テストと赤ペンと自殺願望

伊乙志紀(いとしき)

採点中の出会い

「死にたい、ねぇ……」


 その言葉は答案用紙の裏にひっそりと書かれていた。

 ただ簡潔に、死にたい、と。

 私は作業机の上で頬杖をつき、その答案用紙を眺める。電気スタンドの冷たい光にかざしてみると、自分がつけた丸やチェックマークが透けて見えた。


「えーと? ……南沢彩子、ね」


 氏名欄を読み上げる。私がつまんでいる用紙は数学の模擬試験に使われたものだ。確か中学三年生用だったかな。大手予備校が定期的に開催している模擬試験で、私はその採点バイトをしている。

 落書きは色々見てきたけど、死にたいは初めてだ。でも学校じゃないので、普通にスルーされたのか。


「にしても、落書きしてる余裕ないんじゃない? 彩子ちゃんさぁ」


 数学の点数は六十五点。良くもないし悪くもない。三年生になったばかりとはいえもう少し気合入れないと。でないと私みたいになっちゃうよ。

 自分で考えてちょっとムッときた。別に私は成績が悪かったわけじゃない。ただ、のんびりしてて就職活動に出遅れただけだ。挽回しようにも新卒の席が埋まってしまっただけだ。公平なテストとは訳が違う。

 言い訳してると虚しくなった。

 死にたい、という文字が癪に障った。

 私は答案用紙を作業机に叩きつけ、文字の横に赤ペンでコメントを書く。

 ――五教科百点取ってから考えなよ。


「あーあ、書いちゃった……まぁいっか」


 ただのバイトには採点しか許されていない。バレたら怒られる。

 でも私は、コメントを消す気になれなかった。心の幼い中学生を突き放す薄暗い爽快感が、ほんの少しの慰めになった。

 見つかったら、そのときはそのときだ。私は答案用紙を採点済みの束に重ねて、次の採点に取り掛かる。


 ◎ ◎ ◎


「お祈りされたって嬉しかないんだよバーカ」


 パソコン画面に暴言を吐いてマウスを机に叩きつける。画面には不採用通知のメール文が表示されている。末筆ながら今後のご健闘をお祈り申し上げます。いつも同じ。もうちょっと工夫しろ人事部。

 ため息を吐いて天井を見上げる。惨敗続きには気が滅入った。フリーターに成り下がらずさっさとどこかの企業に入るべきだったのに、あの頃は高望みしてた。過去の自分を呪い殺したい。


 首が痛くなってきたので頭を戻す。でも何もやる気が起きないのでだらける。

 いつもそうだ。やらなきゃいけないのはわかってるのに、億劫になる。

 だから採点バイトをしている。在宅だから、決まった時間に働かなくて済むから。

 私って実は働くのに向いてないんじゃないかと本気で思う。ああ石油王の嫁になりたい。

 でも、ぼんやりしてても時間がすぎるだけだ。動かなきゃ金は入ってこない。だから私はのろのろと作業机に向かい、在宅バイトを始める。赤ペンで採点してくだけだから、こんな私でも続けられている。


「あれ……」


 答案用紙の氏名欄に目が留まる。南沢彩子。

 死にたい、と書いてきた子だ。

 私が受け持っている予備校に通っているのだから、その名が出てきてもおかしくはない。予期せぬ再会に少しだけ息苦しさを覚えた。

 あれから予備校に怒られることはなかった。彩子ちゃん本人からクレームが入ることもなかった。私のコメントは無視されたのかもしれない。

 でも、実は本人を傷つけていたことだってあり得る。そうだとしたら、さすがに罪悪感がある。

 変人がいる程度に思ってくれれば救いだけど、会ったこともない少女の気持ちは私にはわからない。なにか確かめる方法があれば。

 そのときふと、裏面が気になった。有り得ないと半ば呆れつつ、何かを期待して紙をめくる。

 真っ白な用紙には、細い文字が綴られていた。

 ――五教科百点取ったら死んでいいんですね?


「……なんか調子に乗ってる」


 予想外の台詞につい笑ってしまう。それに安心した。前はたまたまナーバスだっただけだろう。今回は反応した奴がいたから、面白半分に返してきただけ。

 ほんと勉強しなよ、と思いつつも、私の方も悪戯心が芽生えた。煽った分だけこの子は反応してくれるかもしれない。

 ――いいよ。

 私は赤ペンで、それだけ書いておいた。


 ◎ ◎ ◎


 定期的に送られてくる答案用紙の中には、彩子ちゃんのものが必ず混ざっていた。そして絶対に裏面に文字が綴られていた。


 ――今回は百点取れる気がします。

「んー残念。八十二点。まずまずかな」


 ――今回はイケると思います。

「なにいってんの理科五十五点だし英語なんて四十点よ?」


 ――頑張りました。これで死ねるはず。

「はいはい、寝言は寝て言ってね。まだ平均八十点も行ってないんだから」


 ――もうこれ以上、上がる気がしない……。

「お、珍しく弱気じゃん。でも数学九十点! 頑張りが見える、偉い!」


 ――たぶん国語は百点取れてるはず!

「へぇ随分な自信じゃない……ありゃま、ほんとに百点だ。でも先は長いぞ?」


 私と彩子ちゃんのやり取りは密やかに続いた。いずれ予備校の人間に気づかれるだろうと心配していたけれど、それもなかった。数百人分の用紙なんていちいち確認しないのかもしれない。

 彼女は面白がっているのか意地になっているのかわからないが、私を相手に競うように点数を上げていった。私にとって、彼女の成長は何よりも嬉しく、眩しかった。

 でも、夏が終わる頃。その輝きに、私が耐えられなくなった。


 ◎ ◎ ◎


「またかよ……」


 不採用の定型文を確認した私は机に突っ伏す。今回はいい線行ったと思ったのに。

 書類審査は割と通るけれど、面接がうまくいかない。いくら笑顔を作っても駄目なものは駄目。

 不採用通知が来るたびに、それまでの労力と時間を返せという気分になる。私の二十三歳はもっと輝いてるはずだった。なんでこんな狭いアパートの隅っこで鬱々としなきゃいけないんだ。

 ため息を吐き、ノートパソコンをしまう。それからいつものように採点バイトを始める。黙々と進めていると、彩子ちゃんの答案用紙が手元にあった。

 ――三教科百点取れたはずです!

 自信満々だった。確かに採点した国語は百点だ。全部の採点を終わらせてみると、彩子ちゃんは他にも社会と数学が百点を取っている。本人の言ったとおりで、これは中々に凄い。志望校を格上にしてもいいだろう。きっと親御さんも喜んでる。


 そんなお祝いコメントを赤ペンで書こうとしたけれど。

 手が、止まった。私は、イライラしている自分に気づく。

 彼女のことを素直に祝えない自分がいる。ぐんぐん成長していく彩子ちゃんに劣等感を抱いている。私だけ取り残されているような寂しさを覚えている。

 彩子ちゃんは何も悪くない。悪いのは自分だ。そんな自己嫌悪も混ざって、コメントを返す気にならなかった。

 結局、何も書かずに返した。


 ◎ ◎ ◎


 ――スラスラ解ける! あたしって結構凄いかも?

 今回の答案用紙にも文字が書いてあった。私は無視した。


 ――そろそろ死ねるかな。

 いい加減もう気づきなよ。返事できないとか、したくないって、わかるでしょ。


 秋が過ぎて冬が来る。私の日常は変わらない。相変わらず就職は決まらないし、バイトばかりの生活だ。

 来年になってもこのままだったら、いっそフリーターのまま行こうか。

 面接の帰りにぼんやりと考え事していた私は、家のポストに分厚い封筒が突っ込まれているのに気づく。また採点のバイトだ。

 家に入って封筒を放り投げる。と、そこで私は、今の時期の重要さを思い出した。

 そろそろ高校受験だ。模擬試験も終わる。

 彩子ちゃんからのコメントも、終わる。


 気づけば私は封を開けて彩子ちゃんの答案用紙を探していた。用紙の束に苛立ちながら彼女のものを見つけて、裏面を確かめる。

 今回の文章は、長かった。


 ――お返事がなくなったことをとても気にしています。もしかして怒られたとか? でも違う理由なら……私が傷つけたかもしれない。許してくれるまで謝りたいです。でも模擬試験はこれが最後だから。だから、条件を変えます。もし五教科満点を取れたら、返事をください。


 答案用紙を握る手が震えた。わけもなく胸が苦しくなって、視界が滲む。

 私は彩子ちゃんの答案用紙を五教科分探し出し、スーツ姿のまま赤ペンを走らせる。満点、満点、満点、満点。あとひとつ。

 

「っ……」


 チェックマークが入る。ケアレスミスで、満点を逃した。

 彼女の希望は叶わない。

 私は脱力して、答案用紙を見つめる。最後の最後くらいおまけしてくれたっていいじゃない、神様。

 この子がずっと頑張ってきたことは、この私がずっとずっと、見てきて知ってるんだから。


「……そうだよ」


 私は満点を逃した答案用紙の氏名欄に、赤ペンで花丸を付ける。そして、とても綺麗に書けているからプラス点をあげる、と書き記す。


「頑張ってる子が報われて、何がいけないのよ」


 裏面を向けて赤ペンを走らせる。伝えたい気持ちを綴る。


 ――あなたはよく頑張りました。きっとこれから先も頑張れるよ。だから死ぬなんて言わないで。私も、あなたみたいに頑張るから。


 頬をつたう涙を袖で拭う。彼女を傷つけてしまったことを後悔しながら、心の中で思う。

 彼女は満点を取ってまで話そうとしてくれた。その気持ちに相応しい女性でいたい。

 まだ諦めるべきじゃないと、自分に言い聞かせた。


 ◎ ◎ ◎


 春が来た。私は予備校から呼び出しを受け一通の手紙を受け取った。

 差出人は彩子ちゃん。宛名は、裏紙の人へ。

 コメントのやりとりはとっくに予備校側にバレていたが、管理職の人が気を利かせて黙認してくれていた。だからその手紙はすぐ私に届くことができた。

 手紙には、親の離婚で塞ぎ込んでいたこと、自殺を考えていたこと、コメントで変われたことが綴られていた。

 そして最後に、私を救ってくれてありがとう、と書かれていた。

 手紙を読みながらニヤニヤ歩いていると、着信が鳴る。


「えっ! 採用ですか!? あ、ありがとうございます! はい! すぐに準備しますので――」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

テストと赤ペンと自殺願望 伊乙志紀(いとしき) @iotu_shiki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ