本の無くなる日

くら智一

本の無くなる日

 西暦2064年10月10日。日本では旧オリンピックから100年目を数える良き日に首都東京では、ある式典が執り行われようとしていた。


 スマートフォン、タブレットによる電子書籍が一般化した今、前世代の遺物となった紙書籍を追悼するため、「本を弔う日」を制定しようというのだ。


 新しく移転した都庁前から続く渋谷道玄坂には、出版関係の人間を初めとして、作家、ジャーナリストといったペンを片手に仕事してきた者たちが整列し、携帯端末会社の用意したパレードを待ち構えていた。


 10月10日という日付は「読書の秋」真っ盛りであり、旧「体育の日」の代わりとする意味合いもあった。


 新たに歴史的な1日を加えんがため、式典は派手に開催される予定であった。


 ひとつ問題となったのは、中秋と呼ばれるこの時期は天候が不安定なことだった。特に近年は台風の災禍が巨大化し、運悪く暴風雨が式典と重なってしまった場合、例え防水処理を施した機材であっても確実に動く保証は無い。


 天候条件に注目が集まる中、式典の数日前から巨大な熱帯低気圧が近づくニュースが報じられた。落胆する者もいたが、関係者は開催の決行を発表し、当日に臨むこととなった――。


「遅かれ早かれこういった日が訪れるものだと思っていたが、存外あっさり来たな」


 道玄坂をはさんで立ち並んでいた1人がスマートフォンの画面をスワイプしながら呟いた。


「私たちは技術に順応することも求められていますから、仕方ないことでしょう」


 隣の男が同じくスマートフォン片手に返答した。


「……まぁ、おかげで書斎が本で埋め尽くされることはなくなった。俺と同じく親父も作家だったが、幼い日の記憶をたどると、仕事場はカビくさい本で埋め尽くされていたな」


「そうですね。私共が勤める出版社も紙媒体がほとんどなくなったからか、数十年前までの面影が全くありませんよ。今ではスタイリッシュな職場として報道されるぐらいになりました」


「うんうん、情報技術というものは、俺たちのようにペンで戦う人間に最適な環境を用意してくれた。昔に戻れ、と言われたら転職を考えてしまうよ」


「先生……キツい冗談は勘弁してください。たぶんそんな日は来ませんでしょうけれど」


 前日の大雨という予報が嘘であるかのように、式典当日は降雨が確認されなかった。鈍色にびいろ曇天どんてんではあったが、野外イベントに一切支障はない。


 式典の開会を宣言するように上空で花火の音がすると、やがて道玄坂の道路をスマートフォンをモチーフにしたぬいぐるみがパレードをし始めた。中には悪ふざけなのか、棺桶に入った紙のキャラクターを通信端末が運ぶものもあったが、不謹慎だと怒る者はおらず、せいぜい失笑を買う程度だった。


 天候に問題なければ、最新VRを駆使したパフォーマンスが実施されるはずだった。ぬいぐるみが道を練り歩くのは、前世代的というか、何か道化じみた印象を与えている。


「……まったく低予算だな。山ほど儲けたスポンサーがついているのに、こんな茶番はないだろう」


「先生、懐かしいのはぬいぐるみの行進だけではないらしいですよ」


 男は作家の手にぽんっと、紙の束を乗せた。


「今日のパンフレットだそうです。古き良きA4の紙にインクで印刷したという安価なものです。式典の情報も文字だけで描写するとか、本当にチープですね」


「懐かしいな……。俺が学生の頃は卒業論文を紙媒体で提出する者と電子媒体で提出する者が半々だった。今では考えられないことだ。50対50が時を経て、0対100になってしまったわけだ」


「……あっ、次の束が来ました。隣に手渡しで運んでいくようですね」


 紐で丁寧に綴じられたA4の紙の束が式典の運営本部から道の両脇に並ぶ人に次々と渡されているようだ。


「……ん? なんか紙が濡れてるな。雨が降ったような雰囲気はなかったんだけどな」


「不備のありそうなものは、面倒になる前に早く隣へ渡してしまいましょう」


「……なんだ、君。ちょっと涙ぐんでいるんじゃないのか?」


「すみません。私みたいな出版社に勤める者にとってインクの匂いは懐かしいんです。つい、昔を思い出してしまって……」


 男は紙の束を隣に手渡しながら、鼻をすすり始めた。


「おい、大丈夫か? アレルギーか何かじゃないのか? しばらくインクの匂いなんて嗅ぐ機会はなかったからな」


「そうかもしれません。ちょっと失礼……」


 ズビーッ、ズルズルズル……。ズビーッ、ズビーッ!


「ははは、本を弔う日らしくなってきたじゃあないか。まあ、インクと言えば、親父の職場にも常にインクの匂いが漂っていたな。万年筆の香りも似たようなもんだった。文字文化における『ペンの香り』だったんだろう」


「さすが、先生。おっしゃることがお洒落です。なんだか、先生も心なしか目が赤くなっているんじゃないですか?」


「……ちょっと、親父のことを思い出してね。私がプロになったときにプレゼントしてくれたのが万年筆だったんだよ。今まで装飾品としか考えてなかったんだが、一度使ってみてもいいかもしれないな」


 作家も昔の出来事に想いを馳せたのか、スマートフォンを懐にしまってハンカチを取り出した。


 不思議なことに同じような現象は各所で起こっていた。A4用紙の束を手渡している者たちが涙を流し、鼻水を垂らし始めた。


 式典の挨拶が始まっても、おかしな出来事は続いた。


「お集まりの皆様、ありがとうございます。以前より『ペンは剣より強し』などと申しますが、今や電子書籍がペンに取って代わったのです。今、私が持っている手書きの原稿もおそらく最後になるでしょう。天候の問題がなければ、手に持っていたのはタブレットだったはずです。原稿を見て思い起こすのは……思い起こすのは……」


 式典を開催した代表者でさえ、久しぶりに手にした紙の原稿を手にして嗚咽を漏らした。原稿が涙で濡れてしまうほどだった。


「おいおい……、大丈夫なのか? なんだか周囲に伝染しているみたいだが」


「わかりません。なぜか、涙が出てくるんです。不思議なことです。紙に魔力でも宿っているかのようです……」


 この日、紙には何も細工はなかった。何の変哲もない普通の紙だった――。「本を弔う日」の式典は参加者が涙に暮れる中、滞りなく終わったが、この奇妙な現象は、アレルギーやら集団心理の暴走やら様々な憶測が立てられた。


 そして――


 紙の書籍、「本」は消えるどころか、再び脚光を浴びることになる。文字を紙に書く、という数千年続けられてきた文化は、単純に出来事を記録するだけではなかったらしい。紙の匂い、ペンの匂いがまるで生理現象のごとく人間の身体に作用しているのではないか、といった言説も唱えられた。


 西暦2064年10月10日は、「本」を再評価するきっかけになった日として、後世に語り継がれることとなった。



<終>




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