25.千春


 結局、千春はずっと学校にいた。夕方まで図書室で勉強をして、それから帰路に着いた。

 日差しはもう弱かったが、夕凪の海岸通りは湿度の高い熱を孕んだままだった。もがみ荘に着く頃には、千春の体はじんわりと汗ばんでいた。

 玄関の鍵を開けて入ると、夏希のローファーが置かれたままだった。廊下の先にある台所も電気が点いていた。


「おかえり」


 台所へ入ると、夏希がなんでもないように出迎えた。彼はクッキングヒーターの前に立ち、ぐつぐつと音を立てている鍋を見ていた。


「なにしてるの?」


 と、千春が訊くと、


「夕飯。もうすぐできるよ」


 夏希は優しい声音で言った。視線は鍋に注がれたままだった。

 千春は彼に近寄り、鍋の中をのぞき込んだ。牛肉やしらたきや豆腐や野菜、えりんぎなどが煮込まれていた。醤油風味の甘いにおいがした。


「すき焼き?」


 千春は冗談のつもりで訊ねた。しかし夏希は「そう」と、はにかんで頷いた。


「夏に?」

「正確には、すき焼き風煮込みだから」

「え、なんで?」

「なんとなく。西城さんが驚くかなって」

「まあ、驚いたけど」

「制服ににおいうつるから、着替えてきなよ」


 そう夏希にうながされ、千春は二階へ言って部屋着に着替えた。

 一階へ下りてきた頃には食卓ができあがっていて、そのまま二人で『いただきます』をした。普段よりも早い夕食となった。

 千春は、訊きたいことがたくさんある気がした。けれどどれも言葉にならなかった。できたてのすき焼き風煮込みはおいしく、湯気で涙が出そうになった。食堂は冷房が効いていたため、季節感もあまり気にならなかった。


「明日、冬服、クリーニングに出すから。ポケットの中とか確認しといてくれる?」


 食事中、夏希がそんなことを訊ねてくる。千春は「あ、うん」とためらいがちに答えて、


「なんで明日?」

「今日、ワイシャツが汚れちゃって」

「東江君の?」

「ちょっと血がついて、どうせなら冬服も明日出しとこうかなって」

「え、怪我したと?」

「俺じゃなくて、野良猫がね。色々大変だったんだ」


 それから夏希は、その猫について長く語り始めた。

 大変だった、という割に彼は終始おかしそうで、楽しげに話していた。千春も適度に相槌を打ちながら、たまに笑みを浮かべながら聞いていた。それは愛想笑いではなかったし、夏希の方もそうであるように見えた。

 こうしてゆったりと、夏希の声を聞くのは久しぶりだった。抑揚に乏しい声は妙に落ち着いていて、聞き心地がよかった。千春は食べるのが遅くなった。


「これから、あの海岸に行ってみない? 夕涼みがてら」


 夕食後も夏希は話し続けていて、食器を洗い終わった頃、そう持ちかけてきた。千春は深く考えることなく頷いていたが、どうしてそういう話になったのかは、彼の話を思い返してみてもよく分からなかった。

 それでも二人でもがみ荘を出て、二人で海岸通りまで向かっていることは確かだった。夜空は雲一つない快晴で、星がぼんやり光っていた。星明かりは街灯から離れるにつれて徐々にはっきりして、海岸通りを行く頃には天の川の青白い流れが分かるまでになった。


「三毛猫、あそこに倒れていたんだ」


 と、夏希が車道の脇を指差して言った。


「息はあったけど、血まみれで、死ぬんじゃないかと思った」

「死なんでよかったね」

「うん、本当によかった」


 夏希は心の底から喜び、安堵しているようだった。

 千春も小さく笑い、


「その猫、私も会ってみたか」

「会えるよ。またあの病院には行くから」


 そこまで言って、夏希は思い出したように「あ」と声を挟み、


「そういえば、紗英さんのことで思わぬことが分かったんだった」

「え、なんで紗英?」

「まだ秘密」

「は? なんそれ」

「たぶん西城さんも、行ったらすぐ分かると思うから」

「くそが」


 千春は軽く夏希を小突いた。夏希は「ごめんごめん」と謝りながら千春の手を防いで、それから手を離さなかった。自然と互いの指が絡まり、それを機に会話がなくなった。

 石段を下って砂浜に降りると、打ち上がっていた無数の貝殻がパキパキと音を立てた。汐風がふっと吹き込んで、それはいつもよりにおいが強かった。砂浜を撫でる細波の音が優しく鳴り響いていた。


「七夕に星空を見るなんて、なんだかでき過ぎてるよね」


 沈黙を破ったのは夏希だった。彼は澄んだ瞳で空を見上げていた。


「私は、海ば見よるけん」


 千春はそっけないように答えた。


「天の川と海、どっちが綺麗だと思う?」

「ここの海はそんなに綺麗じゃなかよ」

「じゃあ、どうして海を見てるの?」

「波の音が落ち着くけん」


 夏希が目をつむり、


「確かに、落ち着くかも」

「いや、見よらんやん」

「え、音が気に入ったって話じゃなかったの?」

「別によかけど」


 千春はずっと海を眺めていた。わずかに反射した天の川や月明かりが遠く揺らいでいた。

 ふと、夏希が繋いでいた手を離す。千春はハッと彼を見た。

 夏希はポケットからなにかを取り出していた。よく見るとそれは小さな封筒だった。


「なんそれ?」

「西城さん宛てのラブレター」


 千春は一瞬、夏希がなにを言ったのか分からなかった。


「は?」

「恥ずかしいから、なにも聞かずに受け取って」


 封筒を手渡してくる夏希の声は、かすかに震えていた。千春は言われた通り無言で受け取ったが、中の便箋を取り出すと、


「なんでラブレター?」


 と、思わず訊ねてしまっていた。

 夏希は深い溜め息をつき、


「理由も、ちゃんと書いてるから」


 と、ばつが悪そうに苦笑した。


 千春は石段が濡れていないことを確認してから腰を下ろした。夏希もとなりに座り、スマホのLEDライトで便箋を照らした。

 二つ折りになっていた便箋を開くと、夏希の決して上手くはない文字が長くつづられていた。千春は徐々に早まる鼓動を感じながら、彼の文字をゆっくりと目で追った。



「小暑の候、お元気でいらっしゃいますか。俺は見ての通り元気ですが、この暑さのままだと近いうちに夏バテするかもしれません。その前に色々な話を西城さんとしておきたいと思って、だけどお互い不器用だから、手紙の方がたくさん伝えられていいかなと思い、書いています。


 結論から言うとこれはラブレターです。ほかの色々な可能性を考えましたが、やはりラブレターなんだと思います。


 俺は西城さんが好きです。これだけ書くとどうも陳腐のような気がしますが、これ以外に適当な言葉が見当たりませんでした。気の利いた言い回しが思いつかなくてすみません。


 ただ、西城さんを好きなのだと思い知ったここ二週間くらいは、とても辛いものでした。それまでの一年ちょっと、友達のようにも家族のようにも過ごしてきて、なんの気兼ねもなく話せていた時間が、急に緊張をともなうように感じられたからです。それは俺にとって未知の緊張で、恐ろしいものでした。


 そうするとなんだか、分からなくなってしまいました。西城さんのことが好きなのか、西城さんと気兼ねなく過ごせていた時間が好きだったのか、分からなくなったんです。それこそ大橋たちから『友達だけど夫婦っぽい』なんてからかわれていた時間が、今はどうしようもなく懐かしく思えてきます。そういうことでここ二週間は激しく混乱していました。


 今でも俺は、西城さんと恋仲になったと言ってよいのか分かりません。お互いに告白もしていませんし、仮にそういう、分かりやすい手順を踏んでいたとしても、それでその日から恋仲なのだと、胸を張って言うことはできない自分がいたと思います。この戸惑いはたぶん、二十歳になれば成人になるとか、そういうことに似ている気がしています。


 だから俺は、心のどこかでは、『友達だけど夫婦っぽい』なんて言われていた時間に戻りたいと思っていて、そのくせ西城さんを今以上にはっきりと、好きになりたいと考えているみたいなんです。なんだか矛盾しているようですが、それが俺の正直な気持ちです。


 きっともう、俺たちはただの友達には戻れない気がしています。このまま何事もなく進んでも、いずれ終わりを迎えようとも、いや、終わりのことなんてラブレターには不要ですね。すみません。


 この手紙を経たからといって、俺たちが友達以上の関係になったとは言えないかもしれないけど、ここのところ、西城さんもなにか不安がっているように見えたので、少しでも安心してくれる材料になってくれればいいなと思います。


 ややこしく書いてしまいましたが、もしも西城さんがOKしてくれるなら、俺と付き合ってくれると嬉しいです。そして、これまでと変わらない、飾らない二人のままで一緒にいれたらいいなと、心から思います。


 読んでくれてありがとう。


 P.S.

 これを読んでいる時、もしもとなりに俺がいたら、どうか振り向いてください」



 最後の文章を読み終え、千春は反射的に夏希を見た。

 瞬間、スマホの明かりがなくなった。夏希は千春を抱き寄せていた。彼の腕が背中に回り、弱い力で抱き締められた。

 ほどなくして、千春も彼の両肩を抱いた。それから互いに、友達のように抱き合って、友達のようにキスをした。軽く唇を合わせるだけの、響きの小さな口づけだった。


「手紙の感想とか、ありますか?」


 いくらかの時間が経った頃、夏希が訊ねてきた。ぎこちない丁寧口調だった。

 千春は潤んだ瞳を手紙に向けて、


「この、小暑ってなに?」


 と、なんでもないように訊いた。

 夏希は「ああ、なるほどね」とはにかみ、


「二十四節気の一つだよ」

「なんそれ」

「大雑把に言うと、季節の節目というか、変わり目を差す言葉。今日からちょうど小暑なんだ」

「七夕じゃなかと?」

「色んな言い方があるんだよ。その前が、たぶん西城さんも聞いたことあると思うけど、夏至と言って六月二十二日。更に前は芒種で、六月六日という感じで、大体二週間ごとに変わり目があるのが二十四節気」

「ふぅん、変わり目か」


 千春は呟くように言って、便箋を元通りに折る。

 封筒にしまおうとした時、中にまだ、小さな紙切れが入っていることに気づいた。取り出すとそれは、『クロール』と書かれた付箋だった。間違いなく千春の字だった。


「東江君、これって」

「さっき、冬服のポケットを確認してたら見つけたんだ」

「懐かしかね」

「ああ、ようやく、意味が分かったんだよ」

「え、まだ分かってなかったと?」

「うん。分かってしまうと、こんなに簡単なことだったんだなって、自分が恥ずかしくなった」


 夏希は前を見つめながら、照れくさそうに話した。千春も同じ方向を見た。暗い海と天の川の流れが水平線の果てで淡く触れ合っていた。


「感想、もうないの?」


 そう夏希に訊かれ、千春は「うん」と頷き、


「あとは私も、手紙で返すけん」

「えらく律儀だね」

「私らしくなか?」

「らしさは関係ないかも。俺だって、手紙を書くのは初めてだったから」

「あっそ」


 千春は立ち上がる。封筒をポケットにしまって、


「アイス食べたい」

「お金持ってきてないよ」

「私が出すけん」

「それは、らしくないね」


 夏希も腰を上げた。二人で石段をのぼって海岸通りに出て、やんわりと吹いた汐風に押されながら歩き始めた。手は繋がず、これといった言葉も交わさなかった。

 それからコンビニに立ち寄ったが、千春の手持ちが思いのほか少なく、あずきバー一本しか買えなかった。夏希は遠慮していたが、千春は二人で分けようと言って譲らなかった。帰り道はまた少しだけにぎやかになった。



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