君と僕との3.14

倉海葉音

君と僕との3.14

 3月14日、ホワイトデー。

 僕は、今から女の子に告白をしようと思っている。

 だけど僕の好きな人は、空き教室の机の上に立って、床に広げた模造紙に淡々とペンを落としている。



 …………。


 いや、何やってるんですか?



 西尾にしおまどか。通称、理系教科のエキスパート。

 地域で一番を誇るこの高校において、数学も理科も、常に学年トップクラス。特に数学は、高校1年生の4月から、高校2年生の今に至るまで全て1位を取っている。


 そんな彼女は、放課後、いつもこの空き教室にこもって勉強を行う。友人も言葉も少ない彼女はミステリアスな存在で、大学の数学を独学しているとも、受験で絶対に使わない地学の独習をしているとも言われている。

 だけど、実験をしているとは、さすがに聞いたことが無い。



 僕は部屋の戸口に立ったまま、16時半の夕陽が照らす教室の中を、ポカンと眺めている。


 部屋の中央に机が1つ、下には模造紙。

 彼女は手を振りながら小さなペンを落とし、下に降り、机に2つ置いている銀色のカウンタの片方を押して、ペンを拾い上げ、また元の位置に戻る。

 単調な動作の繰り返しなのに、彼女の所作はとても美しい。


 手の振り方が柔らかい。降りるときもスムーズで、椅子に右足、床に左足と一切のムダがない。腰の曲げ方まで美しく、豊かに実った稲穂のよう。僕でなくとも、思わず見惚れてしまうだろう。


 そう、彼女は美しい。

 涼やかな目、すらりと流れる黒い長髪、細身で高身長、服の上からでも形の良さが分かる胸元。謎に満ちた姿と相まって、密かに彼女を狙う男子は多い。

 だから、僕は今日のチャンスを逃す訳にはいかない。

 でも、彼女のあまりの真剣さを前にして、声をかけられない。


 長い髪は後ろに束ねているし、なんと上下ともに体操服だ。机から降りる度にジャージのズボンの下側にあるファスナーが揺れている。

 僕と彼女は同じクラスだが、今日は体育の授業が無かった。この実験のために持ってきたのか? 本気だ、本気すぎる。

 

「あれ、三石みついしくん?」


 僕は慌てて右手を後ろに回す。プレゼントを持ったままだった。

 今日はホワイトデーで、彼女の誕生日でもある。百貨店までわざわざ行って選んできたものだ。


「西尾さん、何やってるの、それ」

「ええと、実験、かな」


 澄んだ声で話しながらも、彼女は動きを止めない。このまま話していて良いのか非常に気になるが、いやいや目の前にある人生最大クラスの謎を明かす方が優先だろ、と決心した。


「実験って、物理とか? 重力?」

「ううん、数学」


 ビュフォンの針、と彼女は言った。


「等間隔に平行線が引かれた床の上に、その半分の長さの針を何度も落としたとき、線と交差する確率を求める」


 彼女はどこか楽しげだ。教室で数学をやっているときに、彼女が時折見せる顔。

 確率か。学校で習った知識を色々当てはめようとしたが、彼女の問題には、そのいずれの解法も使えなさそうだ。


「いくらになるの、それ」


 僕も数学は好きだ。純粋に気になる。


「パイ」

「はい?」

「円周率、π分の1」


 いや、円、どこにもないよ!?

 床には平行線が引かれているし、よく見ればペンもその間隔の半分の長さだ。しかし、いずれも円形ではない。


 気になる。どうやって求めるのか、すごく気になる。

 だけど、それ以上に、彼女が「今」「ここで」「ビュフォンの針の実験をしている理由」の方をどう考えても気にするべきだ。



「あの、なんで」


 そのとき僕は彼女の変調に気が付いた。彼女の顔には薄笑いが貼り付いている。息も僅かに切らしている。陸上部だった僕には分かる。ちょっとしたハイ状態だ。

 そして、部活に属していない彼女は、恐らく体力があまりない。


「それ、何回やるの?」


 心配のあまり、僕は質問を変えてみた。


「そうだね、最低でも、710回」

「7……!?」

「円周率の近似値、355/113。母数が欲しいから355の2倍で710。絶対、今日中に」


 1サイクルあたり10秒としても、約2時間。それも理想的に進めばの話で、彼女のペースはこの数分でも明らかに落ちてきている。

 16時前から始めていたとしても、下校時間の18時に間に合うのか。それに、もし机の上から落ちたりしたら大惨事になりかねない。


「西尾さん、代わるよ」

「ダメ!」


 ほとんど叫び声に近かった。彼女は、自分でも思いの外に大きな声だったのか、恥ずかしそうに口をむずつかせている。


「ダメなの、私が1人でやらないと。これは願掛けだから」


 しかも、三石くんには、と彼女は小さく呟いた。


 僕が関係している? 少し胸が高鳴る。彼女とは何度か話したことがある程度で、僕が一方的に意識しているだけだと思っていた。


 それとも、成績関連かな、と考えてみる。僕は彼女と共に常に学年上位争いをしているから。

 それは、僕が彼女を意識するようになった理由でもある。



 地元の中学で、僕は数学の天才と呼ばれていた。

 学校でも塾でもトップ。中学3年生の秋、平均点30点代という明らかに何か配分を間違えている実力テストでも、僕だけは80点を超えていた。

 それなのに、この高校に入ってから、僕は常に2番手に甘んじている。

 最初は、悔しい、なぜだ、という気持ちしか無かった。やがて西尾まどかが1位を取り続けていると知ってからは、嫉妬が生まれた。2年生で同じクラスになってからは、澄ました表情で数学を解く彼女を、憎しみを込めて睨み続けていた。

 だけど、眺めている内に彼女の魅力に気付いてしまい、いつしか、僕は恋に落ちてしまっていた。



 床に落ちたペンを拾う。


 見上げると、彼女は目を丸くしている。僕は彼女に向けてペンを差し出す。


「危ないよ。せめて、これくらい手伝わせて」


 彼女は少し逡巡していたが、僕の眼差しを理解してくれたらしい。頷いて、1つ息を吐き、ペンを受け取った。

 僕は精一杯の笑顔を浮かべて、カウンタを押す。


 作業は続いていく。彼女がランダムにペンを落とし、僕がカウンタを押して、ペンを拾い上げる。彼女はそれを受け取り、また次の体勢に移る。


 初めての共同作業、なんてことを思った。下りていくのはナイフではなく黒いペンで、横切られるのはケーキではなく白い模造紙だが。

 そんなことは別にして、僕はなんだか楽しくなってきていた。夕暮れ時、薄暗い教室。好きな人と、1つのことを目指して作業をする。彼女も嬉しそうにはにかんでいる。

 客観的に見れば変な状況だが、お互いに楽しんでいるのならいいじゃないか。



 高校1年生の冬、足の怪我で陸上部を辞めて、僕は熱くなれるものを1つ見失った。

 それならせめて、と勉強に集中することにした。彼女に嫉妬していたのはそういう理由もある。こんなに頑張っているのに、なんで勝てないんだ、と。

 彼女に恋をしてから、僕は少しずつ、何かに恋い焦がれるということの良さを思い出していた。

 だから、こんな状況、アツくて嬉しいに決まっている。



「709回!」


 僕はカウンタを押しながら言った。彼女の体が少しこわばる。


 現在、709/225。次、線の上に跨がれば、目標達成となる。


「慎重にね」


 ランダムでないと、この実験の意味は無くなる。分かっている、と彼女は1つ頷く。

 天を見上げて、手を揺らして、彼女はペンを右手から離した。




「……226!」




 っしゃあ、と僕は飛び上がった。彼女も珍しく口に手を当てて興奮している。

 そのとき、机が傾いた。



「あぶない!」



 落ちてきた彼女を抱きとめようとして、ふらつき、2人で床に倒れ込んだ。机は倒れ、模造紙がびりっと音を立てる。ペンが教室の前の方へ転がっていく。


「西尾さん、大丈夫?」

「うん、なんとか。三石くんは?」

「僕も平気」


 平気ではない。彼女の顔が真横数センチの距離にあるし、あの丸く形の良い胸が僕の胸元に当たっている。体操服だと余計に際立つ。π、いやこれはパイ、という非常に最低な思考をなんとか頭から払拭しようとする。



「三石くん、あのね」


 彼女の目が、僕と正面から向き合う。


「これが成功したら、言おうと思っていたの」

「……何?」



「三石くん。私と、結婚してください!」



 け、けっこんんんんん!?!?!?



 いや全く意味が分からないし、まだ付き合ってすらいないし僕17歳だし、でも彼女の瞳は真剣そのもので、唇はかすかに震えている。

 おい自分。男だろ、しっかりしろ。



「……結婚はまだ早いけど。僕も、西尾さんのことが好きです。付き合ってください!」


 彼女の顔が輝く。上からぎゅうっと抱きしめられる。だから円周率が、いやパイが、いやもうどうでもいい。成功した。西尾まどかと、お付き合いできるんだ。



「私、嬉しい」

「僕も嬉しいよ」

「これで、カンペキになるの」

「カンペキ?」

「うん、だってね。三石くんと結婚したら、3月14日生まれの三石まどかなの!」



 僕は少し頭を働かせた。




 三石3.14 まどか



 

(えっそんな理由?)

 慌てて口をつぐんだ。いや、いいんだ。僕は彼女と付き合いたかったし、彼女は僕と付き合う理由がある。それで良いはずだ。


「あっ、でも、その、三石くんみたいな頭のいい人だと、一緒にいて楽しいかなっていうのも事実だよ!」

「うっ、うん」


 そのフォローは一体何なのか。その必死さが本心だと信じよう、うん。


「ところで、今日、どうしてここに来たの?」

「あっ」


 名残惜しくも僕は立ち上がり、教室の前の机に置いていたプレゼントを手に取る。


「今日、ホワイトデーで、西尾さんの誕生日だから」


 彼女は嬉しそうに受け取り、包装を開けた。

 中身は、太陽系の惑星をモチーフにした、まんまるなキャンディだ。


「ホワイトデーと言えばキャンディだし、理系な西尾さんにぴったりな感じで」


 少し照れくさくなりながら僕は言う。彼女は、うわあ、きれい! と楽しげに眺めている。

 さっきから思っていたが、彼女、意外と表情豊かだ。ころころ変わって楽しい。うん、やっぱり、今日告白して正解だったのかな。

 


「あ、そうだ、三石くん!」

「何?」


「実は、他にもやりたい数学の実験があってね。協力してくれる? 新聞紙の全部の面から……」



 やれやれ。



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君と僕との3.14 倉海葉音 @hano888_yaw444

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