隔絶からの自由

のーはうず

紙とペンと隔絶と

2019年3月15日。

ニュージーランドクライストチャーチの二箇所のモスクにおいて銃による襲撃が行われ、50名近い死者を出す凶行がなされた。


犯行の様子は頭部につけられたカメラでリアルタイム配信され、まるでバトルロワイヤルもののFPS《ファーストパーソンシューティング》ゲームのようであった。その太く長い銃身が揺れるたびに、それぞれの人生の主人公であった方たちの幕が閉じる。ためらいもなく命が奪われたその行為はあまりに現実感がなく、だが、それはただひたすら演出のない現実でもあり、無味乾燥としたものだった。



グループが犯行直前にあげた犯行声明は74枚にも及ぶという。

どんなに筆を尽くされ、それらを精緻に読み込んだとしても、その大量殺人に及んだ者たちの言説を理解することは難しいだろう。動機となった焦り、怒りは殆どの人にとって数分すうぶも汲み取る余地のないものにしかならないからだ。彼我は同じ人生を生きていないし、体験も置かれた環境も違う。しかし、理解され得ないからこそ彼らは実力行使に出たのだろう。



我々が思想を余すことなく伝えるテレパシーを持っていたとして、テロリストを思いとどまらせることはできただろうか?


あなたと私は決定的に別の個体だし、昔の自分と将来の自分ですら全てが同じ考えであることすらない。



とかく世の中というものは難しいものだ。

そうしているものの中の一つに人間と人間の関係性がある。

意思や意図というものは、言語や態度、そして文章や映像のように表出せねば伝え得ぬものだし、またそれがなんとか伝わったとしても、相手の行動を変えるほどのものではないことがある。

特に、情報を制限され洗脳に近い状態で薬物なども併用しトレーニングされた場合、それを解除するのはもしかしたら無理かもしれないし、できたとしても並ならぬ時間と労力が必要だろう。芸を覚えさせられたアシカにそれを全くもって忘れさせることは覚えさせる以上に難しいに違いない。



組織的に行われる思考や思想の誘導は、まず情報を遮断し、特定の凝集性の強い人間関係の中におくところから始まる。同じ経験をさせ、同じ情報に触れていれば似たような発想になるからだ。自分の考えでそうなっているようでいて、食材も調味料も同じなら出来上がる料理が似たようなものなるのは当たり前だ。



これから逃れるには、いろいろな考えを持つ人に触れ、誰かが予定したものでない様々な経験をする必要がある。人とは違う食材を調達し、調味料を手に入れるのだ。

そうすることで、自分の持つ他人とのそのわずかな共通点から、相手の考えていることなどを汲み取れるようになる。



大人は往々にして何を考えているかより、何をしてきたかで評価される。

これは何を思いついたかよりも、その思いついたことを、どのように表現できてきたか、その表現できたものを他人に伝えられる能力があるか、形にすることまでできたかで評価されているのと同等の意味を持つ。特許などの法が保護しているのはアイディアではなく、脳内のアイディアを固定化できたものだけである。



伝えるために表現し、伝えられたものを読み解くことでのみ、自分と自分以外の境界に橋が渡る。もし、昔の自分と未来の自分に橋を渡したいなら、今の自分が書く以外にない。



短い人生の中でいろいろな人に会い、いろいろな経験を積むのはとても大変な事である。しかし、人の書かいたものを読めば、そこにはその人の人生や経験が。物語を読めばいろいろな人物が書かれている。



読み書きは人生のチートツールだ。

読み、そして書くことを繰り返すことで、隔絶からも自由になれるのだ。

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