紙とペンと

新座遊

紙とペンと水

腹が減った。

1980年代半ばの東京。俺はまだ生まれていない。しかし、なぜか意識はサラリーマンの中にあった。

これは夢だろうか。しかし現実感がある。この空腹は本物だ。

俺はどうやら、各地の責任者を集めての月一回の合同会議の事務局として働いているらしい。

本来であれば、毎月の開催日は決まっているのだが、今回は、本部長の都合が悪く、リスケをしなくてはならなくなったので、余計な仕事が増えたのだ。

開催場所も今回は大阪にする、と本部長の鶴の一声で決まり、大阪の事務所の会議室を押さえる仕事も追加された。

会議の調整にあたって、一日がかりの仕事をしている。

そろそろ18時になろうとしている。机の上の灰皿に吸い殻が山のようになっている。俺は喫煙者のようだ。不健康な。というか事務室で吸うなよ、俺。

しかし、ほかの奴らはみんな帰宅しているのか、事務所内は閑散としている。24時間働く狂った時代はもうちょっと後のことなのかもしれない。

それにしてもこんな仕事で残業なんて、ばかばかしい。

俺が働き始めた21世紀であれば、関係者のスケジュールを見てから、都合伺いのメールを出して日程調整をするだけのことなのに、この時代はまだそのような便利ツールは存在しない。

各地のセンター長の都合を、電話で聞いてスケジュールのアンド条件を探る。

あちらが立てばこちらが立たず。紙とペンで全員が集まれる日をプロットしていく。関係者のスケジュールを一覧で見ることができるグループウェアが、いかに便利であるか、21世紀の俺は改めて実感する。

当時のサラリーマンは、なぜこのような不合理な仕事をしていたのだろうか。

ようやく、日程が決まった。お盆休みの直前ってのがなんとも微妙だが、そこしか空いてないんだから仕方がない。

我儘なセンター長は、せっかくの出張なのだから金曜日にしてくれ、と強い口調で言ってきたが、そんなものは無視だ。

これであとは開催通知のドキュメントを作成し、アジェンダとともに社内便で展開すれば、今日の仕事は終わりである。あと一息。

そこに、制服を着た女性がやってきた。

当時は女子社員に制服を着せるのが当然だったようだ。どんな趣味なんだ、この時代の奴らは。

まあ21世紀の会社でもその手の組織はいくつもあるのだろうけど、俺の業界では、そのようなものは根絶されている。

女性も同等の総合職だからである。能力に男女差なんてないのだから、制服で縛る必要なんかないはずである。

「お疲れ様、小腹が空いていると思って、下のコンビニエンスストアでおにぎりと飲み物を買ってきてあげたよ」

ずいぶんと馴れ馴れしい人だ。この俺と付き合っているのだろうか。

このサラリーマンの記憶を探るとすぐに答えが見つかった。来月結婚する相手のようだ。生意気な。

「ありがとう。あと少しで終わるからちょっと待っててくれるかな。飲み物だけ頂戴」

「はい、どうぞ」

優しいなあ。心に染み入るな。

渡された飲み物はペットボトルの水だった。このサラリーマンの深層がぎょっとした反応を見せたが、なぜだろう。

「お茶が売り切れてたから、水にしたんだけど、変かな」

「いや、変じゃないよ。水だって飲み物だからね」

そうか、俺のこの身体の持ち主は、それが当然とは思えない時代の人なのか。

「じゃあ私は着替えてくるから、早く終わらせてね」

まあ、幸せなんだろうな、このサラリーマン。効率の悪い仕事も、ヤリガイがあればそれでよい。

会議の日程は、俺の結婚式の1週間前になるが、まあ仕方がない。大阪なら飛行機か新幹線ですぐに行けるし帰ってこれる。朝からの会議なので前日移動かな。はやいとこ乗り物の予約をしておかないとね。


開催通知書。8月13日火曜日。大阪事務所にて合同会議を行います...


俺は21世紀に戻っていた。手には紙とペンと紙コップがあった。

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紙とペンと 新座遊 @niiza

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