほど。首との間に僅かな隙間しかない詰まった作りで、寧ろ首輪といっていい形だ。

 貸した中にはなかったし、そもそもそんなものは持っていない。この子自身の持ち物だろうか――と考えていると、兄がいつもの穏やかな笑みで、さて、と声をあげた。

「ま、とにかく家に入ろう。こんな寒い中で風邪をひいても良くない。……それとフォルテ、お前の格好は問題だな。起きていたいなら、まず部屋に戻って着替えなさい」

「えっ。……あっ。わ、分かりました……」

 苦笑しつつ指摘され、フォルテは今更のように寝間着姿を意識して赤面する。

 気まずくシャーリーを窺うと、一瞬視線が合った後、すぐに逸らされてしまった。もっとも、それはフォルテの格好が恥ずかしいからではなく、まだ警戒を解いて貰えていないせいだとは思うが。

 だが何にせよ――今日からこの子は、自分の家族になるのだ。

 時々他の家の子を見て思っていた「歳の近いきょうだいが欲しい」という願いが、思いがけず叶ってしまった。だから、これからは自分は『兄』となり、『弟』であるこの子を守り、大切にしてあげねばならない。

 リンがずっと、自分にそうしてくれたように。

 決意を胸の中で確かめると、フォルテはシャーリーのそばに寄り、顔を覗き込んだ。

 そしてリンの真似をし、安心させるように笑ってみせる。

 と、それまで押し黙っていたシャーリーが、僅かに睫を揺らし、喉を震わせた。

 結局はそのままおずおずと黙り込まれてしまったが、反応を示してくれただけでもフォルテは十分嬉しかった。

(もしかしたら、言葉は聞けるって言ったけど、まだ喋るのは上手くないのかも)

 なら、それも含めて明日から色々なことを教えてあげよう。

 これからこの子は、ずっと自分と一緒に暮らすのだから。

「よろしく、シャーリー。じゃ、俺着替えるから。また後でなっ」

 笑顔で言うと、フォルテは無理に返事は待たず、踵を返して屋敷の中に駆け戻っていく。

 明日から始まる、新しい家族との生活を思うと、胸は弾んで止まらなかった。


 ラング帝国暦二一八年、暮れの冬。

 この年の春、群雄並び立つ諸王国時代より戦争や強硬外交によって大陸中央部に版図を広げ、自ら帝国を号するようになった大国ラングは、一年の半分を雪に覆われ、盛冬には山間部を吹き渡る雪風で、外部との交流が閉ざされる環境から『猛き冬精霊の歌う地』の異名で知られる、北の王国アレニアとのおよそ百年に渡る戦争に、一旦の終止符を打った。

 事実上帝国の戦勝といえた状況から、アレニアは講和を通して多くの屈辱的な要求を突きつけられることとなる。その一つが王家から人質を差し出すことであり、アレニアはこれに、一人の王子を引き渡すことで応えた。

 それがこの少年――一人異国に渡るにはあまりに幼い、王子シャーリーである。


『……ね、話した通りのいい子だろう?』

 フォルテの姿が屋敷の中に消えると、リンは弟を交えて話していた時とは全く別の、豊かな抑揚を持つ言語――流暢なアレニア語で、微笑混じりにシャーリーに言った。

『これからはあの子も君を守るから。だから、本当の弟だと思って接してほしい』

『弟……ですか』

 リンの言葉に、それまでほとんど動かなかったシャーリーの唇から、言葉が紡がれる。

 その声色は子供らしい高く柔らかなものだったが、年相応の無邪気さや幼さの気配はなく、ひどく乾いていた。

『まあ、弟に空きがないなら兄でも何でもいいけど。どちらにせよ、私は今後は君をあの子と同じに弟として扱うから、そのつもりで』

『……よろしかったのですか、フォルツァート卿』

『リン。でなければ、兄上』

『……では、リン。本当に……あなたはこれで良かったのですか。私のような立場の者と関わりを持てば、いつか必ずあなた自身、それに弟君にもご迷惑になります。……何も知らない、可愛らしいかたではないですか』

『いつまでも可愛くはいられないよ。あの子だって、いずれは侯爵家の人間として、相応の責任を負う立場にならねばならないのだし』

 弟とそう変わらない年頃の少年の老成した発言に、リンは小さく肩を竦める。

『それに私は弟を、君のようないい子を事情だけで迷惑がるような根性曲がりに育てた覚えはないから。……とにかく、君は何も気にせず、ここで暮らしてくれればいい。ここには君を害するものなど、何も存在しないから』

『あなたのお立場は、それで大丈夫なのですか。少なくとも帝国の重鎮は、この決定を歓迎しているようには見えませんでした』

『……歓迎していなくても、君をあのまま放っておくわけにはいかなかったろう』

 リンは棘を孕む低い声色で言う。

『それにねシャーリー。これは何より私自身のためなんだ。侯爵の名に恥じない男でいたければ、当然の選択だったんだよ。今の私にできるのはこんなことくらいだが……それでも、少しでも君の辛さが和らげばと思う。……とは言っても、私だって帝国の重鎮には違いないからね。信じて貰えなくても、仕方ない立場だ。……ただ』

 そこで言葉を区切ると、リンはふっと気配を和らげた。

 そして、帝国の要人としてではない、彼が持つもうひとつの顔を――とても優しい慈しみの笑みを、シャーリーに見せる。

『弟とは……できたら仲良くしてやってくれないかな。あの子は君が来るのを、それは楽しみにしていたから』

 シャーリーは先程の、目の前の青年の面影を色濃く持つ、幼い少年を思い出す。

 あんなふうに無邪気に笑える、素直な柔らかい心。それを守ってきたのは、恐らくこの侯爵の暖かな笑顔なのだろう。

 そんな愛情を独占できた生き方はきっと、とても幸福なものだったに違いなく――。

 そこまで考え、胸にちくりと痛みが刺して、シャーリーはリンからそっと視線を外す。

『……私の立場を知った上で尚、弟君はそう思われるのでしょうか』

『勿論。流石に君ほど頭のいい子じゃないけど、でもあの子なりに事情は理解してる。その上で、新しい家族を迎えるのを、とても喜んでいるんだよ』

 つい卑屈な思いで呟いた言葉に、リンは当然とばかりに笑って頷くと、シャーリーの背に触れ、小さな体をそっと引き寄せた。

『えっ……』

『さ、そろそろ中に入ろう。寒い中で立ち話をさせて済まなかったね。温かい食事を用意させているし、フォルテももう、着替えを終えて待っているかも知れないしね』

『はい……』

 ――心の解き方など、とうに忘れてしまったはずだった。

 なのに、リンの笑顔と腕の暖かさには、そんな凍った心すら揺るがしてしまう何かがあった。誘い寄せられるままつい頷くと、リンは嬉しげに笑い、大きな手でシャーリーの冷えた手を取って、強く握る。

『私たちと一緒に生きていこう、シャーリー。フォルツァート侯爵家は、君を家族の一員として、心から歓迎するよ』

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