第2章:Thank you,my twilight ②
「いらっしゃいませ」
カウンターを見渡す。客はただのふたりきり。二人の間には四人分の席が空いているから、それぞれ一人客のように見える。強面の男性がひとり、そして……壮年の女性がひとりだ。悦子おばちゃんは、確か今年で58歳になる。この壮年の女性がそうだとしたら、あまりにも年をとりすぎているように見えた。
僕の記憶の中の悦子おばちゃんは、やたらと気が強くて面倒見のいい肝っ玉母ちゃんみたいな人だった。顔には活気が満ち満ちていて、僕と姉のような家族に不信感のある人間に、母親や叔母や祖母のあたたかさを教えてくれた。悪いことをしたら叱ってくれ、良いことをしたら褒めてくれ、母をしらない僕から見ても手本のような母だったように思う。
それが、入店した僕の顔を見るその女性は、顔がやつれているようだった。
「悦子、おばちゃん……なのか?」
信じられない想いもあるが、面影はある。
「……スグル?」
驚くその女性は、確かに悦子おばちゃん本人だった。昔よりも声がしゃがれていて、苦労したんだろうなあということがなんとなく伝わってくる。とりあえず、僕は悦子おばちゃんの隣に座った。スズさんは僕の隣に静かに座り、男性バーテンに「ストレンジカメレオン二つ」と注文している。
あの日の後日、ストレンジカメレオンはブラヴォド・ブラックウォッカという黒いウォッカに、チェリーブランデーと絞ったライム、ブラックペッパーをシェイクしたものであることがわかった。要はとんでもなく強い酒だ。
ただ、今は最初からそれくらい強い酒でないとダメだと思った。スズさんがその空気を察してくれたのか、蚊帳の外なのが気に食わないのかはわからないが、とても助かる。
ストレンジカメレオンを作るバーテンを眺めながら、悦子おばちゃんへの言葉を探す。何が聞きたかったんだっけ、何を言いたかったんだっけ……。なんだかやつれてしまった悦子おばちゃんの顔を見ると、それまで考えていたことが全て吹っ飛んでしまった。
僕なんかが、今のこの人にかける言葉が、あるのだろうか。
「そちらの方は?」
沈黙を破ったのは、悦子おばちゃんだった。スズさんを指すその顔は、目が不自然なほどに見開かれていて少し怖い。
ただ、それも無理はないだろうな。九年前死んだ姉さんの面影を濃く残す女性がいるというだけでも驚くことなのに、その人を僕が連れているということでさらに驚いたに違いない。それに、怒っているに違いないんだ。
「山本鈴さん」
「スズ?」
「同じ名前、漢字も同じ」
「そんなことあるの?」
「どうやらあるらしいよ」
気づけば、目の前にストレンジカメレオンがあった。悦子おばちゃんは怪訝な顔をしながら、とりあえず自分のグラスを持つ。泡が消えているが、ビールらしかった。僕とスズさんもグラスを持ち、それぞれの疑問を抱いたまま乾杯をした。
グッと、文字通り杯を乾かす。
複雑な味と、強烈なアルコールの風味が全身を包み込み、クラッとした。
「……信じられないわ」
「僕もそうだ」
「そうよね」
「今まで、何をしていた?」
僕が問うと、悦子おばちゃんは困ったように眉尻を下げて、目の前のグラスを見つめている。グラスは悦子おばちゃんの顔を少し反射しているが、悦子おばちゃんの目には何も映っていないのではないかと思える。
「そうねえ」
悦子おばちゃんが、ふっと息を吐いた。
「何も、できなかったわ」
そう呟く声は、今にも消えそうだった。隣にいる僕くらいにしか聞こえないだろう弱弱しい声だったが、その声には少なからず芯が通っている。芯の通った強い女性という僕の中の悦子おばちゃん像は消えていないらしい。
「どこにいたの?」
問いながら、グラスをカウンター奥に突き出し、カウンターをトントンと指で二度叩く。男性バーテンが手際よく、缶ピースと灰皿を用意し、グラスを一度引っ込めた。僕はピースを二本取り、一本を悦子おばちゃんに渡し、ポケットからライターを取り出した。
「あら? あのライターは?」
「ああ、今は使ってないよ」
「そう」
「とりあえず、吸いなよ」
缶ピースは、僕らがいつも吸っていた銘柄だ。ウィンストンを僕が吸うのは、刺激で頭をスッキリさせるためだが、ピースは違う。芳醇な香りと甘さのあるバージニアは、僕ら家族の間では団らんのために吸うものだった。二週間前にこの店に再訪した際、男性バーテンの趣味でピースを置いていることがわかり、親近感を覚えたんだ。
僕と悦子おばちゃんは、並んでピースをふかす。
視界の左端のほうで、スズさんもまたピースに手を伸ばしているのが見えた。
僕の目の前には、再びストレンジカメレオンが置かれる。
「それで、どこにいたの?」
今度はゆっくりと、ストレンジカメレオンに口をつけた。
「どこにも行けなかったわ」
「……そか」
それは、僕がよく感じている無力感に似ているのかもしれない。お前には何もできないと言われているような気持ち、自分ひとりではどうにもならないという気持ち。姉さんのいるところに行こうにも、自分にはそうすることすらもできないという気持ち。。そう考えると、なんだかやるせなかった。
「スグルは?」
「僕もそうだよ」
視界の端で、スズさんが咽ている。ピースの煙を肺に入れたのだろう。
「学校は出た?」
「高校はね」
「大学は?」
「神崎さんが学費出してくれたけど、中退……いや、除籍」
ストレンジカメレオンが、妙に苦く感じる。
「ごめんね」
悦子おばちゃんが謝ることじゃないのにな。
「今日はなんで?」
全身が焼けるように熱い。
「木屋町の空気をね、吸いたくなったのよ」
喉が焼けそうだ。
「もう帰ってきたの?」
悦子おばちゃんが、ピースの先に溜まった長い灰を灰皿に落とす。それからビールを飲み干すと、小さなキャメルのバッグから紙とペンを出した。「ええとね」と何度も繰り返しながら、紙に住所と電話番号を書いている。その住所は、京都市左京区岩倉だった。
「少し離れてるけど、京都にはね」
悦子おばちゃんが僕に紙を渡しながら言った。
「岩倉かあ」
「スグルは?」
「僕は一乗寺。名刺渡しとくね」
ポケットからくしゃくしゃの名刺を渡す。悦子おばちゃんは「へえ」と言いながら名刺をじっくりと見つめる。
「携帯は?」
「持たない」
「どうして?」
「縛られてしまうから」
悦子おばちゃんが、名刺を大事そうに財布に入れながら、「ふうん」と言う。ふと、スズさんが何をしているのか気になって見てみると、カウンターに置いてある特撮フィギュアを手に取って観察していた。スズさんは不用意に会話に入ってこようとせず、自己紹介をさせろとせがむこともなく、ただじっと酒を飲んでいる。
ただ、僕が気にしているのを見ると、カウンターを二本指でトントンと叩いた。僕はポケットからウィンストンのイナズマメンソールを出し、スズさんの前に置く。すると、スズさんが今度は少し乱暴にトントンと叩いた。
「あ、そうか」
ライターをスズさんに渡す。
悦子おばちゃんが、その一連の流れをじっと見ている。
「……長いの?」
「いや、1カ月前ここでね」
「そうなの」
僕の口から、ため息が漏れる。
「今うちに居候してるんだ」
悦子おばちゃんの目が、これまでより大きく開かれた。
スズさんがカウンターに少し身を乗り出して、悦子おばちゃんに「どうも」と軽く会釈する。悦子おばちゃんもまた会釈している。目を大きく見開いて、スズさんの顔をじっと見つめたまま。スズさんが少し愛想笑いをし、身をひっこめた。
「居候ねえ……」
「お世話になってます」
「スグル、もういいの?」
「そういうわけじゃないんだ」
マルもそうだったが、みんなどこかで僕が姉さんのことを吹っ切るのを期待しているのだろう。それだけ心配してくれていて、僕のことを大切に思ってくれているということなのかもしれない。
――ごめん、そんな日は、一生来ないよ。
「そうよね」
「うん」
「そのお酒、うまい?」
「ああ、辞めといたがいいよ」
「なんで」
「超強い」
「飲みます?」
スズさんが自分のグラスを悦子おばちゃんに差し出そうとしている。僕は「おい」と言って静止した。悦子おばちゃんは、昔からお酒が強いわけじゃない。
そういえば、一度姉さんと飲み比べをしたことがあったな。姉さんはウイスキーをチビチビとではあるが、ラッパ飲みするような酒豪の酒浸りだ。焼鳥屋でボトルをキープすれば、その日中に無くなり、キープにならないことが多かったくらいだ。一方、悦子おばちゃんはゆっくり大事そうに少量を飲む人だから、飲み比べは全く勝負にならないんだ。それでも姉さんに食らいつこうとした悦子おばちゃんは、その日、救急車で病院に運ばれた。
「一口だけ」
九年ぶりに酒を飲む悦子おばちゃんを見たけど、やけに飲みたがるな。
「舐めるくらいならね」
「よっしゃ」
「どうしてスズさんが喜ぶんだよ」
スズさんが、悦子おばちゃんに自分のグラスを渡す。1カ月間でわかったスズさんの数少ない情報は、スズさんがやたらと飲ませたがりということだ。今は特に見えていないが、たぶんスズさんの顔は今、赤くほころんでいることだろう。
悦子おばちゃんが「ありがとう」と言ってグラスを受け取り、舐めるくらい少量のストレンジカメレオンを口に含んだ。
「うまいけど、確かにこれは……」
口を軽くおさえて、スズさんにグラスを返す。
「やばいよね?」
「やばい」
「ただ、懐かしい感じ」
悦子おばちゃんがピースを取りながら言った。僕はライターを悦子おばちゃんに渡し、「そうやんなあ」と返す。
最初は風体が変わったとか、老けたとか、目が怖くなったとか色々考えていたけど、やっぱり悦子おばちゃんは悦子おばちゃんだ。この人の前じゃあ、僕の仮面なんて砂上の楼閣みたいなものだなあ。
「あ」
なんだかじんわりと頭がクラクラしてきた。
「なんも食べとらんやったね」
「そうなの?」
「はい」
何かを食べる予定で木屋町に来たのを忘れていた。何も食べずに強い酒をガバガバ飲んだら、クラクラしてくるのも当然だろう。少し安心したからアルコールが回ってることに気づいたのか。
とりあえず、悦子おばちゃんの住所と連絡先はわかった。元気だとはお世辞にも言えないかもしれないが、とりあえず芯は変わっていないみたいだ。これ以上胃と肝臓を傷めつけてまでここにいるよりも、また今度ゆっくりと話をすればいい。九年間という積もり過ぎた話は、また長い時間をかけてじっくりと聞こう。
「悦子おばちゃん、とりあえずご飯食べに行くわ」
「わかったわ、色々な話はまた今度ね」
「もうよか?」
「ああ、付き合わせて悪いな」
僕らは立ち上がり、それぞれが飲んだ分の代金をちょうど支払う。悦子おばちゃんに「また今度ゆっくりね」と言い、悦子おばちゃんが「うん」と言うのを待って、僕らはカメレオンを出た。
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