達人と、紙とペンと、忍者。(花の秘剣3KAC4版)
石束
達人と、紙とペンと、忍者。
沼のような、薄闇。四方に灯されたろうそく。揺れる朱色が神棚の鏡にはねた。
微かな息づかい。紺色の道着は闇に溶けて、輪郭がおぼろにかすむ。
重苦しい気配が、周囲を圧している。まるで水底の中を歩いているようだ。
息を整え、無駄な動きを排し、次の動きを読んで、布石を打つ。
体が自由にならないことには慣れている。だから、やり方も承知している。
目も耳も、当てにしない。相手との間合いは肌で『つかむ』。
よく、知っている。
肉親よりも――近しい気配が――手が届く――そこへ――打ち込む。
「――――っ」
あ、惜しい。何故かそう思った次の瞬間。
矢倉新之丞の視界は、天地逆になった。
◇◇◇
「――だい。師範代……新之丞様っ」
その声に、小菅道場師範代、矢倉新之丞の意識は覚醒する。
「おお」と、声とともに顔を上げると、道場の女性門人の一人、はるの顔があった。
「どうかされましたか? お疲れなのでは?」
そう言って彼女は赤い毛氈の上から、茶わんを取り上げ新之丞に差し出した。
「いや、ご心配なく。ありがとう」
頭を下げて、茶わんを受け取る。が、はるの視線はそのまま新之丞の顔に固定されたままだ。
ふう。と一つため息をついて、新之丞は膝上に茶わんを据えた。
月浜藩領には城はない。いわゆる城下に代わるのは『陣屋』とよばれる藩主の住まい、そして家臣団の武家屋敷。町人商人街。前者後者は隣り合っており、一本の道でつながる。
ここはその出入口にある茶店。
所用を済ませて、一服していた新之丞の前に、はるが通りかかり、現在に至る。
「少し前に 稽古、いえ、『真剣勝負』で手ひどく負けたことがあって。それが頭から離れないのです」
もう少し、上手にやれると思ったのですが、と笑う。彼女は驚いたように目を見開いた。
「ええっ師範代が、ですか? お相手はやはり大先生――」
「さて、いきましょうか」と、新之丞は席を立った。
露骨に躱されたと感じたらしい。口をとがらせて、それでも新之丞に従って席を立った。
はるは、月浜藩と同じく近江に所領を有する水口藩の出身だが、親戚の医師宅に寄宿して小菅道場に学んでいる。
当世、女性が剣術を学ぶのはやはり難しい。しかし晴願流は女性の門人を厭わない。稽古の時間を、成人、少年、女子、町人と分けて教授しているのも珍しく、こうして藩を越えて学びに来るものもいるのだ。
聞けば、彼女の実家は、士分であると同時に水口藩の藩医も務めて、大変裕福だとか。
得意とするのは小太刀で、腕前は女性門人中でも上位に入るのではあるが……
「師範代。今から稽古をつけていただけませんか? 師範代に教えていただけたら、わたし、もっと上手になれる気がするんです!」
あからさまに、新之丞に近づこうとする女性門人の筆頭でもあった。
◇◇◇
少しだけ小太刀の型を見ると、押しきられる様にはるに約束した新之丞は、彼女を道場に待たせ、『奥』へ進んだ。
庭に面した座敷に、道場主であり師である小菅甚助が待っていた。
いらえもそこそこに膝を進め、新之丞が小さな文箱を差し出す。甚助がそれを開くと、一枚の紙と、何やら、先のとがった棒状のものが入っていた。
「矢倉の本家で、兄から預かってまいりました。こちらが西洋の紙で、これが」
新之丞は慎重に両手で持って、甚助に示した。
「『ぺん』と呼ばれる、筆に相当する西洋の、『筆記具』とのことです」
ふむ。と甚助は腕を組んだ。
「こうまでして用心するのだ。ただの文房具、というわけにはいくまいな?」
「一方が紙を有し、もう一方が『ぺん』を携え、両者がそろった時に互いの名を記して、証拠とする。……そのような使い方をするのではないか、と」
「なるほど『割符』か……いわれなければ、そうとわかるまい。うまいことを考えるものだ」
入手経路は伝えられていない。ただ、異なる二者が有していたものを接収したのだとは聞いた。
「紙に記された内容については、藤居駿斎殿が調べておられるそうですが、未だ詳らかならず、と」
藤居駿斎は月浜藩ただ一人の蘭学者で、普段は藩命で忙しく江戸や大阪へと行き来をしていた。彼は学問の傍ら小菅道場で剣術を学んでおり、新之丞とは兄弟弟子ということになる。
「駿斎殿は『鬼が出るか蛇が出るか』と楽しそうでした」
新之丞から久しぶりに聞いた弟子の「はしゃぎ」ように
「あの『悍馬』め」
と甚助は思わず、頭を押さえた。
駿斎は、多方面に才能を示す有能な若者だが、行く先々で厄介ごとに首を突っ込み、ひっかきまわして楽しむ悪癖があった。さすがの甚助も手を焼く悪童だったのだが、時勢がその有能を放っておかなかった。この才能あふれる『悍馬』は、二年予定の長崎遊学を「学ぶに及ばず」と一年で切り上げ、その後日本各地を飛び回って、月浜藩の情報収集役を一手に引き受けている。
そんな彼だから(多少趣味に走っても)物事の軽重を誤ることはしない。紙から文字を写し終えるとすぐ、矢倉家を通じて新之丞を呼び出し、彼が知るうちでもっとも警戒厳重な場所へ、この『密書』を保管する手はずを整えたのだ。
すなわち小菅道場の奥屋敷、晴願流の剣客・名人小菅甚助の書斎である。
「頼られたからには応じねばなるまいよ。どれ、蔵から鉄の文箱を持ってこようか」
「先生、それはわたしが。道場に人を待たせておりますので、そのあとで」
「ふむ。では頼もうか」
新之丞が立ち上がって道場へ向かう。それを見送って、甚助も手水に立つ。
それはスキとも呼べぬ間隙だった。
門人の一人もいない邸内。夕餉の支度中の下働き。
ふいに生じた、営みの『空隙』。
――そこに、影が一つ、滑り込んだ。
無人の書斎。無造作に、文机に置かれた小さな風呂敷包み。
――音もなく、歩み。それに手が届こうという、その刹那。
『はる』の体は、何かに、吹き飛ばされた。
◇◇◇
わからない。何が起こったか、わからない。確かなことはひとつ。先ほどまで座敷にいたはずの、はるの体が「庭にある」ということだけだ。
はた、と我に返る。『敵』の正体はさておき、今はなすべきは、ひとつ――
身をひるがえして、板塀に向かう。松の向こうに焼杉の板塀がある。人の背より頭三つは高いそれだが『修行』を経た彼女には、障害にならない。
一息に走り寄って、飛び越えんと、宙を踏む、が。
「えっ」
塀の向こうから、まったく同じように誰かが飛んでくる。
宙で身動きがならない彼女を袂でくるむ様にして、捕らえると、「ぽん。」とやさしく庭へ転がした。
(え。え。え。え)
頭の中で、言葉が形を成さない。一体、今自分の身に起こっているのは、何なのか。
逢魔が時。淡い朱色に煙る庭。
「けがは、ありませんか?」
穏やかな声がした。おそるおそる顔を上げると、目の前に。
彼女を探して、道場で途方に暮れているはずの、矢倉新之丞が立っている。
それで、さすがに理解した。自分はしくじったのだと。
――不覚。
伏して落とす視線の先。濃く落ちる自らの影に、歯噛みする。まるで白州に引き据えられた罪人のようだ。『三雲』の技を継ぐ身がかくも無様を晒すとは、遠祖にも先達にも申し訳が立たたない。
せめてもと、油断なく、身をかがめる。はるには奪って帰らねばならぬ密書がある。
小菅道場の手ごわさは予想以上だったが、相手が目の前の矢倉新之丞だけならば……
彼女が心身を立て直し、覚悟を決めたのを見計らうかのように、
その『声』がした。
「ようこそ、と、申し上げておきましょう」
その言葉とともに、ずしり、と、はるを取り巻く雰囲気が、『重さ』を増すのを感じた。
声が続けていう。
「身のこなしは、よい仕上がりです。しかし、兵法が足りませんね」
ぞくり。と総毛だつのを、覚えた。
何か、いる。縁の上に、何か、恐ろしいものがいると感じた。それが何故か、人の言葉を話す。恐ろしい。怖くて振り向けない。
「師範代。この方は?」
その問いに、うっそりと気配もなく佇む矢倉新之丞が答えた。
「水口の三雲家からの預かりとして入門された、はる殿です」
それに、なるほど、と頷く気配。
「三雲には血をつなぐ本家の他に、『技』を伝える分家があると聞き及びます。貴女が当代ですか」
そんな、ばかな、と彼女は胸の奥でうめいた。見透かされている。
どこまで?いつから? いや、そんなことより。
顔も上げられない。重量すら感じるほどの殺気が、はるの両肩を抑え込んでいる。
小菅甚助、そして師範代の矢倉新之丞の実力は把握していた。だが、こんな化け物が道場の奥にいるなどと、彼女は聞いていない!
「明日から、貴女の稽古は私がつけます。道場には寄らず、この庭にいらっしゃい」
よいですね。と、問われて、必死に首を持ち上げ、力なくおろす。その、とたん。
ふい、と空気が軽くなった。
はるは、解放されたにもかかわらず、その場に頽れた。
だめだ。勝てない。いや、逃げられない。これは、自分が太刀打ち出来るような存在ではない。
「では、そのように。よしなに、師範代」
遠ざかる気配に、ようやく息をつく。
ようやく少し回復した呼吸とともに、吐き捨てた。
「こ、これが晴願流っ……」
これが、小菅加代っ!
そのあと。ややあって。
「はる殿。たてますか?」
と、いつも通りの矢倉新之丞の声が聞こえた。
そして、返事をしたもののへたり込んでいる彼女を不憫に思ったのか。
やさしい師範代は、はるを道場まで、おぶって運んでくれた。
終
達人と、紙とペンと、忍者。(花の秘剣3KAC4版) 石束 @ishizuka-yugo
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