第17話「恋愛の教祖」

 照明が落ち、左斜め後方の関係者用の通用口から、古内東子さんとギタリストの男性が現れた。

 東子さんは十センチ以上ありそうなハイヒールパンプスを履いており、観客の拍手のあいまにコツコツと小気味よい靴音が響く。


「あそこから出てくるんですね。すごい……」

 堀合が、意表を突かれた様子で小声でつぶやく。

 一般的なライブではステージの脇から登場するのが普通なので、頷ける反応だ。

 

 左サイドのボックス席を横切り、中央のステージへ。客席から見てステージの右側にギタリスト、左側に東子さんという、普段どおりの位置取りだ。

 漆黒のグランドピアノの前に腰かけ、ゆったりとした所作で鍵盤に手をかける。先月発売した新しいアルバムの表題曲『After the Rain』で幕開けとなった。“賑やかなパーティーは苦手よ”という歌詞が、シンプルながらも共感できる良曲だ。

 

 場内はステージ以外の照明はほぼ落とされているが、多くの客が酒や食事を味わいながら、それぞれのペースでくつろいでいる。時折、皿にフォークやナイフのこすれる音が、歌声の手前で不快にならない程度のヴォリウムで耳に触れる。

 二曲目は『Bye-bye Bluebird』。新作の中でも特に気に入りの曲で、胸が締め付けられるようなサビの歌い方が俺好みだ。間奏のギターソロも泣ける。じんわりとした深みのある歌声に、堀合も聴き入っているように見える。

 

 一人で好き勝手、割高な酒肴しゅこうで舌を喜ばせつつ目の前の演奏に傾注するのも、実に意義深いことに違いない。

 しかし、今日のように他人と一緒に、それもそこそこの器量の女と隣り合わせに座って鑑賞するライブは、見慣れた歌手でもまるで初めて見るかのような瑞々しい新鮮さが心の奥底から湧き出てくる。同時に、自分自身が客観的に見ておおいに価値ある男であるというこの上なく恣意的な感情が付随することを、俺は今まで知らなかった。

 隣に座る女の存在を受けて多少の緊張感を伴わないでもないが、それもまた愉快だった。陶酔めいた感情を高揚させこそすれ、阻害することはない。

 

 東子さんのライブにはいつも男女のカップル――それも、ある程度人間的に成熟して心にゆとりを余したような――が多く来ており、奴らはいつもこんな洒落た気分に浸っていたのかと思うと、この野郎と男のほうに蹴りのひとつでもかましてやりたくなってくるが、ようやく俺も同じステージに立てたかとホッと安心し、熱い緑茶でもすすりたい気分になった。


 その後、新しいアルバムから三曲ほど演奏され、代表曲『誰より好きなのに』へ。イントロのフレーズが弾かれると場内が少しばかりどよめくのは毎度のことだ。堀合はおそらく知らない曲ばかりだろうが、じっとステージを見つめている。ちょうど近くをスタッフが通ったので、挙手して二杯目の白ワインを注文する。

 初期の楽曲をいくつかはさみ、そろそろアンコール前のラストかと思っていたところで東子さんのMCになった。


「今年で、めでたくデビュー二十五周年を迎えさせていただきました。皆さん応援ありがとうございます!」

 客席から、大きな拍手と歓喜の声が生じる。


「皆さんご存知かもしれませんが、昔からメディアで紹介されるときには、“恋愛の教祖”とか“恋愛の神様”なんていう畏れ多い言葉をいただくことが多くてですね。その言葉どおり、私の曲は恋愛について歌ったものしかないのですが、ほとんどがしみったれた感じの歌詞なんですよね。振られたとか裏切られたとか逢えないとか、そんなのばっかりです。なのでカップルでいらっしゃっている方には、ホントに私の曲でいいのかなと思うんですよね。ということで、大丈夫?」

 

 自虐ともいえる切れ味鋭いトークに、会場から笑い声がもれた。それまで一定の表情で何を思っているのか読み取れなかった堀合も、思わず相好を崩している。スタッフが中腰の格好で、先ほど俺がオーダーした白ワインを持ってきた。

 

 別段、俺はラブソングを好んで聴くほうではない。むしろ甘ったるくて頭ん中お花畑状態みたいな流行の恋愛ソングには、吐き気を覚えたことも一度や二度じゃない。あるいは、悲恋だとか失恋だとかを薄っぺらい歌詞で綴って甲高い声を張り上げたり、泣きそうな面かまして歌うような歌手もまっぴらごめんだ。古内東子さんの曲は、でも俺の心に妙にまとわりついて離れなかった。

 

 最初から好きだったかというとそんなことはなく、似たような気怠い曲調ばかりに思えていまいちハマれなかった。

 アルバム『10 stories』をジャケ買いして二、三周し、それからしばらく放置していたが、聴かない間も俺の頭の隅のほうで、彼女の曲のどこかしらのフレーズがうろついていた。あの時点では特に気に入っていたわけではないとしても、一聴した時点で、彼女の創る言葉や旋律たちに見事に捕らわれていたのだろう。アルバムを聴き直し、じわりじわりと時間をかけてその深淵さを咀嚼できるようになった。

 これまでろくな異性交流をしてこなかった自分にとって、彼女の曲に漂う気怠さや儚さ、妙にリアリティのある行動描写などは、まるで自分自身がその世界の中で様々な恋をしているかのような感覚を起こさせるにはうってつけだった。


「でも、前向きな内容の曲もあるんですよ。少しだけ。『コンパス』という曲です。恋愛だけでなく、みなさんが日々の生活の中で、迷いだとか不安だとか焦りだとかを感じて行き先を見失いそうになったとき、ふっと背中を押してあげられるような曲であればいいなと思って作りました。聴いて下さい」


 俺は、胸中で快哉かいさいを叫んだ。

 なにしろ『コンパス』は彼女の曲の中でも一、二を争うほどに気に入りで、しかもこれまでに参加したライブでは聴いたことがなかった。その曲を、この特別な状況下で堪能できるのはまさしく僥倖ぎょうこうだ。次のライブでまたってくれる保証はないので、一音も逃さないように聴き入った。

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