「お帰りください」

月波結

紙とペンと

 放課後の教室に残ったのは優里ちゃんと茜ちゃん、わたしの3人だけだった。


「早く始めようよ」

「ちょっと待って。紙と赤ペンと……」

「10円玉、持ってきて怒られなくてよかったね。『お金は持ってきたらいたけません!』って大久保に怒られるかと思った」


 それはないな、と思う。

 ママは「緊急時に公衆電話が使えるように」って、1年生のときから10円玉を持たせている。それでも一度も先生に注意されたことはない。


「大丈夫でよかったよね」

 といつものんびりしている茜ちゃんがにっこり笑う。


「とにかく早く書かこう」

 優里ちゃんは大人っぽい黒いペンケースから赤いペンを、ノートの間から白い紙を取り出した。

「パパやママが使ってるコピー用紙。内緒でもらってきちゃった」


 それを机に広げると、赤いペンで中心に大きくハートを描いた。

「本当にやっちゃうんだね」

「今日子ちゃん、やるって言ったんだからやるんだよ。『有言実行』って言葉、知らないの?」

と怒られる。


 優里ちゃんとは仲良くしてるけど、実はちょっと苦手だ。言い方がいつもキツい。そんなふうに言わなくても、って思うことが多いし、もっと人の気持ちを大切にしたらいいのに、と思う。


「YES、とNO書くんだよ。英語だから緊張するね。わたし苦手だから優里ちゃんが書いてくれて安心」


 茜ちゃんとは1年生からずっと同じクラスで、おっとりしていて一緒にいて気が楽だ。

 友だちの中でも茜ちゃんが大好きなんだけど、口に出して言ったりしない。それで嫌な思いをする人がいるかもしれないし、茜ちゃんに迷惑がかかってもいけない。


 女子同士ってめんどくさい。

 好きなものを好きって素直に言うのがいいとは限らない。むしろ、黙っておいた方がいい事の方が多い。


「ハート、OK! あとは『あいうえお……』とその下にアルファベットを書けばいいね。アルファベット、間違えないように書かないと」


 A、B、C、……。

「間違えてない?」

「あの、優里ちゃん……。Dの向き、反対かも」

 茜ちゃんが申し訳なさそうに言葉にする。


「マジで? あー、やっちゃった……」

「大丈夫だよ。ほら、消して隣に書き直せばキューピッド様もわかってくれるよ」

「そうかなぁ? 教科書見て書けばよかった」

「気にしない」


 優里ちゃんは赤ペンで間違えたDを二重線で消すと、そこに正しくDを書いた。

「キューピッド様って本当にいるかわかんないしね。誰かが動かしてたりするんでしょ?」

「キューピッド様に聞かれちゃうよ……」




 そもそもキューピッド様の話を持ってきたのは茜ちゃんだった。


 茜ちゃんの好きな「魔女っ子さん」シリーズの最初にキューピッド様が登場する。「魔女っ子さん」が大好きな茜ちゃんは「実はね」と恥ずかしそうに、やってみたいんだと話した。


 それに怖いものはたぶんない優里ちゃんが乗っかって、わたしも一緒にやることになったわけだ。




「10円玉、ハートに置いて」


 誰もいない教室は、しんと音ひとつしない。閉め忘れた窓のカーテンが、風にふわっと揺れる。

「行くよ」

 3人の人差し指を10円玉にそっと置く。


「絶対に離しちゃいけないって。呪われちゃうって聞いたの」

「そんなの気にしなくていいよ。呪いとかないから」

 優里ちゃんはここまで来てもその調子だった。


「キューピッドさん、キューピッドさん、お越しください。お越しになりましたら、YESにお進みください」

 さっきまで何でもないって顔をしていた優里ちゃんも、心なしか緊張している。――その時、ついっと指が動いた。


「うわっ!」

 つつつ……と10円玉が滑るように動いて、YESのところをまるで塗りつぶすようにジグザグに動いた。

「え? 誰よ、動かしたの」

 驚いている優里ちゃんの顔を、わたしと茜ちゃんは見つめる。わたしたちを脅かそうと優里ちゃんが動かしたと思ったからだ。


「お、お戻りください」

 あわてて茜ちゃんが言うと、10円玉はハートの中にまるで動物がねぐらに入る時のように戻って行った。


「強いキューピッド様が来ちゃったのかもね」

 言わなければよかったかも、と言ったあとに後悔した。でも口から出た言葉は戻らない。

「まだ、本物かどうかわかんないよ」

 いつになく真剣な顔で優里ちゃんが言う。いつでも自信満々な優里ちゃんが怖そうにしていると、こっちまで怖くなってしまう。


「……何から聞こうか?」

「明日は晴れますか?」

 すいーっと10円玉は悩むことなく進む。

「あ、NOだ! 当たってる! 天気予報、雨だったもん」


「ふーん、動かしてるの、今日子ちゃんかな?」

 つつつ……とまた、ハートに戻っていない10円玉はNOをぐるぐると回り始めた。

「わかった、わかりました。失礼しました。えー、なんか怒らせちゃったかな」


「優里ちゃん、気をつけてね」

 お戻りください、と茜ちゃんが言うと10円玉はハートに戻った。


 その後、わたしたちは「今週の学テは難しいですか?」とか、「担任の大久保に恋人はいますか?」とかそんなようなたわいもないことをいくつか質問した。


「じゃあ、行ってみよっか」

「え? 優里ちゃん聞くの?」

「それが聞きたくて、茜ちゃん、やりたかったんじゃないの?」

 茜ちゃんは真っ赤になって下を向いた。


「キューピッドさん、キューピッドさん、茜ちゃんの好きな人は誰ですか?」

「ちょっと、優里ちゃん、ひどいよ」

「あ、動いた!」

 また10円玉は動き出す。YESやNOのような簡単な答えじゃないのに、どんどんひらがなの方に走っていく。


「キューピッド様、すごっ!」

 さ・と・る、と淀みなく丸をつけた。

「当たってるよね? 茜ちゃん」

 茜ちゃんはかわいそうなくらい赤くなって、今にも机の下に隠れてしまいそうだった。


「茜ちゃん、10円玉から手、離さないでよ」

 泣きだしそうな顔をして、茜ちゃんは小さくうなずいた。


「じゃあー、さとるくんの好きな女の子はここにいますか?」

 やめてよ、と茜ちゃんは声に出した。それでもキューピッド様は止まらずに真っ直ぐ向かった。


「えー? NOだってよ! さとるくんと茜ちゃん、すっごくいい感じなのにねぇ」

 だからもういいよ、と茜ちゃんは反論した。それでも優里ちゃんは質問を止めようとはしなかった。


「じゃあ、さとるくんの好きな子はこのクラスにいますか?」

 またしてもNOに丸がつく。茜ちゃんは下を向いて、ただ10円玉に指を置いているだけになった。


 優里ちゃんの意地悪はひどすぎる、と思った。茜ちゃんがさとるくんを好きだと知ってて、NOに丸をつけるなんてひどすぎる。

 頭にきたわたしは、10円玉から手を離そうかと思った。でも呪いが怖かったし、離すより先に指が動き出す。


「え、クラスにも好きな人はいないの?」

 優里ちゃんが大きな声を出す。わざとらしい。

「じゃあ、うーん、そうだなぁ。『さとるくんと将来、結婚する人を教えてください』」


 今までにない力強さで指が引っ張られる。怖い、と思う。誰かが、「わっ」と小さく叫ぶ。指が離れない。

 10円玉は激しく、紙が破れそうな程の強さでNOに丸を書き始めた。


 NO! NO! NO! ……

「結婚しないってことなのかな……?」

 YES! YES! YES! ……

「キューピッド様、お戻りください」

 何ごともなかったかのように、10円玉はハートに戻った。


「……今、すごく怖かった」

「え? 今日子ちゃんが動かしたんじゃないの?」

「動かしたりしないよ。呪われたらいやだもん」

「じゃあ茜ちゃん?」


 わたしと優里ちゃんは茜ちゃんの顔を同時に見た。

 茜ちゃんは涙をにじませて、首を小さく横に振った。

「……茜ちゃん、わかった、わかった。もう終わりにしようよ、ね?」


 さすがに優里ちゃんもこりたのか、10円玉に話しかける。

「キューピッド様、お帰りください」

 すーっと動き出した10円玉は思ってたのと違う方向の……NOの上で円を描いた。紙は嫌な音をたてて机の表面まで削り始めそうだ。


「ねえ! どうしたらいいの?」

「お帰りください」

「……怒ってるんじゃないの? 疑ったから」

「お帰りください! お帰りください!」

 それでも激しくNOと言い続ける。


「怖いよ……」

と言った茜ちゃんを、心のどこかでちょっとだけ疑う。優里ちゃんの意地悪に仕返しをしてるとしたら、仕方ないことのように思えた。


「帰ってくれそうにないよ! 指が離れちゃうよ!」

「なんでこんなに力が強いのかな? 指、離したら呪われちゃうよ」

「誰も離したらダメだよ」


 もう、丸を描いてるとは言い難い無軌道な動きで、好き勝手に10円玉は動いた。その度に指は引っ張られてまるで10円玉に吸いついているようだった。


「最終下校時刻になっちゃうよ。先生が見回りに来ちゃう」

「……3、2、1で指を離そう」

「だって呪われちゃう!」

「帰れなくなっちゃうよ!」


 その話をしている間も、せわしなく紙の上を走る。指が疲れた。優里ちゃんの言う通りかもしれないし、そもそもキューピッド様なんてただの迷信かもしれない。


「わたし、もう疲れたよ。ママも遅くなって心配してると思う」

「今日子ちゃんも賛成ってことだよね? じゃあ多数決で決まりね」

 茜ちゃんは、そんな、と何か言いたそうにしていたけれど、賛成した。


「3、2、1……!」

 手を、引き剥がす。

 自分の指なのに、自分のものじゃないみたいに重い。千切れるんじゃないかと思う。

 コトン、と軽い音をたてて、10円玉はただの10円玉に戻った。


「……」

「これで、帰れるね……」

「紙を」

「7つに破くんだよね?」

 1、2、……と数えながら優里ちゃんは破いて教室のゴミ箱に捨てた。


 ランドセルを背負って、3人で帰る。

「ちゃんと帰ってくれたのかな?」

「やめてよ。怖いからその話はやめよう!」

 茜ちゃんは何も言わずに、それまで我慢していた分、大粒の涙をこぼしながらうえーん、と泣いた。






 翌朝の朝の会で先生はこう言った。

「交通事故で、さとるくんは亡くなりました」


 さとるくんの席には誰も座っていなかった。



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「お帰りください」 月波結 @musubi-me

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