紙とペン、それから筋肉

南乃 展示

第1話

 

「いや筋肉だろうな、筋肉以外にはない」


 私が会いにいった時、その人はそう即答した。


 その人は腕立て伏せの真っ最中だった。


「物書きって人種はな……フーッ! フンッ……ペンと紙、フン……ッ、そして筋肉から構成されているものなんだ」


 たぶん違う気がしたが、黙って頷いておく。

 タタミ六畳の部屋に熱気が充満してきていた。


「むしろぉ……ッ! オレ達はそれ以外にはいらねぇ……! フン……ヌ……ヌゥッ!! ハァ……作家の中には1日3食を筋トレで済ます超人もいるらしい」


 まず、筋トレは食事に数えていいものだろうか。

 それは超人というかただの人外ではなかろうか。


「もちろん……ハァ……オレはまだその領域には到達してねぇからな……ッ! がっつりメシは食うぜ、タンパク質とプロテイン、それとアミノ酸を摂らにゃな……ァ! フゥンッ!」


 喋るか筋トレかのどちらかに集中するという考え方はないようだった。

 ちなみに彼が挙げた3つは全て同じものである。

 プロテインとプロテインと、プロテインの分解物である。


「オメーもよ……ォ! わかるだろ……ォ?」


 首を横には振れない空気だったので、頷いておく。


 彼の着ているピッチリしたシャツは汗で濡れて変色したうえでさらにピッチリと身体にくっつき、頭からはもうもうと湯気が立ち昇っていた。

 部屋の隅の加湿器、あれ別に要らない気がする。


「ホゥッ……筋肉は裏切らねえ……! ホッ、ホゥッ……! 筋トレは全てに通じるってよ……ホゥッ!」


 フクロウの鳴き真似でもないし、ゴリラの威嚇でもない。

 彼のセリフである。


 腕立て伏せの勢いはいよいよ佳境を迎えてきたようで、彼の上体はもう分身したかのようにブレて見えるほど速く動いていた。

 たぶんカメラでコマ撮りしないと正確に映らないだろう。


「ホゥッ……ァ!! ホゥッ……ァァ!!」


 むしろ逆にゆっくり動いて見えるほどだった。

 扇風機の羽みたいだ、と私は湯気を浴びつつ思った。


「フゥーッ……! これでェ……っ、1セット、終わりだ!」


 最後に腕をグッと突っ張ってから、ドウっと畳に彼は倒れ込んだ。

 満足げな表情だった。


「よし、今なら最高のフレーズが出せるッ! 出せッぞ!」


 倒れたまま彼は前に這いずり、そこらへんに転がっていたペンを握って畳に置かれた原稿に向かった。

 イイ笑顔でペンを走らせる。


「『えっ……?』とミサキは呟くと、ゆっくりと目を閉じた。『こんなボクで良ければ、うん……』とツトムも返すと、2人の隙間は磁力が働いたかのように縮まっていき……」


 彼は基本、ラブコメタグの物書きだった。

 激甘のやつだ。


 そして、紙は湿気と腕から滴る汗でびちゃびちゃだった。


「よしッ……! "レモン色ハニー♡スイート"の更新分は書けた……ぜッ!!」


 正確には変色した紙にはほとんど文字が書けていなかったが、きっと後で清書でもするのかもしれない。

 あるいはパソコンに打ち込むのだろう、と私はポジティブに解釈することにした。


「次は腹筋の時間だな……上腕二頭筋ばかりと付き合ってたらオレのシックスパックがスネちまうからなぁ……っ!」


 自分の身体が自分にねるとは、難儀なことだった。


 その人はスマホを手に取ると、仰向けになってから腕を交差させて上体を激しく前後させ始めた。


「……ッシャ! ッシャオラッ!」


 スマホの顔認証に失敗し、手打ちでパスコードを打ち込んでからメモアプリを開く彼。


 たぶん筋トレの時の表情は顔認証に登録していなかったのだろう。


「ッシャ! 腹筋……今日もイイ感じじゃねえか……シャァ!! なあオイ……ッ?」


 おそらく自身の筋肉に語りかけているのだと思うが、念のために私も頷いておく。


「今日は"悪役令嬢なワタシが雪国の王子様に誘われて亡命した件について"の更新日だしなぁ……ッシャ! 気合い入れていくぜ……ッシャ!」


 彼は悪役令嬢モノも書いていたッシャ。


「ホッ……ホッ……! そろそろ第二王子出して……ェ! やっぱり逆ハーはイイよなぁ、胸筋が踊るぜ……ッハ!!」


 息もつかせぬ勢いで鍛え抜かれた指先がスマホを突き、新たな雪国の美青年の登場を爽やかに表現していく。


 部屋には熱帯低気圧じみた湯気が天井に集まり、南国のスコール発生を思わせる雨雲のように渦巻いていた。


「シャ! ……ッシャーセ! シャーセッ!」


 そんな感じのやつ、コンビニのチャラい店員がよく言ってるなぁ、などと思いつつ彼を眺める。


 徐々に腹筋は加速して、エンジンのピストン運動のような勢いで規則的に部屋を振動させ始めていた。


「ッシャー……セ!! くそ、スマホだとやっぱり筋トレについてこれねぇ……文字が打ちづれぇッ!! やっぱ"雪国令嬢"も紙原稿に移すか……!? ……ショイ、ヤァ!」


 見ればスマホの液晶には多量の水滴が付いていた。

 水滴というか、もうお風呂に落ちたみたいなズブ濡れになっていた。

 ギリギリ耐水性のおかげで耐えてるくらいの息も絶え絶えな状態だった。


「文字が……ッ!! 最高の文字が打てねェ……!! 筋肉から伝わる言葉が、これじゃダイレクトに文章表現にならねぇ……ッッ!!」


 私は見かねて、近くにあった紙とペンを彼に渡した。

 ビチャビチャになった紙を指でそっと摘まみ、よくサウナに置かれている焼き石に水をかけた直後のような状態になっている彼に、そっと遠くから紙を近づける。


「ありがてェ……!! ありがてェ……よッ!!」


 頭が高速で上下しているため、彼の声にはドップラー効果がかかっていた。


「やっぱ紙ッ! だよなァ……! セイッ……セイッ!! 紙、あったけえ! 紙はあったけえよッッ……!!」


 私は頷いた。


 上体と一緒に動くため、紙は空気と摩擦で擦れてビビビビ! ビビビビ! と音を立てていた。

 確かに、摩擦熱でだいぶ温かそうではあった。


「スマホじゃこうはいか……ッハ! こうはいかねぇ……! 紙とペンッ……! 文字を生み出すっ、感覚ゥ……!! 産んでる感があるのは、やッぱり紙とペンがピカイチよぉ……フゥァ!!」


 ひときわ大きな裏声で彼は唸ると、持っていたペン先が紙をビッと貫いた。


 ボールペンでは厳しそうなので油性ペンを渡す。


「『シェラード第一王子はネイト王子のその行動を、テラスの上から吹雪を思わせるような冷たい眼差しで見ていた』……ッフ! こっからはもうッ、王子同士のドロドロした奪い合いよぉ……ッシェ! ッシェ!」


 彼の服は汗でドロドロどころか、その一部が若干擦り切れ始めていた。

 脇腹のあたりのあの服の穴は、私が来た時にはなかったはずである。

 たぶん摩擦だろう。


「よしッ……! こいつもアガリよ! "雪国令嬢"は腹筋に限るよなァ……! なァ!?」


 耽美な表現にまみれた極太油性ペン筆記の文書を畳に置き、腹筋にまみれた彼はおもむろに立ち上がった。

 

 立った場所の畳がふやけ、ズッ……と足が沈んでいる。

 いつか湿気で床が抜けそうな予感がした。


「じゃ、次はスクワットしながら"乙女ゲーモブの私、裏ルート入ってモブだけど美形な彼と付き合っちゃいました!"を書くか……ッ!?」


 別にこれも私に聞いたわけではないのだろうけど、一応頷いておいた。


 彼は乙女ゲージャンルの物書きでもあったのだ。


「ハイッハイッ! ハイッハイッハイッ……ハイィッ!!」


 そうして彼はハイハイ言いながらスクワットを始めつつ、バインダーに挟んだ紙にペンを走らせ始めた。



 物書きには紙とペン、それと筋肉が大事なのだなあ。

 私はそう思った。



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