◇第二百十一話◇

夏休みも終盤に差し掛かってきた頃、稜は今病院に来ていた。

何故か、その理由は至って簡単である。感情を失ってしまった稜の心を取り戻すため、定期的にカウンセリングを受けなければいけないからだ。


「何でも良いの。こんなこと言われて嬉しかったなーとか、これはちょっと嫌かもなーとか、小さなことでも何か感じなかった?」


「……何も無いです。楽しいことも苦しいことも、よく分からないので」


「そっかそっか」


小さい頃から無理矢理兄や親戚に連れて来られた精神病棟。何度聞かれても、答えは変わらない。


「もう良いんです。人はいつか死ぬ。その間に感情なんて必要無いので」


「……そんなことない、んだけどな。楽しい、悲しい、嬉しい。どんな感情でも、あるだけで人生が変わるんだよ」


そんなことを言われても、自分にはよく分からない。記憶の中の自分は、よく笑っていた気がする。もう記憶も曖昧になってきている中、それだけは何となく覚えていた。


「これ以上は無駄なので、帰りますね」


「あ、ちょっと稜くん!」


医師の言葉を無視し、病室から出る。これが嬉しかった、これが辛かった。人間なら理解出来る物が、稜には理解出来ない。


(あ、でも……)


――体育祭は、少しだけ楽しいって思ったかもしれない。


あれが、忘れていた感情だったのだろう。だが、今はもうどんな感覚だったのかさえ思い出せない。


(面倒、って思うことはあるんだがな)


自分でも理解出来ないものを、人に伝えることなんて不可能に決まっている。

テストの問題の方が余程簡単だ。何故周りの人間たちは、それを言葉にすることが出来るのか分からない。何が嬉しかったか、理解出来るのかが分からない。


解決出来ない疑問に向き合っていると、見覚えのある人物とすれ違った。


「皐月?」


思わずポロッと声が出てしまった。いきなり呼ばれた名前に驚きながら後ろを振り向く。何故こんなところにいるのか、お互いが問いたくなる状況だ。


「雨夜くん?え、どっか悪いの!?大丈夫!?」


「体は至って健康だ。そう言うお前こそ、何で」


「僕はあれ、友だちが入院してて」


「友だち?」


サラッと言うが、そんな簡単に聞き流せる情報では無かった。


「そっちこそ大丈夫なのか。入院って結構マズいんじゃないか?」


「えー?何々、珍しく心配してくれてんの?」


茶化すようにケタケタと笑う奏だったが、その目は笑っていなかった。笑い事じゃないことくらい、稜でも分かる。


「真剣な話だろ。ふざけるな」


「あー……。雨夜くんって結構真面目だよね」


重い空気にならないよう気を付けていたつもりだったが、それが返って逆効果だったらしい。


「別に、話したくないなら構わない。お前の問題だからな」


「いや……。僕は良いんだけど、雨夜くん意外と見捨てられないタチっぽいから……」


見ていれば分かる。薫の時も、踏み込み過ぎず見放さずの距離を常に保っていた。きっと迷惑をかけてしまう。だから、言おうか迷っていたようだ。


「けど、雨夜くんには言っておこうかな」


先程までどうしようか悩んでいた表情が、決心したように、笑顔に戻る。

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