第3話


 体の重いのをおして僕はマキタ氏に会いに来ていた。早朝の呼び出しは、かなり辛い。元々朝に弱いのもあるし、なんといっても体の不調である。僕は昨夜どうすれば早朝に家を出ることができるのかを考えて、結局一睡もしないことに決めたのだった。始バスに乗り込んだ僕の顔は、今朝見ると隈が浮かんでひどいことになっていた。まあ、この顔を見てもらえれば僕がいまどれだけ深刻な状態にあるのか、マキタ氏にも理解してもらえることだろう。

 バスに乗り、人通りのない繁華街をスマートフォンで地図を開きながら歩いていく。

 マキタ氏の事務所は裏路地の奥まった場所にあるマンションの二階にあった。やたらと狹い階段を登っていくと、マキ退魔事務所と薄汚れた看板が立てかけてあって、僕は引き返そうか迷ったけれども結局そこに足を踏み入れた。

 一体どんな人物なのかと戦々恐々としていたのだけれど、現れたのは三十に届くかといった具合の青年だった。

「いらっしゃいませ。お待ちしてました」

 穏やかなほほ笑みでそう言うマキタ氏からはなるほど、神職に就いていたというのが真実なのだろうと感じさせる朴訥さが滲んでいた。

「どうぞ、かけて」

 勧められて、素直に座る。錆びついたパイプ椅子がぎしりと不穏な音を立てた。

「えーと、椎野さんでよろしいですか?」

「はい」

「じゃあ、まずはじめに貴方が今現在どんなことに悩んでいるのか、聞かせていただいても?」

 僕はあらかじめ頭の中で整理しておいた話をした。内容は電話で伝えたのとほとんど同じものである。要するに、体が異常に重く動くのにも苦労すること、家の中で怪奇現象が起こっていること。

 それを聞いているマキタ氏はふむ、なるほど、そうでしょうね、あーはいはい、と妙ちくりんな相槌を打っていた。僕は本当に聞いてるのかよと若干の苛つきを覚えたけれど、きちんと話をした。

「まずひとつ、椎野さんに伝えなければいけないことがあります」

「なんでしょう?」

「貴方憑かれてますね」

「いや、疲れてはないです」

 病院でも過労がどうのと言われたが、僕は疲れてなどいない。

「いやいや、そういうことじゃないんです」

「はあ?」

「憑かれてるんですよ」

「いやだから……」

 ぞくり、ときてしまった。言っている途中で気づく。つかれている。疲れている。憑かれている。僕は、憑かれている。なにに? 決まってる。

「幽霊に、憑かれてます」

 マキタ氏は理解の遅い僕に、何度も何度もそう言った。

 いや、ほんとに? こいつの出鱈目でなく、ほんとに?

「出鱈目なんかじゃないですよ。現に、いまもほら。貴方の肩にのしかかるようにして、いるんですもの」

 いるんですもの、なんて軽く言ってくれるけれど、自分が何を言っているのかわかってるんだろうか、この男。

「いやあ、椎野さんが入ってこられたときはびっくりしましたよ。あんまりにもはっきりと『それ』が見えるものだから、肩に人をのしかからせた変なやつがきたと思いましたもの」

 なんでこいつはこんなに冷静なのだろう、と僕はかえって冷静になって考えた。考えてみるとわかった。彼はいまお祓いを生業としているのである。ということは、僕の肩にのしかかっているという幽霊なぞ、恐るるにたらないということなのだろう。そういう余裕なのだろう。

「じゃあ、早速お祓いをしてほしいんですが」

「お祓い? いやあ、これだけ濃い霊だと難しいんじゃないかなあ」

「は?」

「いやね、霊って薄い濃いがあるんですけれど、椎野さんに憑いてるのはかなり濃いんです。たぶんこれは祓えないなあ」

 なんてことをきょとんと言う。

「いやいやいや、じゃあどうすんですかこれ」

「うーんそうだなあ……祓えないとなると、霊の気が済んで去ってくれるのを待つしかないですかねえ」

 霊の気がいつまでも済まなかったら? 僕は勢い込んで訊ねた。マキタ氏は苦笑いで後頭部を掻くのだった。



 結局あのマキタとかいう野郎のお祓いは成功せず、僕の体は依然として重い。わざわざ出向いたというのになんたることだろう。僕は別に過度の期待をしていたわけではない。今日、彼を訪ねてそれで問題が一挙にすべて解決する、なんてことを夢想していたわけではない。けれども、あれではあまりにもあんまりである。唯一の救いは料金を規定の金額よりも少し負けてくれたことだが、僕からすれば職務を履行していないのだから当然だろうという感覚だ。

 家に帰ると僕は倒れ込むようにしてベッドに横になった。

 それにしても、僕にはそれは強力な霊が取り憑いているという。本当なのだろうか? いや、本当なのだろう。でもなければこの不調を説明できない。体、心にはまったく問題がないと専門家のお墨付きをいただいているのである。であれば、超常的ななにかしらが原因だと考えたほうが簡単でわかりやすい。僕は目の前のわかりやすい結論に飛びついてしまうタイプなのである。

 その強力な霊とやらは、どうやら僕の肩にのしかかるようにしているらしい。だから体が重く感じるのでしょう、とマキタは言った。ということは、いま現在も僕の肩には霊がのしかかっているのか? 想像すると寒気がした。長い髪の女が白装束で僕にしなだれかかっているのである。あまりにも恐ろしいビジョンだ。

 体が重すぎて眠気も起きない。徹夜の体は睡眠を欲しているはずだが、目が冴えて仕方がない。僕は天井を見ながら、みじろぎもせず考え事をしていた。そうしていると、段々むかっぱらが立ってきた。

 なぜ僕は幽霊なんていう曖昧なものに、こうもプライベートを侵略されているんだ? 幽霊はなぜ僕に取り憑く? 

 ふざけろ、僕がなにをしたっていうんだ。なにもしてないはずだ。なにもしないことにかけて僕は誰にも負けないあんぽんたんなのである。

 じゃあこの幽霊はいったいなにがしたい。決まってる。嫌がらせだ。こいつは僕に嫌がらせがしたいのだ。怒りが登ってくる。ああ、僕はこいつになにか一言言ってやらないと、もう気が済まないぞ。幽霊が気が済んで去るまで待つだって? そんな悠長なことはしていられない。そっちがその気なら、こっちからも仕掛けてやる。

 僕はがばっ、とベッドから起き上がった。

「おい、このスカタンやろう!」

 部屋中に響き渡る声で叫んだ。

「おまえはおれに嫌がらせがしたいんだろう。そうやっておれの体にまとわりついて、生活を全部奪ってしまおうって、そうやって楽しむつもりなんだろうけど、そうはいかないからな! そうだな、今日から部屋全体に塩を撒いてやるからな! 御札だって買ってくるし、ずっとお香もたくし、鼻歌代わりに御経を読んでやる! それでもおれに取り憑きたいってんなら好きにしろ、戦争だ、おれとおまえで戦争が始まるぞ!」

 どん、と隣人が壁を叩いた。僕はそれにびっくりして無言になってしまう。部屋は突然静寂に包まれた。僕は息切れしながら、言ってやったと満足感に打ちひしがれた。

 いやでも待てよ。僕はやつに言いたいことを言ってやったけれど、やつだって僕に対してなにか言いたいことがあるはずである。ならば言わせてやろう。僕は一方的な物言いは嫌いなのだ。意志のやりとりは相互間で正しくなされなければならない。

 僕は少し考えて、リュックからノートとボールペンを取り出した。それを机に置いて指を指す。

「さあ、おまえも言いたいことがあるなら言ってみろ」

 すると、信じられないことにボールペンがひとりでに動き出した。自分が意図したこととはいえ、僕は目玉が飛び出るくらい驚いてしまう。いま気づいたが、本当に心霊現象を目の当たりにするのはこれが初めてだった。僕は半信半疑だった思いを完全に入れ替えなければならなかった。

 ボールペンはゆっくりと持ち上がり、白紙のノートに向かう。書かれた文字はたったの三文字だった。

『ひどい』

 やたらに丸文字で書かれたそれを見て、僕は首をひねらざるを得ない。

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幽霊 ペキニーズ @asahi-tuki9715

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