はんぶんこ人間

三田ゆう

第1章:ストレンジカメレオン

 フリーライターという仕事をすればするほど、自分が嫌になる。

 糸井重里のようにあたたかい文章が書けなければ、星新一のようにハッとする文章も書けやしない。大学生の卒論よりもお粗末な文章を、ただ腐ったように、毎日量産している。

 そんな仕事をすればするほど、お前はただひとりきりでは、何者にもなれないのだと誰かに言われているようだ。昔はもっと、自分は特別な存在であるように思っていたもんな。孤児であること、友達がいないこと、周りにできることができなかったこと……。それら全部が、自分の優越感になった。

 七つ歳が離れた姉がいたことも僕の優越感であり、誇りであり、また、自分が特別であることの証明だったように思う。姉と一緒なら人にできないこともでき、人にできることが二人にできない道理がなかった。二人で一緒に全能感に浸り、「ずっと一緒」と笑い合う。

 ある日、ビッグ・ピートをラッパ飲みしながら姉が言った。

「君はライターになりなさい。私はバーを開くから」

 支離滅裂だと思った。

 姉がバーを開くなら、どうして僕はライターなんだ。

 ただ、なんだ、約束したから。

 ただ、今、姉はいない。

 僕はそう、無だ。

 無駄。

 何かがあるとしても、0.5人分の能力と0.5人分の感情だけ。


 液晶の中で、文字列が躍る。

 僕の脳と指先が、文字列を踊らせるために必死になっている。君はどうしてそんなに必死なんだと、僕は自分自身を眺めながらふと思う。目の前で踊る文字列が、1文字あたり2円のお金に見えてくる。僕が躍らせているのはお金であり、無意味にお金を追いかけ続ける自分自身でもあるのだ。

 カタカタカタ、と無機質な音が名前の無い音楽を奏でる。

 もっとも、音”楽”というほど楽しくはない。

 ただの音だ。


 そのまま何時間かお金と自分を躍らせ続け、ただの音を奏で続けたが、僕はピタと手を止めた。「終わり」とポツリ呟いて、ヤニで汚れた壁を見る。時計がかかっているわけではないのに、時間が知りたいときに壁を見る癖が付いてしまった。

 今日書いた文章の文字数を足し、それに2を掛けて今日の稼ぎを把握する。約1万文字、約2万円。4時間仕事したから、時給は約5千円だ。気が向いたときに4時間くらい書いて、気が向かないときには朝から晩までぼけっと本や映画に浸る。


 半端な仕事だ。

 半端な生き方だ。


 パソコンをシャットダウンしようとしたとき、ポーンと音がした。仕事で使っているチャットツールの受信音だ。携帯電話もスマホも持っていないから、チャットで連絡を取っている。相手はクライアントしかいない。

「なんだよ」

 ため息をつきながらチャットを開く。


 WEB事業凍結により、本日納品分で契約は打ち切りにさせていただきます……? WEB事業凍結により、本日納品分で打ち切りにさせていただきます。ええと、『違約金として月の報酬の平均額を半年分先ほど振り込ませていただきました』か。

 ガクッと肩が落ちる。

 半年分の報酬というのは、契約を切る際には「半年前に通知する」という取り決めに違反するからだろう。ありがたいのだが、律儀すぎる。あまりにも自分が惨めになるほど律儀だ。

 ――クソッタレ。

「どうしよう」

 新しいクライアントを探す気力すら沸かなかった。なんだか、疲れたな。姉さんが自殺して九年、思えば僕は無理をし過ぎていたんだ。なあ、姉さん、生きるのは、難しいね。凄くスゴク、難しいんだね。

 姉さんと約束をしたから、半端な仕事も半端な生き方も続けてきた。だけど、考えてみればあの約束はもう二度と叶いっこないんだ。誤魔化しに過ぎないよ。あまりにも空虚だよ。

 何のために、生きてんだろう。

 薄黄色い壁と剣山のように無数のタバコが突き刺さったままの灰皿。仕事用デスクとベッドだけの空虚な部屋。クローゼットを開けると、そこには服が一着しかない。九年前のクリスマス、宙ぶらりんになった姉さんの足元に置かれていた、なんだかよくわからない柄の刺繍が施されたスカジャンだ。

「久しぶりに、行くか」

 僕は、スカジャンを裏返しに着て、ジーンズのポケットに財布をねじ込んだ。

 人は死ぬ前に故郷に帰ると言う。

 僕は、自分が育てられた街、京都木屋町に向かうことにした。


 19時の木屋町は、ギラギラとしたネオンがチラホラと輝き始めていた。梅田の堂山・兎我野町や難波ほどギラギラしていない、木屋町の控えめなギラギラさが目に心地よい。同時に、肌寒さを感じた。

 変わったような、変わらないような木屋町通り。枯れた木が無作法に突っ立ち、風俗店とキャバクラと飲み屋が節操なく並んでいる。来てみたはいいものの、特に何もすることがない。

 気が付けば、二度も木屋町通りを往復している。

 表に出てき始めたキャッチが、「古賀くん」「お久しぶり」と声をかけてくるが、今はその言葉に何も返せる余裕がなかった。

 なんだか嫌な気持ちになる。

 帰ろう。

 そう思ったとき、ふと、見慣れない店の看板があることに気がついた。

 バー・カメレオン、当ビル4階……? 近年はフクロウカフェや爬虫類カフェなど、変わった形態の店が多いと聞くが、ここにはカメレオンがいるのだろうか。カメレオン。環境によって器用に色を変えることのできる爬虫類。

 僕とは、最も遠い動物だ。

 そのはずなのに、気が付けばエレベーターに乗り、4階で降り、中のまったく見えない重厚な扉を開けていた。


「こんばんは」

 入るとすぐ、カウンターから男性と女性の入り混じった声がした。

「こんばんは」

 客は、カウンターにいる女性ひとりだけ。

 僕はその女性の二個隣の席に座り、「ジントニック」と注文する。バーではウイスキーを飲みたいが、仕事上がりの最初の一杯は炭酸と決めていた。女性が僕をチラッと見た気がする。貰ったおしぼりで手を拭き、店内を軽く見渡した。

 カウンターには、店主の趣味なのか、特撮のフィギュアが飾ってある。カウンターはシックな木目調で、ダークブラウンが暗めの照明を控えめに反射し、非常に心地がいい。オーセンティックと言えそうな雰囲気だが、それを特撮フィギュアが台無しにしている。

 カメレオン、という店名とはやや似つかわしくない。

 そういえば、カメレオンもいないようだ。


「はい、ジントニックです」

「ありがとう」

 ライムの浮いたほぼ透明の炭酸が喉を通るのが、なんとも心地いい。炭酸はのどを痛めるという話を聞くが、その痛みも含めての清涼感なのだと思う。シュワッとする涼しさと、若干の喉の痛み、そしてライムの刺激とがあってこそのジントニックだ。

 ただ、ここのジントニックはやや濃い。


「お客さん近いんですか?」

 二人いるバーテンのうち、男性のほうが声をかけてきた。

「まあそれなりに近いか」

「電車で?」

「ああ、京阪と叡電で」

「微妙な近さですね」

「そうだなあ」

 確かに微妙だなあと、ジントニックを煽りながら思う。この人は結構話しかけてくるタイプのバーテンに見えるが、女性の方は全くだ。二個隣の方の女性はというと、ロックグラスの氷の解けるのをじっと見つめている。何やら訳あり風だ。

 その女性は胸元の開いた服に、モコモコとしたあたたかそうなコートを羽織っている。木屋町通りではよく見る格好だ。


「おかわり何にします?」

 観察していると、ジントニックが空いてしまったようだ。

「ボウモア……いや、カメレオンぽいカクテル作れる?」

「はい、オリジナルですが」

「じゃあお願い」

 気になることと言えばもうひとつある。

 この店がいつ出来たかということだ。

 僕は小さい頃から木屋町で育てられたから、この街の店と人のことなら大抵は知っている。この街の雑居ビルやテナントビルは軒並み埋まっていた。しかも、どの店もなかなか潰れず、新店オープンという話は年に一度聞くか聞かないかというくらいだ。

 とはいえ、僕はもう2年くらいこの街から離れていた。

 僕が来ていない間に、出来たのだろうか。


「どうぞ、ストレンジカメレオンです」

 差し出されたカクテルは、真っ黒だった。

 僕みたいだ、と思った。

「カメレオンぽくねえな」

 男性バーテンはフッと笑い、「そうですね」と言う。

 視界の端で、二個隣の女性がこちらを見ているのが見えた。

「カメレオンのようにはなれないという想いを込めました」

「ピロウズの曲みたいだな」

「知っとるん?」

 透き通ったような、濁ったような声がした。

 二個隣の女性だった。

「ああ」

「いくつよ?」

「25歳」

「……ん、それでよう知っとうねえ」


 彼女の話すのは、明らかに関西の言葉ではなかったが、僕はそれに聞き馴染みがあった。もう何年も聞いていない懐かしい言葉に、胸の奥の方が冷たくなる。耳の奥がざわざわとし、何かが詰まっているような感じがする。

 福岡の方言……。

「姉がよく聞いてたから」

「私もよう聞きよったわ」

 ただ、少し違和感がある。

 わざとこの言葉を話しているような不自然さ。

「君、名前は?」

「古賀優、優れたと書いてスグル」

 目を、逸らしてしまった。

「私は山本鈴」

 顔を見て、息を呑んだ。

 わざとらしく福岡の言葉を喋る女性は、九年前の姉さんと生き写しだった。正確に言えば「九年経てばこうなっただろう」という僕の想像の姿に生き写しだ。と言っても、姉さんの写真も無く今の今まで顔も声も忘れていたが。

 思い出してしまった。

「私もストレンジカメレオンお願い」

「かしこまりました」

「いっちょん手つけよらんやん」

 指摘されて、ストレンジカメレオンを飲み干す。

 懐かしい、味がする。

 背伸びして煙草を吸っていた姉の匂い。

「お待たせしました」

「ばり黒かねえ」

 隠す場所を探していた思い出なのに、思い出してしまった。姉さんのことなんて、宙ぶらりんになっていたあの姿と、約束以外は忘れたと思っていた。姉さんとの数々の思い出は、僕と姉の存在をこの世に明かし、僕を生かしてしまう。

 僕の人生は、すぐにパチンと音がして弾けてしまう幻だから。

 死を意識した途端、思い出すなんてことがあるかよ……。


「なんや複雑な味やねえ」


 少し冷静にならなければ。

 僕は、スカジャンのポケットから煙草の箱を取り出し、火をつけた。ウィンストン・イナズマメンソール8mg。一部ではまずいという声があるが、慣れれば最高にうまい。香ばしい煙草の香りと、痛みが強いメンソールの刺激が心地いい。咽る奴も多いが、この強い刺激がぐちゃぐちゃとした脳を、一瞬でスッキリとさせてくれるんだ。

 僕は改めて、ストレンジカメレオンを見つめた。

「確かに、複雑な味だが、俺は嫌いじゃない」

「ありがとうございます」

 男性バーテンが頭を下げる。

「なあ、スグルくん」

 スズさんが、椅子をひとつ詰めてくる。

「飲もう」

 薄暗い照明のせいでわからなかったが、近くで見ると、スズさんの目元に涙が這った跡のようなものが見えた。

「ああ」

 僕らは、グラスを交わした。


 強烈な光に目を覚ますと、僕は自宅の床の上で寝ていた。

 体重が突然10キロ増えたのではないかというほどに、体が重い。

「飲み過ぎたか」

 無理矢理体を起こし、煙草を吸う。

 昨晩スズさんと乾杯してからのことはあまり覚えていないが、とにかくたくさんストレンジカメレオンを飲み交わしたことは覚えている。全てを忘れてしまいたかった。なんだかもうヤケクソで、二人の腕を交差して一気飲みをし、男性バーテンに名刺を渡し、それから店を出た。その頃にはすっかりと人通りが減っていて、夜遅くの木屋町の風がやたらと骨身に沁みたのを覚えている。昔から馴染みのあるヘルスの店長が店前の掃除をしていたから挨拶をし、それから、それから、なんだったか……。


 結局、見つけてしまった姉さんとの思い出は、酒で流れてはくれなかった。


「ん……」

 テレビもラジオも無い俺の部屋に、ふと、妙に色めかしい声が響く。

「は……?」

 声の方向を見ると、ベッドがこんもりと盛り上がっていた。

 一瞬、ベッドがひとりでに軋んだのかと寝ぼけたことを考えたが、それならこの盛り上がりはなんだ。洗濯機はたまに喘ぎ声みたいな音を出すときがあるが、ベッドは決してそうではなく、ひとりでにこんもりとするわけもない。

 もしかして。

 たばこの灰が、ジーパンに落ちる。

 とりあえず、服を着ていて助かった。

「あ……!」

 僕は自分の背中を触る。

 スカジャンはしっかり脱いでいたようで、これまた助かった。スカジャンの生地は、すぐに皴が寄り、変な筋が出来る。大切な一張羅は、どれだけ酔っていても綺麗に保管するという自分の執念に「ありがとう」と言いたくなった。


「なん? 大声出してから」

 わざとらしい博多弁に、もう一度ベッドを見ると、そこにはスズさんがいた。良かった、スズさんも服を着ている。

「なんで俺の家にいる」

 起き上がったスズさんが、頭をくしゃくしゃにかき乱している。

 やはり、似ている。

 姉さんに。

「飲んどったけん」

「自分の家に帰れなかったのか?」

「なかよ、家なんて」

 まったく変わらないトーンで、スズさんが言った。

「まじ?」

「まじ」

 訳あり風だとは思っていたが、家が無いとは……。

 人それぞれに訳がある。それは十人十色だが、まったくどこにも自分の帰る場所が無いという人は決して多くはない。人間が人間らしく生きるために必要なのは衣食住と、少しの酒肴だと言われている。その中で最も根源的なのが、住だ。だから人は最初に家を確保するし、最後に家を手放す。

「んー……」

 まさか、そこまで切迫した状況でバーで飲んだくれていたとは。

「金は?」

「3千万」

 スズさんが布団をめくり、右手でピースサインを作りながら言う。煙草を一本とマッチを一本渡す。

「3千万ねえ」

 正直、姉さんの面影を感じるスズさんとは、一緒にいたくない。まだ生きなきゃいけなくなるじゃないか。

「その金で住むところ探せよ」

「信用がないから賃貸は無理」

 スズさんは、煙草をふかして言う。

「中古の家くらいは買えるだろう」

「この街に長くはおらんけん」

 スズさんの眉間にしわが寄る。嫌味みたいに晴れ渡った空を窓越しに眺めるそのシワ寄りの顔を見ていると、なんだか胸が締め付けられるようだ。煙草を持つ指が熱いと思ったら、火がフィルターの寸前まで近づいてきていた。

 慌てて灰皿で火を消すと、スズさんが机を挟んで俺の目の前に座る。

 その真剣なまなざしに包まれると、動悸が早くなる。

 次の言葉はもうわかっていた。

 聞きたくない。

「居候させてください」

「……」

 そう、聞けば、断れないから。

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