苦味と酸味の魔法 -紙とペンとチョコレート-
大野葉子
苦味と酸味の魔法
四月のよく晴れた金曜日。ビル街の一角、噴水広場のベンチでは近隣企業に勤務する昼休み中の女性社員二人が涼を取っている。
一人は大きなリボンを模したような淡いピンクのカットソーが目を引くガーリーなスタイルの
加奈が歩を心配そうに見つめながら、
「噂どおり、やりづらい?」
と尋ねると、歩は眉根を寄せて肯定する。
「そうだねえ、やっぱり人がちょっとね。仕事量は検査部と変わりないと思うんだけどさー。」
「前から言われてたもんね、第二の
「でしょー?今からでも加奈が代わりにやらない?第二のスマイル。」
歩が期待を込めて加奈の手を握ると、加奈はすっと真顔になって首を横に振る。
「いや、歩なら鰐淵さんともうまくやれると人事も思ったんだよ。だから頑張って。」
「ですよねー。」
歩は手を離して天を仰いだ。
歩と加奈はとあるベンチャー企業に新卒で入社して以降三年、秘書とも事務員ともつかない仕事をしている。
「他の社員の困りごとをとりあえず笑顔で引き受ける」「笑顔で職場を明るく、風通しを良くする」のが職務上の使命とされる歩たちのようなスタッフは「スマイルスタッフ」と呼ばれ、まあ要するに体よく雑用を押し付けられてしかも拒否することができないという制約のもと、いつもニコニコせかせか動き回っている。
入社からの二年間は検査部というセクションのスマイルスタッフとしてそれなりにうまいことやってきた歩だったが、この春初めて異動の辞令が下り、第二開発部というセクションへ異動となった。
この第二開発部、担当のスマイルスタッフがここ数年毎年代わっている。早いと半年で代わる。
なのでスマイルスタッフの間では「第二開発部はヤバイ」という評価がとっくに確立されている。
そして先月限りで前任者が退職して後任を命じられてしまったのが歩なのだ。
着任して三週間を経過した歩による第二開発部の印象は先述のとおり「仕事量には問題ないが構成員には問題があり、できれば今からでも別のセクションに異動したいくらいやりづらい」というものだ。
特に、第二開発部を統括するゼネラルマネジャーの鰐淵
セクションのトップに君臨する鰐淵が少し付き合いにくい上司で、そのせいか部内全体にピリピリした息苦しさを感じる。
はじめに歩が「あ、気を付けて働かないとマズイな」と感じたのは着任二日目。
「坂下さん。コピー機の紙、切れそうだから補充早くしてね。」
向かいに座る鰐淵はパソコン画面を見つめたまま、よく通る声で歩に命じた。
「はい、すぐやりますね!」
歩が朝一番に給紙トレイをチェックしたときにはまだ余裕があったので補充をしなかったのだが、そのことは胸にしまって笑顔でハキハキと返事をすると歩は言葉どおりコピー機に向かう。
実際にトレイをチェックすると空になっているトレイはなかったが、A3のトレイが本体の液晶に「少」と表示される程度に減っていた。
朝は出ていなかったのでそこから五時間程度の間に使われたのだろう。
まあそういうこともあるので歩はてきぱきと用紙を補充して席に戻った。
すると、
「坂下さん、こういうことは指摘される前にやろうね。スマイルさんの仕事だよ。」
鰐淵は歩に一瞥も送ることなくそう言った。
相手が自分を見ていなくても自分が礼を尽くさない道理はない。歩は椅子から立ち上がってきちんと頭を下げた。
「はい、すみませんでした!次がないように気を付けますね!」
口調は明るく。非はしっかりと認めて。
鰐淵には言わなかったが翌日からはコピー機のチェック回数を増やして二度目が起きないよう気を付けている。
コピー機以外にも周囲の状況を注意深く見るようにしようと思ったのがこの二日目だった。
が、それからも細かい指摘はぽつぽつと続いた。
会議資料を印刷して一部ずつホチキス止めし、会議に議事録係として臨むと、
「坂下さん、次からクリップで止めてくれる?資料を見やすい形で提供するのもスマイルさんの仕事だよ。」
と注意を受ける。
また別の日。
数名がバラバラのフォーマットで出してきた資料をもとにエクセルにまとめてさらに印刷して会議で配布すると、
「坂下さん。意味のない色を使った資料はやめてね。白黒で刷って見分けられない色をよく使おうと思えるね。考えて資料にするのはスマイルさんの仕事だよ。」
と注意を受ける。
また別の日。
進捗に遅れがあるタスクとその担当者を抽出せよとの命を受けてリストアップしたものを鰐淵に提出すると、
「坂下さん。表にしただけって仕事する気あるの?こいつらのケツ叩いて納期を意識させないと。スマイルさんの仕事だよ。」
と、こうである。
歩にまったく非がないわけではない。もう一つ上の配慮を求められること自体に文句はない。
ただ、それらの指摘が常に他の多くの人にも聞こえるように行われることは少し気になる。
そして、この台詞を日常的に聞いているためか鰐淵以外の部員たちも歩が不慣れで行き届かない点があると「スマイルさんの仕事でしょ」の一言を付加することをまず忘れないし、「仕事する気あるの?」がついてくることも多い。
そういったことが続く三週間に歩は疲れを感じ始めていた。
そして今朝のこと。
パソコン越しに鰐淵に訊かれた。
「坂下さん、緑のペン貸してくれる?」
歩は困惑した。
赤や青ならともかく、あいにく緑は持っていない。
「すみません、緑は持っていなくて。」
歩が申し訳ないな~という気持ちを込めて答えると、鰐淵はハァッと深くため息をついた。
「坂下さん。スマイルさんでしょ?四色ボールペンくらいいつでも持っていないと。もっと意識を高く持って。お給料もらってるでしょ?三年目でしょ?」
苛立った口調でだいぶ責められた。それも例によって大きな声で。
「すみません…。」
詫びの言葉を口にしつつ、なんだか釈然としない思いが拭えない。
緑のペン…。
そんなに使うか?
それにそんなによく使うものなら自分で用意しておくべきではあるまいか?
それともインクが出なくなったのか?輪ゴムでぐるぐるっと回せばまた書けるようになるのでは?
輪ゴムなら備品にある。今出せるが?
そもそもそういった事態に備えて替え芯を自分で用意しておくのが真に意識の高い人の仕事に対する姿勢なのでは?
頭の中は鰐淵に言いたいことでいっぱいになったが口に出すことはせず、モヤモヤを抱えたまま昼休みになった。
いつもどおり加奈と昼食を摂って噴水の脇で癒しを求め…それでもどこか晴れない歩の表情に、加奈は心配して様子をたずねてくれたのだろう。
友人の優しさに心が少し温まる。
「そうだ。歩、オレンジは平気?」
加奈はバッグの中をごそごそやりだした。
「オレンジ?好きだよ?」
「あ、ホント?あ、あった。」
取り出されたのは手のひらサイズの金色の小箱だった。蓋を開ければ細い棒状のチョコレートが数本、つやつやと輝いている。
「これ美味しいの。私のお気に入りで…うん、溶けてないね!食べてみて。」
「うん?」
そっと手に取って口元に近づけるとほんのりオレンジの香りがする。
一口かじると、ビターチョコのほろ苦さと爽やかなオレンジの酸味が口の中に上品に広がった。
「んーーー!」
予想を上回る美味しさに感動の声が漏れる。
「美味しい!何コレ!?」
飲み下してから加奈に問うと、
「これね、近所のチョコレートショップでたまに買うの。オレンジの皮をチョコで包んだやつね。疲れた時にこっそり食べてるんだ。」
ふふっと微笑みながら加奈は言う。
「美味しいと元気出るじゃない?」
「うん、美味しい!」
「基本的に私にできることなんて何もないけどさ。話聞くくらいはできるから。いつでも愚痴って。」
歩はじっと加奈を見つめた。
歩の気持ちに寄り添おうとしてくれるほんわかした笑顔はどこまでも優しく、揺るぎない。
「加奈~!」
歩はぎゅっと加奈を抱きしめた。
「よしよし、歩。午後も頑張ろ。」
「頑張る!私頑張っちゃう!」
この一口で何か問題が解決したわけではない。職場に戻ればまたギスギスした空気の中、不条理な言葉を浴びせられることもあるだろう。
でも。
「やりづらい職場ならやりやすく変えないとね。」
「お?」
歩は加奈を離すと明るい笑顔を作った。
「あの第二にそれを期待されてるのが私だもんね。頑張る。嫌なことがあったら、加奈の胸で泣く。」
「うんうん、いつでも来て~。いつでも胸を開けておくから~。あ、でも…。」
加奈はハッとしたように眉間に皺を寄せて金色の小箱を見つめた。
「次に来てくれたときはもうコレは出せないかも。これ以上暑くなったら持ち歩けないもん、チョコ。」
あたかも大変深刻な事態が起きているかのように話す加奈に歩は思わず吹きだした。
加奈はムキになったように言い募る。
「えー。これからの時期私には深刻な悩みなんだよー。このチョコより美味しいおやつなんてなかなか思いつかないのにさー。」
おやつの選定について真剣に悩む加奈に、歩は遠慮なく声をあげて笑った。
苦味と酸味の魔法 -紙とペンとチョコレート- 大野葉子 @parrbow
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