第2章:Thank you,my twilight ①

「ご飯まだなん?」

 仕事のクローズ作業をしている僕の後ろ……ベッドに座っているスズさんの声がした。カメレオンに行った日から1か月が経つが、当たり前のようにスズさんは僕のベッドを陣取っている。

 そして、僕はあれから新しい契約を取り付け、また中途半端な仕事を続けていた。今度文字単価は3円、以前の経験を汲んでくれたのか、フリーライターとしては非常に高水準だ。

 僕なんかに、馬鹿なクライアントだな。

「働かないのに飯ばっか食ってたら太るぞ」

「スグルくんも似たようなもんや」

 デスクワークをしている人間と、食っちゃ寝している人間との消費カロリーの違いは、確かにほとんどないだろう。ただ、少なくとも脳がカロリーを欲する正当な理由にはなっている。

「違うだろ」

「細かいこと気にし過ぎばい」

 スズさんが笑う。

「良いことを教えてやるが、今時の若者は“ばい”なんて言わんばい」

「三十前半やしな、若者やなかよ」

 クローズ作業を終え、パソコンをシャットダウンした。


「前から思っとったんやけど、博多弁詳しいな」

「……」

 少しの間、沈黙が部屋に流れる。

「家族が福岡なんだ」

 この1か月の間、お互いに家族という言葉は全く出していない。それどころか、お互いの話というものをほとんどしていなかった。ただ一緒に住み、同じ飯を食い、同じ酒を飲み、ぐだぐだとしたモラトリアムを送っていたのだ。帰る場所が無いと言うスズさんに家族の話を聞くほど野暮ではないし、スズさんもまた自分のことを聞かれたくないからか、僕の家族のことも聞かなかった。

 出会って1か月、はじめての「家族」という言葉に、スズさんは1分ほど閉口する。

「その割には博多弁喋りよらんやん」

 僕は、スズさんと向かい合うように椅子を回した。

「家族と言っても、血が繋がっているわけではない」

「あ、そうなん」

 スズさんの目が、僕を見ない。

「そう」

 僕の口から、ため息が漏れる。

 これ以上は、今話すことではないと思った。


「とりあえず、今日は食べに行くか」

「う、うん!」

 スズさんが、慌てて服を着る。

 僕はゆっくりと一張羅のスカジャンを羽織り、財布をジーンズのポケットに入れて家の鍵をデスクの引き出しから取り出す。鍵を人差し指でくるくる回しながら、時計のない壁を眺める。

「あ」

 ジーンズを履きながら、スズさんがぽつりと声を漏らした。

「ん?」

「食べるやなくて、飲むやない?」

「うるせ」


 スズさんが服を着るのを待って、僕らは木屋町通りに向かった。

 通りにはチラホラとキャッチの男たちが出ていて、呼び込みの準備を始めている。この時間だとキャストの女性による客引きをしていないから、特に目の保養になることはない。ただ、通りを少し三条方面に進んだところにある木屋町ビルの前に、昔馴染みのマルという男が立っていた。最後に会ったのは二年前。まさか、ボーイになっていたとは。

「あ……! お久しぶりです!」

 声をかける前に、声をかけられてしまった。スズさんが僕を見ているし、マルもスズさんを一瞬だけ見た後、じっと僕を見ている。

「戻ってきてたって本当だったんですねえ」

 スズさんが小声で「誰?」と囁いている。僕もまた小声で「丸山くん。昔一緒に遊んでたんだよ」と返す。マルは若干鼻息が荒く、「いやあ、兄貴も帰ってきたかあ」と吐息交じりに呟いた。

「待て、兄貴もってなんだ」

 聞くと、マルが目を丸くした。

「あれ? 今日はそれ知って来たんじゃないんですか?」

「ただ、この同居人と飯食いに来ただけだ」

「同居人! もう吹っ切れたんすね!」

 輝いているマルの目を、僕は直視できなかった。

「いや、そういうわけじゃない」

「なあんだ」

 そう言うと、マルの目の輝きは失われたが、それでもまだ興奮気味だ。その戻って来た誰かというのは、僕よりも長く遠くこの街から離れていた誰かだろう。それも僕に関係のある人と来れば限られてくるが、まったく見当がつかない。


「それで、誰が戻って来たって?」

「あ、そうそう! 聞いて驚かないでくださいね」

「妙に引き延ばすなよ」

 マルが、深呼吸をする。

 スズさんは微妙に僕の影に隠れて、何も言わずにいた。

 マルの口が、ゆっくりと開いていく。

「悦子おばちゃんですよ!」

 まさかの名前だった。

 その人は、僕と姉を育ててくれた家族であり、恩人だ。母親のようで、叔母のようで、祖母のような……とにかく、とても大切な人である。悦子おばちゃんとは、姉が死んだ9年前から全く連絡を取っていない。

 いや、連絡が取れなかったんだ。

 木屋町中が心配していた。

 僕もそうだ。

 その人が、帰ってきた?

「おばちゃんが……」

 やっと出た言葉がそれだった。

「はい!」

「確かだろうな?」

「もちろんですよ! カメレオンに入るところを見ましたから」

 聞きたいことが山ほどある。知りたいことがたくさんある。今まで何をしていたのか、姉が死んだとき一体どうしていたのか、どうして連絡が取れなかったのか……。どうして消えたんだ? どうして今まで何も言ってこなかった? 文句も言ってやりたい。


「行ってみる」


 息が荒く、景色が流れるのが早い。僕は今、小走りしているのか。

「なあ、誰なん?」

 スズさんが同じく小走りをしながら聞いてきた。

「恩人、家族、親、祖母、そんな感じ」

 バー・カメレオンのある大心ビルのエレベーターに乗る。

「9年ぶりだ」

 エレベーターが動き出すと同時に僕がそう付け加えると、スズさんがため息をつく。

「9年か……」

 エレベーターが止まる。

 バー・カメレオンの扉に手をかける。

 深呼吸。

 よし、行こう。

 扉を、開けた。

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