闇夜に宿る星

久遠マリ

あなたがはじめて

「……何を書いているのかな?」

 眠そうなとろりと柔らかい声が聞こえて、私はその主を見やった。

 夜半、喉が渇いて目が覚め、水差しから冷たい水を情事で掠れた喉に流し込み、潤いを得て、ふと思ったのだ。可愛い妹と同じ機会とはいえ、謝罪の一つもなく、ここまで来てしまったことを。

 美しい透かし彫りの施された小机の引き出しの中にあった硝子のペンと、夜空と数多の星を集めて砕いたような色のインク、手触りの良い紙を拝借して、手紙を書いていた。この部屋のものは自由にしてよい、と、部屋の主――この国の皇子には言われている。手前にあった椅子はちょうどいい高さで、座所は柔らかい綿が詰めてあって、激しく揺さぶられた腰をすっぽりと包んでくれた。

「手紙を」

「見ればわかるよ」

「内容でございますか」

「そうだよ。ねえ、堅苦しいねえ、ラーオメイ。さっきまで、触っていないところなんてないくらいに、お互い、とろけていたのに」

「……ナランジュ様は、いつもこうなのですか」

 一糸纏わぬ美しい神代の雄が、赤銅色の長い髪に彩られて、褥の上で此方を見ている。

「シーヴィをはじめとして、皆がしっかりしているからね、私はこのくらいがちょうどいい」

 冷えていないかい、と付け足しながら、彼は前合わせの薄い羽織だけを素肌の上に纏って寝台から降り、私の肩を背から優しく抱いてくれた。あたたかくて安心する。陽だまりのような人。

「手紙は、リーンメイに?」

「ええ」

「ハリエンジも、まんざらでもないみたいだよ」

「それは、ようございました」

「南の戦姫が二人して北に嫁に来るのもどうかと思うけれど」

「私に他の手段を取ることができれば、よかったかもしれませぬ」

 私の肩に、さらりさらりと音を立てて、炎を思わせる色の髪が零れ落ちてくる。拗ねた声が、吐息と一緒にうなじへ落ちてきた。

「私に、あなたを手放せと?」

「これは政略にございます」

「せっかくもらった綺麗で思いやりのあるお嫁さんとの、すごく気持ちいい初めてだったのに」

「……それは、ようございました」

 私だって、少し苦しかったけれど、充足は得られた。美しい人の雄が己の上で欲情している姿など、滅多に拝めるものではないだろう。それを見られただけでも満足である。ナランジュ・レルテ=ライデンという人は、捉えどころのないのらりくらりとした態度の第一皇子だ、と周辺の国からは評されているようだが、その実、物腰が柔らかく、政治のにおいに敏感で、機を見誤らぬ。

 こと、戦においては何度も煮え湯を飲まされてきた。大地の精霊王クレリアの加護を失った国を救う為、アルクナウ=ライデン皇国を飲んで北の港に集う富を奪取せよ、とは、父王の命であった。私は第一王女の威信をかけて勝利を得られるように邁進してきたつもりだった。しかし、勝てるであろうと踏んだ戦では、白梟に蹂躙され、たった五人の土術師に散々引っ掻き回され。命を落とした者はごく少数ではあるが、戦意喪失した者の多いこと。戦線離脱する者が増えていき、戦をやっている場合ではない、と、我が妹にして第二王女のリーンメイは、六度目の戦でアルクナウ=ライデン皇国の将軍のもとに下った。

 時を同じくして、北の国に屈した父王は、詫びの品として、私を北国に贈ったのである。敗戦を重ねた王女など、我がインル・ファ・シリンに必要だろうか。事実上の厄介払いである。

 それを、面白い、と言って、さっきまで抱いていたのが、ナランジュ・レルテ=ライデン。

 意味不明だったが、雄の体温は私を慰めた。

「ねえ、私にも書かせて、その手紙」

「……仰せのままに」

 椅子を引いて場所を空けると、彼はその美しいかんばせに微苦笑を浮かべる。

「堅苦しくしないでほしいなあ。まだ、緊張している?」

「これが常でございますれば」

「私はこんなに興奮しているのに?」

 私は彼を見て、うっかり目を逸らしてしまった。くすくすと笑うのが聞こえてきた、と思ったら、椅子と身体の間に腕を入れられ、抱え上げられていた。妹を娶った将軍でなくとも、男というのはこんなに力が強いものなのか。

 リーンメイに、この驚きを伝えたい、と思った。私を呆れた目で見ていることの多かった妹だから、顔を合わせてくれるかどうかも怪しい。だけれど、赤銅色をした髪が乱れる様や、柔らかな言葉とは裏腹に強い力のこと、このインクにちりばめられているきらきらした粉のような光が瞬く好奇心旺盛な瞳。妹の相手はどのような男なのか、訊いてみたいと思った。

 あの子が幸せなら良いと思った。

「さあ、もう一回しよう。私はあれが気に入ったよ」

「ナランジュ様」

「後で書き加えるから、まだ、そのままにしておいてね」

 会って話してみたいね、と、彼は言う。心を砕いてくれているのが、その表情から、わかる。

 これこそがおそらく人を導く器。

 そして今、器の上に乗るのは私。暁色の髪が敷布の上に広がっている。夜空をいっぱいに吸い込んだ彼のペンが、紙のようにまっさらだった私の身体に沢山の星を植え付けていく。

 夜は長い。


お題「紙とペンと閨」

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闇夜に宿る星 久遠マリ @barkies

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