紙とペンと老いた竜
八百十三
紙とペンと老いた竜
老竜オーケビョルンは、山の洞窟に住んで長い。
竜の中でも知恵者として知られた彼は、人々を害することなく暮らしてきたため生き永らえ、近隣の街に住む人間からも慕われていた。
そんな彼の日課は、これまでの長い長い竜生の中で得た知識、経験、冒険譚を、文章の形で石板に書き記すことだった。
時には自叙伝、時には散文詩。
そうして書き記された石板は、彼の手によって山の麓にある屋敷へと運ばれる。
その屋敷に住まう人間、文章作家として知られるマルクスが人間語に翻訳して紙に書き起こし、それを世に広めるのだ。
書き起こしの終わった石板は再びオーケビョルンの住まいに戻り、彼のブレスによって表面を焼き潰されて、再び彼の爪で文字を刻まれる。
そうして書いたものを持ち込んだ時に、マルクスと互いの書いたものについて話をするのが、彼の数少ない楽しみだった。
今日もオーケビョルンは、新作の散文詩を記した石板を手に、マルクスの屋敷に飛来した。
「マルクス、また来たぞ!」
「やあオーケビョルン、最近調子がいいじゃないか」
「いやはや、湯水のように文章が湧いてきてのう。書かずにはいられなんだ」
屋敷の庭に降り立つと、丈の長い上着を羽織ったマルクスが屋敷から飛び出してくる。
詩を刻んだ石板をどすん、と地面に降ろして、オーケビョルンは呵々と笑った。
「順調なのはいいことだが、こっちが書き起こすまで待ってくれると助かるな。追いつかないよ」
「それはすまんな。また新しい石板を切り出さんとならんのう」
オーケビョルンの持参した石板を屋敷に勤める使用人が数人がかりで運んでいくのを見送りながら、マルクスが大きく肩をすくめた。
彼の持ち込んだ石板で、まだ書き起こしに取り掛かれていないものが、既に屋敷の倉庫に三枚も入っているのだ。
マルクス一人の手では到底追いつかない。
「ところでマルクスや、前からわしは気になっておったのだが」
「うん?」
「お主等人間が、爪も牙も持たぬのに文字を如何にして刻むのか、わしはずーっと気になっておった。専用の道具があるのだな?」
「あぁ、ペンのことかい?」
オーケビョルンの問いかけに、マルクスが右手に持ったままのペンを持ち上げる。しかして彼はこくりと頷いた。
人間の言葉に精通しているオーケビョルンではあるが、人間の文字にまで慣れ親しんでいるわけではない。マルクスが世に送り出す彼の著作も、書籍の形になったものは読めないままでいた。
「そうそう、それよ。如何なる仕組みなのだ?」
「こいつは、ペン先をインクに浸してそのインクを紙の上に乗せていくことで文字を書くんだ。貴方たちドラゴンがやるように、傷を刻んだり穴を開けたりして記すのとは、ちょっと勝手が違う」
「ふむ……」
前脚を持ち上げ、顎の下を撫でるようにして、しばし考え込む姿勢を見せたオーケビョルンが、はたと手を打った。
「マルクス、わしもペンで字を書いてみたいのう」
「えぇっ、君が?だけど君の手には、あまりにも小さすぎるだろう」
「そこはわし自身が何とかする!これでも木の小枝の一本を摘まみ上げて、砕かずに持ち続けることも出来るのだぞ」
地に両手を付けて頭を垂れ、懇願の姿勢を取るオーケビョルンの姿を見て、マルクスは唸った。
「うーん、と言ってもなぁ……あぁ、そうだ」
しばし悩んだ末に何かを思いついたのか、マルクスが屋敷に駆け戻っていく。数分後、庭に戻って来たマルクスの手には、一本の硬筆が握られていた。
「オーケビョルン、これを使うといい。これならインクをペン先に付ける必要もない」
「ふむ?これは、黒鉛の棒を木で包んだものか」
硬筆を受け取り、爪で挟むようにしながら目の前で眺めるオーケビョルンに、マルクスが一つ頷いた。
「硬筆というんだ。これも字を書く時に使う。露出した黒鉛が削れても、黒鉛を覆う木を削っていけばまた書ける」
「なるほど、よいものだのう。感謝するぞ」
硬筆の使い方に得心がいったオーケビョルンは、ぐっと身体を低くしてマルクスの身体に自身の額を擦り付けた。竜族の親愛の仕草だ。
オーケビョルンの大きな頭を抱くようにしながら、マルクスはくすぐったそうに笑っていた。
マルクスから不要になった裁断紙もたくさん貰い、棲み処である山の洞窟に戻って来たオーケビョルンは、紙の山を洞窟の奥、風の吹きこまないところに収めた後、一枚を手にいつも書き物をする作業場にやって来た。
紙を作業場の石台に置くと、普段書き記している石板に比べて随分と書ける範囲が狭い。さらに貰って来た硬筆も細い。
人間どもはこんなに小さい範囲に、よくぞあそこまで細々と書けるものだと感心しながら、オーケビョルンは手の爪の腹をナイフのように使いながら、硬筆を削りだした。
細かな削りくずが、洞窟の床へと落ちていく。
やがて黒々とした黒鉛の先端が露になったのを確認したオーケビョルンは、物は試しと目の前の紙に、硬筆をぐっと押し当てた。
ぼすっ。
「あっ」
硬筆の先端が紙を突き破り、小さな穴が開いた。
力加減を誤ったか、とオーケビョルンは不満げに硬筆の先端を見やる。幸いにして硬筆の方が折れたりはしていないようだ。
「何とも、人間は細々とした作業をしているのじゃなあ」
硬筆をくるくると回しながら、オーケビョルンが零すと。
これまた力加減を誤ったか、硬筆の木部に自分の爪が突き刺さっているではないか。
「ええい、なんともはや……なれば慣れるまで書き続けるだけよ!」
ぐっとまなじりを決して、オーケビョルンは再び石台の上の紙に向き直った。
それからというもの、オーケビョルンは来る日も来る日も紙に書き続けた。
書き溜めた紙はどんどん増え、硬筆はどんどん削られて短くなっていく。
最初の内は穴が空いたり文字がはみ出したりした竜語の文字も、次第に紙の内側に納まるようになり、細かな線の強弱もつけられるようになっていた。
そうして、マルクスから譲られた一本の硬筆が、もはや文字を書くことすら能わぬほどに短くなった頃。
「……よしっ!!」
洞窟の作業場で、オーケビョルンが息を吐いた。
目の前の石台には、裁断紙一枚に収まった、竜語で書かれた彼の新作の叙事詩。
早速オーケビョルンは書き溜めた新作を抱え、マルクスの屋敷に向かって飛び立った。
その日は、風が強い日だった。
山に吹きつける風がオーケビョルンの身体を、右に左に揺れ動かす。
腕の内に抱えた折角の新作を飛ばすまい、と、歯を食いしばってオーケビョルンは飛ぶ。
もうすぐマルクスの屋敷に着こうか、というところで。
下からごう、と吹き上げる強風が、オーケビョルンを襲った。
「く……!」
あまりの勢いに、胸の前で交差した両腕が僅かに緩んだ。
そしてその隙間から零れ落ちる紙。
「あ、あ……!」
オーケビョルンは慌てた。
何とかして零れた紙を掴もうと手を伸ばすも、紙はひらひらと空高く、風に乗って飛ばされていく。
腕の内に残った紙は、せいぜいが持ち込もうと思ったものの半分程度。
「なんという……紙とは、こんなにも飛ばされやすいものだったのじゃなぁ……」
自作の詩が飛ばされていった方向を力なく見やりながら、オーケビョルンはマルクスの屋敷に飛んだのだった。
「なんだって!?それは残念だ……」
「すまなんだマルクス……わしがもっとしっかり胸の内に収めておれば……」
マルクスの屋敷に降り立ったオーケビョルンが事の顛末を離すと、マルクスはがっくりと肩を落とした。
彼もオーケビョルンの新作をいつも楽しみにしている一人だ、飛ばされたと聞いて気落ちしないはずがない。
しかしマルクスは、落胆するオーケビョルンの頭を優しく撫でた。
「気にすることはないさ、また書けばいいんだ。
それで、硬筆は使い切ったって?新しいのを渡そうか」
「そうじゃなぁ……」
マルクスに頭を撫でられながら、オーケビョルンは考える。
紙に文字を書くことには熱中したが、しかし。
彼はゆるりと首を振った。
「いや、いい。わしは今まで通り、石板に爪で刻んで書くとしよう。
今日のように、風に飛ばされてはかなわんからな」
「そうか。まぁ、また気が向いたら言ってくれ。硬筆の用意はしておくから」
オーケビョルンの言葉に肩をすくめるマルクスだった。
彼が今まで通り、石板に書くというならそれでいい。本当は紙に書くことを続けてもらえると、保管場所を取らなくて済むからいい、と言いたかったが、それを言えるほど気安い関係ではない。
持参した紙束を抱えて、屋敷に戻ろうとするマルクスの背に、オーケビョルンが声をかける。
「マルクスよ」
「なんだい?」
「文字を書くというのは、楽しいものじゃなぁ」
「だろう?だからやめられないんだ」
そう言いながら。
一人の作家と一匹の竜は、互いに笑みを零した。
その頃。
風に飛ばされたオーケビョルンの著作が舞い落ちたのは、王都の広場だった。
空から舞い降りて来た一枚の紙を拾い上げた女性が、竜語で書かれた書かれたそれをまじまじと見つめる。
冒頭に書かれた特徴的な竜語の並びは、翻訳され世に出た彼の著作にも決まって記されているものだ。
それに気づいた女性が声を上げる。
「えっ……これ、まさかあのオーケビョルンの書いた原稿!?」
女性はすぐさまに、その裁断紙を懐にしまって駆けた。
こんな貴重なもの、二度と手に入れることなどないだろうから。
しかして竜族の作家として後世に名を遺したオーケビョルンの、数少ない紙原稿は。
とある王侯貴族のコレクションの一つとして、後生大事に保管されたということだ。
紙とペンと老いた竜 八百十三 @HarutoK
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