紙とペンと一つの終末と
やらずの
紙とペンと一つの終末と
人は開けた。
パンドラの箱を。
人はついに辿り着いた。
だが僕は戻ってきた。
何故そんな選択をしたのか、理由は分からない。
終わりを前にして気が触れたのかもしれない。いや、間違いなく気が触れたのだろう。
友人が最後の夜を楽しむためのパーティーを開き、恋人が泣いて懇願するのを振り払って僕は選択をした。
意味のない選択だ。
それでも僕は、この胸のうちで疼く衝動に従うことを選んだのだ。
†
二二世紀初頭、科学はついに最も身近で最も難解なブラックボックスであった脳の全貌を解明した。そして間もなく、脳の解明という偉業を追うように、人間知性を超える知能の発明に成功する。
その結果、このとき既に先の核戦争の影響で地球の七割が放射能に汚染されていたなどという事情も相まって、人類の大半は
超高度AIによって自律管理される
精神の電子化を行う際、その性格傾向や電脳適性によって僕らには一応ではあるが仕事が割り振られた。
ここで一応、というのは、仕事はおしなべて娯楽であり、責務でも職務でもないからだ。
AIによって管理される
そうやって時間も空間も、古臭い倫理や常識を気にすることもなく、僕らは刺激的な時間とワクワクするような交流を営んだ。もちろん気疲れすれば自閉し、ただ漫然と過ごすこともできた。
肉体を棄てた僕らは、何一つ不自由がないという点で限りなく自由だった。
データとして保存されている昔の小説なんかで、僕ら同様に電子化された人間が身体の欠落――つまりは感覚の喪失に苦しむ描写がちらほらあるが、あれは真っ赤な嘘だ。限りなく自由である僕らは興味さえあれば疑似的な肉体をデータとして構築し、美味を礼賛することも、痛みや病に喘ぐことも体験できる。
そんな理想郷と呼ぶしかない新世界で、僕に割り当てられた仕事は空間デザイナーだった。
空間と言っても実際の空間を演出するわけではない。物理的な空間はこの
人智を超えた管理者の適性判断は素晴らしく的中した。
僕は特別にデザインの教育や訓練を受けたわけではなかったが、僕がデザインする空間はたちまち人気を博した。評価が上がれば、もっとやってみたくなるもので、僕は娯楽であるはずの仕事に邁進する稀有な人間になった。
仕事が充実すると同時に、プライベートも充実した。仕事やコミュニティでの交流を通じて何人もの仲間と知り合ったし、恋人と呼べる存在もできた。
悪ふざけでアルコールの酩酊感を楽しんでみたり、セックスの快楽を演出して二人きりの夜を過ごしたりもした。
だが空間デザイナーとして優れていた僕は
無限と思われたリソースは実は有限で、僕ら一人一人が経験を積み重ね、何かを生み出すほどに世界は枯渇していった。
つまり僕らが永遠だと思っていた時間には、避けられない終わりがあった。
そして僕は知った。
我々は時の円環という牢獄に閉じ込められたのだと叫ぶ者がいた。
これは忘れていた死だと慄く者がいた。
だが混乱は間もなく収束し、人々は終焉の事実を新たな始まりとして前向きに捉え始めた。その程度には、僕らは『終わり』というものに対する観念が希薄になっていた。
来る終わりと始まりを歓迎するような催しが、いくつものコミュニティで開かれた。
まるで年明けを待つように賑わう雰囲気が
だが僕は耐えられなかった。
この喪失に、怯えていた。
何を失うことを恐れているのかは分からない。だが自分の全てが初期化されるという事実に、自分が自分でなくなるような恐怖を感じずにはいられなかった。
僕が僕であるうちに――。
僕が僕であるために――。
僕が僕のためだけに――。
できることは何か。
僕は考えた末、全てが消し去られる前に一度だけ元の世界に戻ることを選んだ。
†
今思えば、僕は何かを残したかったのだろう。
あるいは何かを伝えたかったのだろう。
全てが儚く消え去る電子の楽園ではなく、不自由で鬱陶しいだけのあの場所で。
消え去ることのない手触りを、求めていたのだろう。
僕が生きたのだという爪痕を、欲していたのだろう。
僕は自分がこれまで作り上げてきた空間のほとんどを
何度か失敗して蛋白質の塊を作ったあと、僕は成功した。
全てが途方もないギャンブルだったが、僕はそのギャンブル全てに勝利した。
そして僕は肉体を得て、三〇一五七二八九〇二一六〇〇〇八五〇九秒ぶりに地球の大地を自らの足で踏みしめた。
どさり、と。
あり得ないくらい派手に転んだ。自重を支えられずに膝が折れるように曲がり、僕は広がる景色を楽しむ間もなく思いっきり後頭部に地面をぶつけた。視界が暗転した。
時間の感覚が希薄なので、どれくらい気を失っていたのかは分からない。だが起き上がったときには床に血がべっとりとついていた。血は固まっていたから、だいぶ長いこと寝転んでいたに違いない。
僕は今度こそ注意深く立ち上がり、ゆっくりと力を込めて歩いた。すぐに腕や脚の芯のほうが軋み始め、表面はすぐに温度を上げた。やがて痺れたように動きづらくなり、どういうわけか胸がズキズキと痛んだ。
外に出れば雲間から射す太陽の光が皮膚に突き刺さったし、汚れた大気は嘔吐感を催させた。
もちろん何度も転んだ。数歩歩くたびに転ぶ僕は、あっという間に傷だらけで血だらけだった。
全身が隈なく痛んだ。だが不思議と、それは不愉快さとは無縁だった。
それは全部、長い時間を経て僕ら人間が忘れた感覚だった。
「……はは、ははは、はははははは」
僕は突然込み上げてきた可笑しさに、声を出して笑った。喉が張り付き、激痛を発した。だが僕は笑うことを止めなかった。
僕は歩いた。
砂塵を被った廃墟を。得体の知れない植物が野放図に繁茂したアスファルトを。
優に一〇〇〇年以上経った世界は、やはり荒廃していた。
誰もいなかった。
全ての人間が肉体を棄てたわけではなかったはずだが、人類はとっくに滅んだのかもしれない。
僕はほとんど崩れて原型を留めていない民家に入った。もちろん扉ではなく、崩れた壁の瓦礫を乗り越えて。
そして目当てのものを探す。
どういうわけか最初から決めていた。
空間デザイナーとしての僕は一度も使ったことのない表現方法だ。むしろ高速で情報がやり取りされる
だがそれ以外には方法が思いつかなかった。
僕が僕であるうちに、僕が僕であるために、僕が僕のためだけにできること。
それは、この世界に言葉を残すこと。
僕が選んだのは『手紙』だった。
手当たり次第に家中を探し回り、僕はようやく紙とペンを見つけた。
紙はほとんど炭化していたが、筆圧に気を使えば書けそうだった。
むしろ問題はペンのほうで、長らく使われていないインクは完全に干からびていた。
僕は指を食い千切った。ペンの先を滴る血に浸し、インクの代わりにした。世界に対して魂を刻み込むインクとしてはこれ以上ないな、と思った。
だがペンは止まった。
書くべきこと、書きたいことは事前に整理してきたはずだった。
だが書けなかった。
肉体が不自由ならば、言葉はそれ以上に不自由だった。
どんな出来事も、感情も、文字にして規定してしまえば何かが削ぎ落されるような気がした。伝えたい何かが、本当に残したい何かが、僕の魂が零れ落ちる気がした。
時間がなかった。僕は戻ってきたが死ぬ気はない。生まれ変わる世界に置いて行かれるつもりはない。
だが考えあぐね、ペンを止めた僕には言葉を紡げなかった。
不自由で、雁字搦めで、痛くて、苦しくて。
やはり肉体を棄てたのは正解だったのだろう。
だが同時に、僕は理解しつつあった。
この苦しさが、痛みが、辛さが、不自由さが、『生きる』ということの一端なのだろうと。
だから僕は震える手で、まずこう書き出した。
生きろ、――と。
紙とペンと一つの終末と やらずの @amaneasohgi
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