自由の象徴

九十九

自由の象徴

 男にとって紙とペンは自由の象徴だった。

 紙とペンと自由な想像、それさえあれば男は何処までも自由で居られた。

 例えば風船が欲しかったとする。男はもう良い年だと言える大人だが、時折あのぷかぷかと気儘に浮く風船を子供のように握り絞めたくなった。だから、男は紙とペンを使って風船を手に入れるのだ。描いたって、書いたって良い。個人の自由だ。

 描いた物が下手くそだとか上手いとかは関係ない。記した物の情緒が無いとか読みにくいとかも関係ない。ただ自由に想像が出来れば、それだけで自由なのだ。

 例えば、お腹が空いて目玉焼きを食べたかったとする。男はしがない作家の貧乏暮らしだから卵の一つも家には無い。そんな時も男は紙とペンを使って、美味しそうな目玉焼きを作るのだ。紙とペンだけで描いた黒と白だけの目玉焼きは色が無いから周りから見たら唯の大きな黒丸と白丸だ。

 だがそれがなんだと言うのか。男の目にはありありと鮮やかな黄身が映っているのだ。美味しそうな目玉焼きとだけ記した文は、恐らく何かのメモにしか見えないかもしれない。だがそれは周りが見た場合だ。男の周りには美味しそうに裏がかりっと焼けてぷっくりと黄身が大きい目玉焼きの匂いが立ち込めている。ベーコンの香ばしい匂いもしたので男は美味しい目玉焼きの上にベーコン付きと書き足した。

 お腹が膨れないのは少し残念ではあるが、胸は満足感で一杯に膨らんだ。

 想像は膨らむ一方で果てが見えない。風船は赤色が良いだろうか。青でも良い。いっそ二色とも混ぜてしまうのは素敵じゃないか。目玉焼きにはレタスを付けよう。きっと美味しい新鮮で青々しいレタスだ。ウインナーを付けるのも良い。ベーコンは焼いているから此方は茹でようか。

 紙とペンと想像、此さえ有れば男は何処までも自由でいられた。


「それって楽しいの?」

 近所ではすっかり変人扱いの男に、好奇心旺盛な子供達は大人の目を盗んでよくこう言った事を聞いてくる。

「あぁ、とても。此れは何処までも自由なんだ」

 男の答えは何時も決まっている。可笑しいと笑われても、大人の癖に変だよと指を指されても男の答えは何時だって変わらなかった。

「それ僕にも出来る?」

 初めての言葉に男はきょとんとした顔をして、そこで初めて子供の顔を見た。そこに居たのは男が今まで見たことの無い子供だった。

「やぁ、こんにちは」

「君、ここら辺で見たことが無いけど何処の子だい?」

「この間引っ越して来たんだ」

「そう言えば向かい側で何かしていたな」

「僕始めての引っ越しにはしゃいじゃって。五月蝿かった?」

「ううん、賑やかだった」

「そっか、良かった」

「其よりも此処にいたらのけ者にされてしまうよ。此処は頭の可笑しい変人の家だそうから」

「皆がそう言うの?」

「そうさ」

「おじさんは?」

「うん?」

「おじさんもそう思ってるの?自分の事可笑しいって」

「いいや。確かに多くの人々からするとそう見えるかもしれないが、私自身は私の事を可笑しいと思っていない」

「じゃあ良いよ。おじさんが自分の事可笑しいって思ってないなら今僕と話しているおじさんは可笑しくないよ」

「可笑しい奴ほど可笑しく無いと言うよ?」

「うん。でもそれは此れから僕が見て、僕の感じ方で決めるよ」

「君は面白いね」

「うん。可笑しいよりも面白い方が良いよ。おじさんもきっと面白いんだ」

 子供はそう言って朗らかに笑った。男は始めて言われた言葉にこそばゆくなって、眉根を下げた顔で微笑んだ。


 そうして男は生まれて始めての人間の友人を得た。生まれてこの方、友人と呼べる者が出来た事の無い男にとって、突如として訪れた小さな友人と過ごす時間は非常に新鮮な物であった。彼等の歳は随分と離れていたが、男にとっても小さい友人にとっても其れは些細な事であったし、特に必要のない隔たりであった。

 二人で話して居れば自然と想像は膨らんだ。

男が切欠と言う石を投げ込めば、小さい友人の想像という泉の波紋は何処までも広がった。小さい友人が言葉と言う羽を舞い上げれば、男の想像と言う風は何処までも羽を乗せて揺蕩った。

 紙とペンを二人で囲み、想像と言う自由を謳歌する。

 男と小さな友人は何処までも自由に想像した。様々な絵が紙の上で色付いた。様々な言葉がペンによって踊った。彼等の想像を隔てる物は其処には何も無く、想像を打ち鳴らす互いが隣に居るのみだった。

「魚が子供を導くのは如何だろう?」

「子供は光る物が好きだよ。凄く綺麗だから」

「じゃあ、魚はきっと光っているね」

「ランプみたいな光かな?」

「きっとお腹の中に火が灯ってるんだ」

「海のような青色が良いな。それで夜は優しい夕暮れ色になるんだ」

「あぁ、きっと綺麗だ」

やがて彼等の小さな想像達は大きな物語へと形を変えていった。

紙とペンの上、自由に創造された想像の世界達は、男にとっても小さい友にとっても、どれもこれもが美しく、眩いばかりに輝いていた。

 紙は何枚も積み重なっていった。ペンは何本もすり減っていった。使い切ったインクの数はもう数え切れない。

それら全てを男は大事に仕舞って置いた。其れまで机の上に重なっていた紙達は、本のように綴じて、専用の本棚を作って並べた。先が擦り減ったペン達は花瓶に生ける花のように、小さな友人の母から差し入れられたジャムの、空いた瓶の中に丁寧に仕舞い込んだ。使い切ったインクは自由の足跡として、紙にもペンにも跡を残している。

 紙とペンと自由な想像、それに小さい友人が居れば男は何処までも自由だった。

 

 小さな友人と出会ってから早数年。小さかった友人は瞬く間に成長した。彼の母が「男の子は直ぐ大きくなる」とむくれて居たのが昨日の事のように思える。恐らく生を受けてから先、最も充実した数年だったように男は思う。

 男は机の上に置かれた写真を撫ぜる。大きく成った友人とその両親に押し切られて、彼等が町を離れる時に撮った物だ。

 少年から青年へと成長した友人の家族は三年前に進学の為に向かい側から引っ越した。会った時程頻繁には会えないが、週末などは友人は変わらず足蹴く男の元へと通った。

 紙とペンと自由な想像、其だけを互いに携えて隣の友と夜通し語る。其れが何時までも変わらない男と友の「自由」であった。


 その日は寒い日だった。凍える程冷たい風が吹き荒び、ペンを握る指先が乾燥で割れる、そう言う日だった。

 男は何時もの様に友人を待っていた。けれど、男の家の扉を叩いたのは友人では無かった。

「先生」

 開いた扉の先には顔馴染みの警官が息を切らして立っていた。男よりも少しだけ年上の彼は町では珍しく男の事を変だとは言わない。共感が出来なくとも理解を示す朗らかな人物であった。その彼が険しい顔で扉の先に立っていた。それだけで男は良くない事が起こったのだと悟った。

 男は黒く燻る家だった物を見た。赤色の屋根が母親のお気に入りだった。白い壁は少し剥げていたけれど父親が綺麗に塗り直した。

 神様は酷い脚本家だと、男は目の前で燃えていた火を思い描きながらぼんやりと思った。

 そうして暫く立ち尽くす男に、その場に居た馴染みの警官もその部下達も声を掛けなかった。結末を知っているが故にどう声を掛けたら良いのか分からなかったのだ。

 特に馴染みの警官は、想像する自由にしか頓着の無かった男を見てきた当時唯一だった理解者だ。そんな男が小さな友人とその家族と出会い少しずつ他の事に想像を巡らせていた姿も見てきた。彼と小さな友人の物語の最初の読者も彼だ。そんな彼には如何あっても男を傷つける現実を自ら言葉に乗せる事は出来なかった。

「彼等は?」

 未だぼうっとした様子で男は尋ねた。

「父親と母親は……。ここ最近の乾燥と今日のこの気候で火の回りが早すぎて」

「あの子は?」

「生きていたよ。今は病院に運ばれていて命に問題は無い、が意識が戻るかどうかは……」

 区切った言葉の先は予想するに容易かった。

「そうか……」

「……先生戻ろう。此処は冷える」

 項垂れて、今にも崩れ落ちてしまいそうな男の肩を警官はしっかりと掴んで支えると、そう言った。

「私は此処に訪れる度に想像したんだ」

「先生……」

「初めて買う一軒家だと言っていた。少し古いけど良い家だと大切に直していたんだ。笑っていた」

「あぁ」

「之からの彼等の未来を私は想像したんだ。来る度来る度、私は想像していたんだよ。彼等の、友人の、幸せな日常を」

「あぁ先生。先生が此処で思い描いた物はきっと綺麗な色だ。……戻ろう先生、此処は寒い」

「あの子の所に……」

「あぁ勿論だ。あの子の所に行こう」

 遂に膝に力の入らなくなった男を警官はしっかりと抱えると、車へと戻って行った。寒さで直ぐにはエンジンが温まら無いと小さな嘘をついて、警官は暖房を付けた車の後部席から毛布を引っ張り出すと、俯く男を覆った。


 紙のように真っ白な部屋に男は居た。男の座る机を挟んで反対側には未だに細い管で身体を拘束された友人がベッドに横たわっている。身体を覆っていた包帯はもう殆どが取れたが、想像する度に忙しなく瞬いていた瞼は未だ一度も持ち上がらない。

 男は眠り続ける友人を暫く見詰めると、紙とペンを取り出した。そして何時ものように友と己の間に紙とペンを置く。

 想像は自由の象徴だ。紙とペンと自由な想像を持って書けば良い。描けば良い。そうすれば男は、友人は何処までも自由だ。

「今日はこの前の続きを書こうか」

 だから男は友を描いた。紙とペンで自由な友を書いた。紙とペンで彼の見る優しい夢を描いた。

「今日も自由な想像を紙とペンで記そうか」

 其処には友が居る。何時ものように自由な想像を持って、男と紙とペンを囲む友が居る。

「何処までも君は自由だ」

 音として帰らぬ声にほんの少しだけ寂しいと思う己の心に、男はそっと蓋をした。

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自由の象徴 九十九 @chimaira

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